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第五話:日常への侵略者は制服を纏う
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倦怠感というものが質量を持つのなら、今朝の俺の身体は地球の重力を突き抜けるような重さを誇っているに違いない。
通学路のアスファルトを踏みしめる靴底の感覚が、やけに遠い。一歩進むたびに、足首に絡みついた疲労の鎖がジャラジャラと音を立てて引きずられるような錯覚に陥る。
原因は明白だ。昨夜、我が家の新たな支配者となった自称・戦乙女との間で交わされた、不平等条約の締結と、それに伴う祝勝会という名の無茶振りに付き合わされたからだ。
彼女は「契約の儀」と称して、俺に炭酸飲料を提供させ、さらにスルメの代わりにと冷蔵庫にあった竹輪を要求し、深夜まで天界の武勇伝――その大半が、いかにして上司の監視をかいくぐって美味しいものを食べたかという話だった――を語り続けた。
おかげで俺の睡眠時間は大幅に削られ、精神的な疲弊も相まって、ゾンビのような足取りで学校へ向かう羽目になっている。
「……あいつ、大人しくしてるだろうな」
独り言が口をついて出た。
今朝、俺が目を覚ました時、すでに部屋の主、もとい居候の姿はなかった。
いつもなら俺のベッドの半分を占拠して、布団を巻き込んでミノムシのようになっているはずの緑色のジャージ塊が見当たらなかったのだ。
テーブルの上には、「偵察任務に出る。朝飯は冷蔵庫のアイスを頂いた。感謝せよ」という、達筆すぎて読むのに苦労する書き置きが一枚。
いつ食べようかと、俺がささやかな楽しみにしていたものを、彼女は朝の挨拶代わりに奪っていったわけだ。
だが、食料の強奪よりも深刻なのは「偵察」という不穏な単語だ。
俺は昨夜、口を酸っぱくして言ったはずだ。目立つな、外で魔法を使うな、槍を振り回すな、と。
彼女は自信満々に頷いていたが、その自信の根拠がどこにあるのか、俺にはさっぱり見当がつかない。
もし、この通学路のどこかで、ジャージ姿の美少女が電柱相手に槍の稽古をしていたり、治安維持と称して野良猫を追い回していたりしたらどうしよう。
俺の脳裏に、警察署からの呼び出し電話という最悪の未来予想図が浮かび上がる。
校門が見えてきた。
今のところ、パトカーのサイレンも、爆発音も聞こえない。
校舎の壁に巨大なルーン文字が刻まれているようなこともないし、校庭にクレーターができている様子もない。
どうやら、最悪の事態は回避されたようだ。
俺は安堵の息を吐き出し、上履きに履き替えるために昇降口へと向かった。
教室に入ると、いつもの風景がそこにあった。
早弁をしている運動部員、昨日のテレビ番組の話で盛り上がる女子グループ、黙々と単語帳をめくる生徒。
俺の席は窓際の後ろから二番目という、物語の主人公にありがちな配置だが、俺自身には何の物語も発生しない特等席だ。
鞄を置き、椅子に座る。
硬い座面の感触に、少しだけ心が落ち着いた。
ここが俺の砦だ。あの台風のような同居人がいない、不可侵の領域。
今日一日、ここで静かに授業を受け、誰とも関わらず、平穏に過ごす。それだけでいい。それこそが幸福だ。
予鈴が鳴り、生徒たちがそれぞれの席に着く。
まもなくして、教室の引き戸がガララと乾いた音を立てて開いた。
入ってきたのは、担任の教師だ。四十代半ばの、事なかれ主義を絵に描いたような疲れた顔をした男性教師である。彼はいつも通り、出席簿を脇に抱え、気だるげに教壇に立った。
「えー、席につけ。ホームルームを始めるぞ」
先生の声には張りがない。いつものことだ。
俺は教科書を机に出す準備をしながら、あくびを噛み殺した。
今日の連絡事項は何だろうか。進路調査票の提出期限か、それとも来月の体育祭の実行委員選出か。どちらにせよ、俺にはあまり関係のない話だ。
「今日は、朝から大事な連絡がある」
担任の教師が、チョークの粉で白くなった手で頭をかいた。
その口調に、わずかな困惑というか、面倒くさそうな響きが含まれていたのが気になった。
「この時期に珍しいんだがな。転入生が来ている」
その言葉が落ちた瞬間、教室の空気が変わった。
停滞していた水面に石が投げ込まれたように、ざわめきが広がる。
二学期も半ばを過ぎたこの時期の転校生。それは退屈な日常に飢えている高校生たちにとって、格好の餌食であり、イベントだ。
男子生徒たちが色めき立つ。
女子? 男子? どっちだ? 可愛いか? イケメンか?
そんなひそひそ話が飛び交う中、俺だけは背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
嫌な予感がする。
ものすごく、嫌な予感がする。
今朝、姿を消していた同居人。
「偵察」という言葉。
そして、タイミングよく現れる転校生。
まさか。いや、ありえない。
彼女はこの国の戸籍を持っていない。住民票もない。パスポートもない。
そんな人間が、いや戦乙女が、公立高校に編入できるはずがない。事務手続きという名のこの国特有の複雑極まりないものを、あの大雑把な性格で突破できるわけがないのだ。
俺は自分にそう言い聞かせ、動悸を鎮めようとした。
「まあ、とりあえず入ってもらおうか。……入っていいぞ」
先生が廊下に向かって声をかけた。
教室中の視線が、入り口の一点に集中する。
俺もまた、祈るような気持ちでそのドアを見つめた。
頼むから、知らない顔であってくれ。全然知らない、普通の、できれば地味な男子生徒であってくれ。
ガラッ。
引き戸が勢いよく開かれた。
その瞬間、教室の空気が凍りついた。
いや、時が止まったと言ってもいい。
そこに立っていたのは、この世のものとは思えないほどの輝きを放つ少女だった。
窓から差し込む朝の日差しを一身に浴び、腰まで届く長い金髪が、光の粒子を撒き散らすように煌めいている。
透き通るような白い肌は、蛍光灯の下でも不自然なほどに滑らかで、サファイアのような青い瞳は、見る者すべてを射抜くような強い意志を湛えていた。
そして、身に纏っているのは、我が校の女子制服だ。
濃紺のブレザーに、チェック柄のスカート。
どこにでもあるありふれた既製品のはずなのに、彼女が着ると、それは王侯貴族の式典服か何かのように見えた。
スカートから伸びる脚はすらりと長く、黒いハイソックスがその白さを際立たせている。
「…………」
俺の思考は、真っ白になった。
そこにいたのは、ヘルヤ・ヴァルキリアだった。
昨日まで俺のジャージを着てポテチを食い散らかしていた、あの残念な居候が、美少女の皮を被ってそこに立っていた。
彼女は教室の中へ一歩踏み出した。
カツン、とローファーの音が響く。
その優雅な歩き方は、ランウェイを歩くモデルよりも堂々としており、教壇に向かうだけの動作が、戴冠式へ向かう女王の行進に見えた。
彼女は黒板の前で立ち止まり、チョークを手に取った。
粉が手につくのを気にする素振りもなく、彼女は黒板に、迷いのない筆致で文字を刻み込んだ。
カッカッカッ、という硬質な音が、静まり返った教室に響く。
書かれた文字は、漢字だった。
しかも、書道の師範代が書いたような、達筆極まりない文字だ。
『戦乙女 ヘルヤ』
名字がない。いや、それが名前なのか。そして「戦乙女」という痛々しい肩書きを堂々と書いたその度胸に、俺は机の下で頭を抱えたくなった。
彼女はチョークを置き、くるりと生徒たちの方へ向き直った。
そして、ふわりと微笑んだ。
その笑顔の破壊力たるや、教室内の男子の半分が即死しそうなレベルだった。
「私の名はヘルヤ。北の果てより、ある崇高な使命を帯びてこの地に降り立った」
鈴を転がすような美声が、朗々と響き渡る。
帰国子女特有のアクセントなどは微塵もない。時代劇の姫君のような、あるいは翻訳された洋画の吹き替えのような、芝居がかった口調だ。
「日本の文化には疎いが、学ぶ意欲はある。貴様ら……いや、皆とは、良き戦友になれることを期待している」
一瞬、「貴様ら」と言いかけて訂正したのを俺は聞き逃さなかった。
教室が水を打ったように静まり返る。
あまりの美貌と、あまりに浮世離れした自己紹介に、誰も反応できないのだ。
先生も、どこか呆気にとられたように口を半開きにしている。
そんな中、ヘルヤの青い瞳が、サーチライトのように教室内を巡回し始めた。
誰かを探している。
いや、探すまでもないだろう。
俺の心臓が早鐘を打つ。
やめろ。こっちを見るな。俺と目を合わせるな。
俺は必死に気配を消そうと、背中を丸め、前の席の生徒の背後に隠れようとした。
だが、戦乙女の目は節穴ではなかった。
彼女の視線が、ピタリと俺の場所で止まった。
その瞬間、彼女の顔がパァッと輝いた。まるで、砂漠でオアシスを見つけたような、あるいは特売の肉を見つけた主婦のような、歓喜の表情だ。
「おお! そこにいたか!」
彼女はビシッと、人差し指で俺を指差した。
教室中の視線が、彼女の指の延長線上にある俺へと集中砲火のように降り注ぐ。
「……え」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。
「探したぞ、我が盟友よ! まさかこのような学び舎の片隅に陣取っているとはな!」
盟友。
その単語が、教室の空気をさらに撹拌する。
周囲からの視線が、「驚き」から「疑惑」、そして「殺意」へと変質していくのを肌で感じた。
おい、九条。お前、あの超絶美少女とどういう関係だ? 盟友って何だ? いつの間にそんなフラグを立てていた?
無言の圧力が、四方八方から俺を押し潰しにかかる。
「あ、あの……先生、彼女は……」
俺は助けを求めるように先生を見たが、先生は「若者のことは分からん」とでも言いたげに視線を逸らした。役に立たない。
ヘルヤは俺の困惑などお構いなしに、教壇を降りてツカツカとこちらへ歩み寄ってきた。
モーゼが海を割るように、机と机の間を進んでくる。
そして、俺の席の隣。
そこには、大人しい男子生徒が座っていたのだが。
「貴殿、そこをどきたまえ」
ヘルヤはそいつに向かって、極上の笑顔で、しかし絶対的な命令口調で告げた。
「は、はいっ!?」
「この場所は、私が確保した。戦略的観点から見て、ここが私の席であると判断する」
「へ、ヘルヤさん、席は後ろに空いている場所が……」
先生が弱々しく指摘したが、彼女は聞く耳を持たなかった。
「否。私はこの男、カズキの側でなければならぬ。彼の背中を守るのは、私の特権であり義務だからな」
俺の隣の男子生徒は、美少女に見つめられた緊張と、理不尽な要求への混乱でパニックになり、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。
「ど、どうぞ! 差し上げます!」
「うむ。感謝する。貴殿の勇気ある行動を評価しよう」
彼は逃げるように空いている席へと移動していった。
そして、当然のようにヘルヤが俺の隣の席に座った。
彼女が座ると、ふわっと甘い香りが漂ってきた。シャンプーの匂いではない。これは、俺が昨日彼女に与えたプリンの残り香……ではないことを祈りたい。
彼女は、指定のスクールバッグを机の横にかけると、頬杖をついて俺を見つめた。
その距離、三十センチ。
近すぎる。
クラス中の視線が痛い。針のむしろだ。
「……おい」
俺は唇をほとんど動かさず、腹話術のように小声で囁いた。
「どういうことだ。説明しろ」
「ふふん、驚いたか?」
彼女もまた、教科書を立てて口元を隠しながら、小声で返してきた。その表情は、いたずらが成功した子供のように得意げだ。
「何が、驚いたか、だ?目立つなと言っただろ。いきなり転校生として現れるなんて、一番目立つ方法を選んでどうする」
「仕方なかろう。貴様の護衛をするには、常に半径五メートル以内にいる必要がある。外でコソコソ隠れているより、堂々と隣にいた方が効率的だと判断したのだ」
「百歩譲ってそれはいいとして……どうやって入った? 手続きはどうした? 戸籍も何もないだろ」
それが一番の謎だ。日本の行政手続きは、異世界の魔王よりも攻略が難しいと言われている。
ヘルヤはニヤリと笑い、人差し指でこめかみをトントンと叩いた。
「そこは天界の叡智と、多少のルーン魔法だ」
「……何をした」
「この学園の長……理事長と言ったか? 昨夜、彼の夢枕に立ってな。『明朝、北欧からの帰国子女を受け入れよ。さもなくば汝の秘蔵の骨董コレクションに天罰が下るであろう』と、神託を授けておいた」
「脅迫じゃねーか!」
俺は思わず声を張り上げそうになり、慌てて口を押さえた。
夢枕に立つルーン魔法。そんな便利なものがあるのか。いや、使い方が犯罪的すぎる。
「それに、事務室の認識を少し操作した。私の書類の不備を、『まあ、いいか』と思わせる程度の軽微な呪いだ。名付けて『事なかれ主義のルーン』だ」
「そんな公務員を駄目にする魔法使うなよ……」
俺は頭痛を覚えてこめかみを押さえた。
彼女は法と常識の網の目を、力技と魔法で強引に引き裂いてここに座っているのだ。
もしこの認識阻害が解けたらどうなる?
俺は不法侵入者の共犯者として、退学処分待ったなしではないか。
「安心しろ、カズキ。私がいる限り、貴様の学園生活は黄金色に輝く伝説となるだろう」
「灰色でいいんだよ、俺の青春は」
ヘルヤは俺の嘆きなどどこ吹く風で、鞄から筆記用具を取り出した。
そのペンケースは、明らかに昨日コンビニで買ったキャラクターものだった。
「さあ、授業とやらを楽しもうではないか。この地の英知、この身に刻んでくれる」
チャイムが鳴る。
一時間目の始まりを告げる音だが、俺にとっては終わりの始まりのゴングにしか聞こえなかった。
先生がため息をつきながら教壇を去り、入れ替わりに国語の教師が入ってくる。
俺の隣には、異次元の美貌を持つ爆弾がいる。
周囲からは、好奇と嫉妬の混ざった視線が突き刺さる。
俺は天を仰いだ。天井のシミの数を数えたい気分だった。
昨日の今日でこれだ。
これから始まる学校生活が、平穏無事である確率は、特売の卵が割れずに済む確率よりも低いことを、俺は悟らざるを得なかった。
◇
一時間目は現代文だった。
担当の先生は、定年間近の白髪のおじいちゃん先生で、その授業は子守唄よりも催眠効果が高いことで有名だ。
いつもなら、教科書の朗読を聞きながら半覚醒状態で船を漕ぐのが俺のルーティンだが、今日はそうもいかない。
隣からのプレッシャーが凄まじいのだ。
ヘルヤは背筋を定規が入っているかのようにピンと伸ばし、教科書を両手で持ち上げ、食い入るように見つめている。
その真剣な眼差しは、作戦地図を読み解く将軍のそれだ。
「……ふむ。なるほど」
時折、彼女は意味深に頷く。
何がなるほどなのか。今読んでいるのは、明治時代の文豪が書いた、鬱屈とした青年の苦悩を描いた小説だぞ。戦乙女が共感できる要素など皆無のはずだ。
「九条。そこ、読んでみろ」
不意に、先生からの声が飛んできた。
俺はビクリとして立ち上がる。
油断していた。いつもなら目立たない俺が指名されることは稀なのに、今日は隣にいる発光体のせいで、俺まで視界に入ってしまったらしい。
「えっと……どこからでしたっけ」
「百二十四ページの七行目からだ。聞いてなかったのか」
「す、すみません」
俺は慌てて教科書をめくる。
すると、隣からスッと白い指が伸びてきた。
ヘルヤが、俺の教科書の該当箇所を指差している。
「ここだ、カズキ。不覚をとったな」
「……ありがとう」
小声で礼を言い、俺は朗読を始めた。
淡々と読み上げる。特に感情も込めず、読み間違いもしない。可もなく不可もない、平均点に特化した朗読。それが俺の生存戦略だ。
読み終わり、着席しようとした時だった。
「素晴らしい」
隣から、拍手が聞こえた。
ヘルヤが、感極まった表情で静かに手を叩いていたのだ。
「抑揚を殺し、あえて無機質に語ることで、主人公の空虚な内面を表現するとは……カズキ、貴様は吟遊詩人の才能もあるのか」
「静かにしろ。恥ずかしいだろ」
教室中が「何だこいつら」という目で見てくる。
やめてくれ。俺を巻き込むな。ただの音読を芸術みたいに解釈するな。
「次は……そうだな。転入生のヘルヤさん、続きを」
先生の指名が、ついに彼女に向けられた。
来た。
俺は身構えた。
彼女は日本語の会話は流暢だが、読み書きに関しては未知数だ。天界の言語と日本語がどこまで互換性があるのか分からない。
もし「読めません」なんてことになれば、まだ笑い話で済むが、彼女のプライドがそれを許すはずがない。
ヘルヤは優雅に立ち上がった。
椅子の音さえさせない、洗練された動作。
彼女は教科書を持ち上げ、一呼吸置いた。
そして。
「我、深淵より来たりて、魂の叫びを紡がん――」
朗読が始まった。
いや、それは朗読ではなかった。
詠唱だった。
彼女は地の文を、まるで古代の呪文か英雄叙事詩のように、荘厳かつドラマチックに読み上げ始めたのだ。
「『男は言った……! ああっ、なんと嘆かわしいことか! この世は地獄、人の心は闇に覆われている……!』」
声量がでかい。
そして感情が重い。
ただの「今日は天気が悪い」という描写を、「天が泣いている! 世界が悲嘆に暮れている!」くらいのテンションで読み上げる。
先生は眼鏡をずり落としそうになっている。クラスメートたちはポカンと口を開け、シャーペンを落とした音すら聞こえない。
「……そこまで」
先生が震える声で制止した。
「ずいぶんと……熱のこもった朗読だったね」
「感謝します、導師よ。言霊には魂を乗せるのが、我ら戦乙女の流儀ゆえ」
ヘルヤは恭しく一礼して着席した。
導師って誰だ。先生のことか。
教室は静寂に包まれていたが、数秒後、誰かが「……すげぇ」と呟いたのを皮切りに、ざわめきが戻ってきた。
「なんだあれ、劇団員か?」
「帰国子女って、向こうじゃああいうのが普通なのか?」
「でも、なんかカッコよくなかった?」
「声きれいだし……」
意外にも、反応は悪くなかった。
彼女の圧倒的な美貌と、堂々としすぎている態度が、奇行を「個性」あるいは「異文化」として無理やり納得させてしまったようだ。美人は何をやっても許されるという理不尽な現実を、俺は目の当たりにした。
「ふふん、どうだカズキ。この地の言語体系も、私にかかれば造作もない」
彼女はドヤ顔で俺に囁いた。
「お前、あれ朗読っていうか、演説だったぞ」
「言葉とは、心に届けてこそ意味がある。貴様のようにボソボソと呟くだけでは、戦場では命令も通らんぞ」
「ここは教室だ。戦場じゃない」
「私にとっては、どこであれ戦場だ」
彼女はきっぱりと言い放ち、ノートに何かを書き込み始めた。
ちらりと覗くと、そこにはルーン文字で『教師=導師(魔法使いの一種か?)』『朗読=詠唱訓練』という謎のメモが取られていた。
彼女なりの解釈で、この学校生活をファンタジーに変換しているらしい。
休み時間になると、案の定、俺たちの席の周りには人垣ができた。
主に女子生徒たちだ。遠巻きに見ている男子たちも、耳をそばだてているのが分かる。
「ねえねえ、ヘルヤちゃんってどこの国から来たの?」
「髪すっごくきれい! これ地毛?」
「肌白ーい! 化粧水何使ってるの?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問攻め。
俺なら逃げ出したくなるところだが、ヘルヤは満更でもなさそうに微笑んでいた。注目されること自体は嫌いではないらしい。承認欲求の塊だからな。
「国か? 北の方だ。オーロラが輝き、氷河が削り出した渓谷のある地だ」
「へえー、北欧かな? おしゃれー」
「髪の手入れは、朝露を集めて洗っているだけだ。俗世の薬品は使わん」
「すごーい、なんかロハスだね!」
会話が噛み合っているようで、絶妙にズレている。
だが、女子高生たちのコミュ力は高く、「不思議ちゃんキャラ」として受け入れつつあるようだ。
問題は、俺への飛び火だ。
「で、九条くんとはどういう関係なの? 『盟友』って言ってたけど」
ギャルっぽい女子が、鋭い視線を俺に向けてきた。
俺は冷や汗をかいた。ここで「同棲してます」なんて言われたら、俺の社会的な死が確定する。
「あー、それは……昔、向こうに住んでいた時に、ちょっと知り合って……」
俺は必死に嘘を構築しようとした。幼馴染設定? 親戚の知り合い?
だが、ヘルヤが俺の言葉を遮った。
「カズキは、私の魂の管理者だ」
「は?」
女子たちが凍りついた。
「え、魂の……管理者?」
「うむ。私を管理し、夜な夜な私の悩みを聞き、甘いものを捧げて私の機嫌を取る役割を担っている。つまり、私の全てを掌握している男と言っても過言ではない」
教室が、再び静まり返った。
意味合いが違う。
彼女は「お世話係」と言いたいのだろうが、その言い回しだと、まるで俺が彼女を支配しているような、あるいはもっとアブナイ関係のようなニュアンスに聞こえる。
しかも「夜な夜な」「甘いものを捧げて」というフレーズが、妙に生々しい。
「ちょ、ちょっと待て! 誤解だ! 言葉の綾だ!」
俺は慌てて否定しようとしたが、周囲の男子たちの目が、もはや嫉妬を超えて「粛清対象を見る目」に変わっていることに気づいた。
ボッチの九条が、転校生の美少女を支配している?
そんな荒唐無稽な噂が、光の速さで広まっていくのが見えるようだ。
「……九条、あとで体育館裏な」
「いや、屋上だろ」
どこからか、不穏な囁きが聞こえた。
俺は机に突っ伏した。
ヘルヤは「どうした? 体調でも悪いのか?」と無邪気に俺の頭を覗き込んでくる。
その顔が無駄に近いせいで、さらに周囲の殺気が高まるという悪循環。
俺の望んでいた平穏な高校生活は、転校生の出現からわずか数十分で、音を立てて崩れ去った。
これから放課後まで、いや明日以降も、この爆心地で生き延びなければならないのか。
俺は心の中で、まだ見ぬ神様に祈った。
もしそこにいるなら、今すぐこの戦乙女を天界に回収してください。
返品送料なら俺が持ちますから。
だが、神様からの返事はなく、代わりに二時間目の予鈴が無慈悲に鳴り響いたのだった。
通学路のアスファルトを踏みしめる靴底の感覚が、やけに遠い。一歩進むたびに、足首に絡みついた疲労の鎖がジャラジャラと音を立てて引きずられるような錯覚に陥る。
原因は明白だ。昨夜、我が家の新たな支配者となった自称・戦乙女との間で交わされた、不平等条約の締結と、それに伴う祝勝会という名の無茶振りに付き合わされたからだ。
彼女は「契約の儀」と称して、俺に炭酸飲料を提供させ、さらにスルメの代わりにと冷蔵庫にあった竹輪を要求し、深夜まで天界の武勇伝――その大半が、いかにして上司の監視をかいくぐって美味しいものを食べたかという話だった――を語り続けた。
おかげで俺の睡眠時間は大幅に削られ、精神的な疲弊も相まって、ゾンビのような足取りで学校へ向かう羽目になっている。
「……あいつ、大人しくしてるだろうな」
独り言が口をついて出た。
今朝、俺が目を覚ました時、すでに部屋の主、もとい居候の姿はなかった。
いつもなら俺のベッドの半分を占拠して、布団を巻き込んでミノムシのようになっているはずの緑色のジャージ塊が見当たらなかったのだ。
テーブルの上には、「偵察任務に出る。朝飯は冷蔵庫のアイスを頂いた。感謝せよ」という、達筆すぎて読むのに苦労する書き置きが一枚。
いつ食べようかと、俺がささやかな楽しみにしていたものを、彼女は朝の挨拶代わりに奪っていったわけだ。
だが、食料の強奪よりも深刻なのは「偵察」という不穏な単語だ。
俺は昨夜、口を酸っぱくして言ったはずだ。目立つな、外で魔法を使うな、槍を振り回すな、と。
彼女は自信満々に頷いていたが、その自信の根拠がどこにあるのか、俺にはさっぱり見当がつかない。
もし、この通学路のどこかで、ジャージ姿の美少女が電柱相手に槍の稽古をしていたり、治安維持と称して野良猫を追い回していたりしたらどうしよう。
俺の脳裏に、警察署からの呼び出し電話という最悪の未来予想図が浮かび上がる。
校門が見えてきた。
今のところ、パトカーのサイレンも、爆発音も聞こえない。
校舎の壁に巨大なルーン文字が刻まれているようなこともないし、校庭にクレーターができている様子もない。
どうやら、最悪の事態は回避されたようだ。
俺は安堵の息を吐き出し、上履きに履き替えるために昇降口へと向かった。
教室に入ると、いつもの風景がそこにあった。
早弁をしている運動部員、昨日のテレビ番組の話で盛り上がる女子グループ、黙々と単語帳をめくる生徒。
俺の席は窓際の後ろから二番目という、物語の主人公にありがちな配置だが、俺自身には何の物語も発生しない特等席だ。
鞄を置き、椅子に座る。
硬い座面の感触に、少しだけ心が落ち着いた。
ここが俺の砦だ。あの台風のような同居人がいない、不可侵の領域。
今日一日、ここで静かに授業を受け、誰とも関わらず、平穏に過ごす。それだけでいい。それこそが幸福だ。
予鈴が鳴り、生徒たちがそれぞれの席に着く。
まもなくして、教室の引き戸がガララと乾いた音を立てて開いた。
入ってきたのは、担任の教師だ。四十代半ばの、事なかれ主義を絵に描いたような疲れた顔をした男性教師である。彼はいつも通り、出席簿を脇に抱え、気だるげに教壇に立った。
「えー、席につけ。ホームルームを始めるぞ」
先生の声には張りがない。いつものことだ。
俺は教科書を机に出す準備をしながら、あくびを噛み殺した。
今日の連絡事項は何だろうか。進路調査票の提出期限か、それとも来月の体育祭の実行委員選出か。どちらにせよ、俺にはあまり関係のない話だ。
「今日は、朝から大事な連絡がある」
担任の教師が、チョークの粉で白くなった手で頭をかいた。
その口調に、わずかな困惑というか、面倒くさそうな響きが含まれていたのが気になった。
「この時期に珍しいんだがな。転入生が来ている」
その言葉が落ちた瞬間、教室の空気が変わった。
停滞していた水面に石が投げ込まれたように、ざわめきが広がる。
二学期も半ばを過ぎたこの時期の転校生。それは退屈な日常に飢えている高校生たちにとって、格好の餌食であり、イベントだ。
男子生徒たちが色めき立つ。
女子? 男子? どっちだ? 可愛いか? イケメンか?
そんなひそひそ話が飛び交う中、俺だけは背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
嫌な予感がする。
ものすごく、嫌な予感がする。
今朝、姿を消していた同居人。
「偵察」という言葉。
そして、タイミングよく現れる転校生。
まさか。いや、ありえない。
彼女はこの国の戸籍を持っていない。住民票もない。パスポートもない。
そんな人間が、いや戦乙女が、公立高校に編入できるはずがない。事務手続きという名のこの国特有の複雑極まりないものを、あの大雑把な性格で突破できるわけがないのだ。
俺は自分にそう言い聞かせ、動悸を鎮めようとした。
「まあ、とりあえず入ってもらおうか。……入っていいぞ」
先生が廊下に向かって声をかけた。
教室中の視線が、入り口の一点に集中する。
俺もまた、祈るような気持ちでそのドアを見つめた。
頼むから、知らない顔であってくれ。全然知らない、普通の、できれば地味な男子生徒であってくれ。
ガラッ。
引き戸が勢いよく開かれた。
その瞬間、教室の空気が凍りついた。
いや、時が止まったと言ってもいい。
そこに立っていたのは、この世のものとは思えないほどの輝きを放つ少女だった。
窓から差し込む朝の日差しを一身に浴び、腰まで届く長い金髪が、光の粒子を撒き散らすように煌めいている。
透き通るような白い肌は、蛍光灯の下でも不自然なほどに滑らかで、サファイアのような青い瞳は、見る者すべてを射抜くような強い意志を湛えていた。
そして、身に纏っているのは、我が校の女子制服だ。
濃紺のブレザーに、チェック柄のスカート。
どこにでもあるありふれた既製品のはずなのに、彼女が着ると、それは王侯貴族の式典服か何かのように見えた。
スカートから伸びる脚はすらりと長く、黒いハイソックスがその白さを際立たせている。
「…………」
俺の思考は、真っ白になった。
そこにいたのは、ヘルヤ・ヴァルキリアだった。
昨日まで俺のジャージを着てポテチを食い散らかしていた、あの残念な居候が、美少女の皮を被ってそこに立っていた。
彼女は教室の中へ一歩踏み出した。
カツン、とローファーの音が響く。
その優雅な歩き方は、ランウェイを歩くモデルよりも堂々としており、教壇に向かうだけの動作が、戴冠式へ向かう女王の行進に見えた。
彼女は黒板の前で立ち止まり、チョークを手に取った。
粉が手につくのを気にする素振りもなく、彼女は黒板に、迷いのない筆致で文字を刻み込んだ。
カッカッカッ、という硬質な音が、静まり返った教室に響く。
書かれた文字は、漢字だった。
しかも、書道の師範代が書いたような、達筆極まりない文字だ。
『戦乙女 ヘルヤ』
名字がない。いや、それが名前なのか。そして「戦乙女」という痛々しい肩書きを堂々と書いたその度胸に、俺は机の下で頭を抱えたくなった。
彼女はチョークを置き、くるりと生徒たちの方へ向き直った。
そして、ふわりと微笑んだ。
その笑顔の破壊力たるや、教室内の男子の半分が即死しそうなレベルだった。
「私の名はヘルヤ。北の果てより、ある崇高な使命を帯びてこの地に降り立った」
鈴を転がすような美声が、朗々と響き渡る。
帰国子女特有のアクセントなどは微塵もない。時代劇の姫君のような、あるいは翻訳された洋画の吹き替えのような、芝居がかった口調だ。
「日本の文化には疎いが、学ぶ意欲はある。貴様ら……いや、皆とは、良き戦友になれることを期待している」
一瞬、「貴様ら」と言いかけて訂正したのを俺は聞き逃さなかった。
教室が水を打ったように静まり返る。
あまりの美貌と、あまりに浮世離れした自己紹介に、誰も反応できないのだ。
先生も、どこか呆気にとられたように口を半開きにしている。
そんな中、ヘルヤの青い瞳が、サーチライトのように教室内を巡回し始めた。
誰かを探している。
いや、探すまでもないだろう。
俺の心臓が早鐘を打つ。
やめろ。こっちを見るな。俺と目を合わせるな。
俺は必死に気配を消そうと、背中を丸め、前の席の生徒の背後に隠れようとした。
だが、戦乙女の目は節穴ではなかった。
彼女の視線が、ピタリと俺の場所で止まった。
その瞬間、彼女の顔がパァッと輝いた。まるで、砂漠でオアシスを見つけたような、あるいは特売の肉を見つけた主婦のような、歓喜の表情だ。
「おお! そこにいたか!」
彼女はビシッと、人差し指で俺を指差した。
教室中の視線が、彼女の指の延長線上にある俺へと集中砲火のように降り注ぐ。
「……え」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。
「探したぞ、我が盟友よ! まさかこのような学び舎の片隅に陣取っているとはな!」
盟友。
その単語が、教室の空気をさらに撹拌する。
周囲からの視線が、「驚き」から「疑惑」、そして「殺意」へと変質していくのを肌で感じた。
おい、九条。お前、あの超絶美少女とどういう関係だ? 盟友って何だ? いつの間にそんなフラグを立てていた?
無言の圧力が、四方八方から俺を押し潰しにかかる。
「あ、あの……先生、彼女は……」
俺は助けを求めるように先生を見たが、先生は「若者のことは分からん」とでも言いたげに視線を逸らした。役に立たない。
ヘルヤは俺の困惑などお構いなしに、教壇を降りてツカツカとこちらへ歩み寄ってきた。
モーゼが海を割るように、机と机の間を進んでくる。
そして、俺の席の隣。
そこには、大人しい男子生徒が座っていたのだが。
「貴殿、そこをどきたまえ」
ヘルヤはそいつに向かって、極上の笑顔で、しかし絶対的な命令口調で告げた。
「は、はいっ!?」
「この場所は、私が確保した。戦略的観点から見て、ここが私の席であると判断する」
「へ、ヘルヤさん、席は後ろに空いている場所が……」
先生が弱々しく指摘したが、彼女は聞く耳を持たなかった。
「否。私はこの男、カズキの側でなければならぬ。彼の背中を守るのは、私の特権であり義務だからな」
俺の隣の男子生徒は、美少女に見つめられた緊張と、理不尽な要求への混乱でパニックになり、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。
「ど、どうぞ! 差し上げます!」
「うむ。感謝する。貴殿の勇気ある行動を評価しよう」
彼は逃げるように空いている席へと移動していった。
そして、当然のようにヘルヤが俺の隣の席に座った。
彼女が座ると、ふわっと甘い香りが漂ってきた。シャンプーの匂いではない。これは、俺が昨日彼女に与えたプリンの残り香……ではないことを祈りたい。
彼女は、指定のスクールバッグを机の横にかけると、頬杖をついて俺を見つめた。
その距離、三十センチ。
近すぎる。
クラス中の視線が痛い。針のむしろだ。
「……おい」
俺は唇をほとんど動かさず、腹話術のように小声で囁いた。
「どういうことだ。説明しろ」
「ふふん、驚いたか?」
彼女もまた、教科書を立てて口元を隠しながら、小声で返してきた。その表情は、いたずらが成功した子供のように得意げだ。
「何が、驚いたか、だ?目立つなと言っただろ。いきなり転校生として現れるなんて、一番目立つ方法を選んでどうする」
「仕方なかろう。貴様の護衛をするには、常に半径五メートル以内にいる必要がある。外でコソコソ隠れているより、堂々と隣にいた方が効率的だと判断したのだ」
「百歩譲ってそれはいいとして……どうやって入った? 手続きはどうした? 戸籍も何もないだろ」
それが一番の謎だ。日本の行政手続きは、異世界の魔王よりも攻略が難しいと言われている。
ヘルヤはニヤリと笑い、人差し指でこめかみをトントンと叩いた。
「そこは天界の叡智と、多少のルーン魔法だ」
「……何をした」
「この学園の長……理事長と言ったか? 昨夜、彼の夢枕に立ってな。『明朝、北欧からの帰国子女を受け入れよ。さもなくば汝の秘蔵の骨董コレクションに天罰が下るであろう』と、神託を授けておいた」
「脅迫じゃねーか!」
俺は思わず声を張り上げそうになり、慌てて口を押さえた。
夢枕に立つルーン魔法。そんな便利なものがあるのか。いや、使い方が犯罪的すぎる。
「それに、事務室の認識を少し操作した。私の書類の不備を、『まあ、いいか』と思わせる程度の軽微な呪いだ。名付けて『事なかれ主義のルーン』だ」
「そんな公務員を駄目にする魔法使うなよ……」
俺は頭痛を覚えてこめかみを押さえた。
彼女は法と常識の網の目を、力技と魔法で強引に引き裂いてここに座っているのだ。
もしこの認識阻害が解けたらどうなる?
俺は不法侵入者の共犯者として、退学処分待ったなしではないか。
「安心しろ、カズキ。私がいる限り、貴様の学園生活は黄金色に輝く伝説となるだろう」
「灰色でいいんだよ、俺の青春は」
ヘルヤは俺の嘆きなどどこ吹く風で、鞄から筆記用具を取り出した。
そのペンケースは、明らかに昨日コンビニで買ったキャラクターものだった。
「さあ、授業とやらを楽しもうではないか。この地の英知、この身に刻んでくれる」
チャイムが鳴る。
一時間目の始まりを告げる音だが、俺にとっては終わりの始まりのゴングにしか聞こえなかった。
先生がため息をつきながら教壇を去り、入れ替わりに国語の教師が入ってくる。
俺の隣には、異次元の美貌を持つ爆弾がいる。
周囲からは、好奇と嫉妬の混ざった視線が突き刺さる。
俺は天を仰いだ。天井のシミの数を数えたい気分だった。
昨日の今日でこれだ。
これから始まる学校生活が、平穏無事である確率は、特売の卵が割れずに済む確率よりも低いことを、俺は悟らざるを得なかった。
◇
一時間目は現代文だった。
担当の先生は、定年間近の白髪のおじいちゃん先生で、その授業は子守唄よりも催眠効果が高いことで有名だ。
いつもなら、教科書の朗読を聞きながら半覚醒状態で船を漕ぐのが俺のルーティンだが、今日はそうもいかない。
隣からのプレッシャーが凄まじいのだ。
ヘルヤは背筋を定規が入っているかのようにピンと伸ばし、教科書を両手で持ち上げ、食い入るように見つめている。
その真剣な眼差しは、作戦地図を読み解く将軍のそれだ。
「……ふむ。なるほど」
時折、彼女は意味深に頷く。
何がなるほどなのか。今読んでいるのは、明治時代の文豪が書いた、鬱屈とした青年の苦悩を描いた小説だぞ。戦乙女が共感できる要素など皆無のはずだ。
「九条。そこ、読んでみろ」
不意に、先生からの声が飛んできた。
俺はビクリとして立ち上がる。
油断していた。いつもなら目立たない俺が指名されることは稀なのに、今日は隣にいる発光体のせいで、俺まで視界に入ってしまったらしい。
「えっと……どこからでしたっけ」
「百二十四ページの七行目からだ。聞いてなかったのか」
「す、すみません」
俺は慌てて教科書をめくる。
すると、隣からスッと白い指が伸びてきた。
ヘルヤが、俺の教科書の該当箇所を指差している。
「ここだ、カズキ。不覚をとったな」
「……ありがとう」
小声で礼を言い、俺は朗読を始めた。
淡々と読み上げる。特に感情も込めず、読み間違いもしない。可もなく不可もない、平均点に特化した朗読。それが俺の生存戦略だ。
読み終わり、着席しようとした時だった。
「素晴らしい」
隣から、拍手が聞こえた。
ヘルヤが、感極まった表情で静かに手を叩いていたのだ。
「抑揚を殺し、あえて無機質に語ることで、主人公の空虚な内面を表現するとは……カズキ、貴様は吟遊詩人の才能もあるのか」
「静かにしろ。恥ずかしいだろ」
教室中が「何だこいつら」という目で見てくる。
やめてくれ。俺を巻き込むな。ただの音読を芸術みたいに解釈するな。
「次は……そうだな。転入生のヘルヤさん、続きを」
先生の指名が、ついに彼女に向けられた。
来た。
俺は身構えた。
彼女は日本語の会話は流暢だが、読み書きに関しては未知数だ。天界の言語と日本語がどこまで互換性があるのか分からない。
もし「読めません」なんてことになれば、まだ笑い話で済むが、彼女のプライドがそれを許すはずがない。
ヘルヤは優雅に立ち上がった。
椅子の音さえさせない、洗練された動作。
彼女は教科書を持ち上げ、一呼吸置いた。
そして。
「我、深淵より来たりて、魂の叫びを紡がん――」
朗読が始まった。
いや、それは朗読ではなかった。
詠唱だった。
彼女は地の文を、まるで古代の呪文か英雄叙事詩のように、荘厳かつドラマチックに読み上げ始めたのだ。
「『男は言った……! ああっ、なんと嘆かわしいことか! この世は地獄、人の心は闇に覆われている……!』」
声量がでかい。
そして感情が重い。
ただの「今日は天気が悪い」という描写を、「天が泣いている! 世界が悲嘆に暮れている!」くらいのテンションで読み上げる。
先生は眼鏡をずり落としそうになっている。クラスメートたちはポカンと口を開け、シャーペンを落とした音すら聞こえない。
「……そこまで」
先生が震える声で制止した。
「ずいぶんと……熱のこもった朗読だったね」
「感謝します、導師よ。言霊には魂を乗せるのが、我ら戦乙女の流儀ゆえ」
ヘルヤは恭しく一礼して着席した。
導師って誰だ。先生のことか。
教室は静寂に包まれていたが、数秒後、誰かが「……すげぇ」と呟いたのを皮切りに、ざわめきが戻ってきた。
「なんだあれ、劇団員か?」
「帰国子女って、向こうじゃああいうのが普通なのか?」
「でも、なんかカッコよくなかった?」
「声きれいだし……」
意外にも、反応は悪くなかった。
彼女の圧倒的な美貌と、堂々としすぎている態度が、奇行を「個性」あるいは「異文化」として無理やり納得させてしまったようだ。美人は何をやっても許されるという理不尽な現実を、俺は目の当たりにした。
「ふふん、どうだカズキ。この地の言語体系も、私にかかれば造作もない」
彼女はドヤ顔で俺に囁いた。
「お前、あれ朗読っていうか、演説だったぞ」
「言葉とは、心に届けてこそ意味がある。貴様のようにボソボソと呟くだけでは、戦場では命令も通らんぞ」
「ここは教室だ。戦場じゃない」
「私にとっては、どこであれ戦場だ」
彼女はきっぱりと言い放ち、ノートに何かを書き込み始めた。
ちらりと覗くと、そこにはルーン文字で『教師=導師(魔法使いの一種か?)』『朗読=詠唱訓練』という謎のメモが取られていた。
彼女なりの解釈で、この学校生活をファンタジーに変換しているらしい。
休み時間になると、案の定、俺たちの席の周りには人垣ができた。
主に女子生徒たちだ。遠巻きに見ている男子たちも、耳をそばだてているのが分かる。
「ねえねえ、ヘルヤちゃんってどこの国から来たの?」
「髪すっごくきれい! これ地毛?」
「肌白ーい! 化粧水何使ってるの?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問攻め。
俺なら逃げ出したくなるところだが、ヘルヤは満更でもなさそうに微笑んでいた。注目されること自体は嫌いではないらしい。承認欲求の塊だからな。
「国か? 北の方だ。オーロラが輝き、氷河が削り出した渓谷のある地だ」
「へえー、北欧かな? おしゃれー」
「髪の手入れは、朝露を集めて洗っているだけだ。俗世の薬品は使わん」
「すごーい、なんかロハスだね!」
会話が噛み合っているようで、絶妙にズレている。
だが、女子高生たちのコミュ力は高く、「不思議ちゃんキャラ」として受け入れつつあるようだ。
問題は、俺への飛び火だ。
「で、九条くんとはどういう関係なの? 『盟友』って言ってたけど」
ギャルっぽい女子が、鋭い視線を俺に向けてきた。
俺は冷や汗をかいた。ここで「同棲してます」なんて言われたら、俺の社会的な死が確定する。
「あー、それは……昔、向こうに住んでいた時に、ちょっと知り合って……」
俺は必死に嘘を構築しようとした。幼馴染設定? 親戚の知り合い?
だが、ヘルヤが俺の言葉を遮った。
「カズキは、私の魂の管理者だ」
「は?」
女子たちが凍りついた。
「え、魂の……管理者?」
「うむ。私を管理し、夜な夜な私の悩みを聞き、甘いものを捧げて私の機嫌を取る役割を担っている。つまり、私の全てを掌握している男と言っても過言ではない」
教室が、再び静まり返った。
意味合いが違う。
彼女は「お世話係」と言いたいのだろうが、その言い回しだと、まるで俺が彼女を支配しているような、あるいはもっとアブナイ関係のようなニュアンスに聞こえる。
しかも「夜な夜な」「甘いものを捧げて」というフレーズが、妙に生々しい。
「ちょ、ちょっと待て! 誤解だ! 言葉の綾だ!」
俺は慌てて否定しようとしたが、周囲の男子たちの目が、もはや嫉妬を超えて「粛清対象を見る目」に変わっていることに気づいた。
ボッチの九条が、転校生の美少女を支配している?
そんな荒唐無稽な噂が、光の速さで広まっていくのが見えるようだ。
「……九条、あとで体育館裏な」
「いや、屋上だろ」
どこからか、不穏な囁きが聞こえた。
俺は机に突っ伏した。
ヘルヤは「どうした? 体調でも悪いのか?」と無邪気に俺の頭を覗き込んでくる。
その顔が無駄に近いせいで、さらに周囲の殺気が高まるという悪循環。
俺の望んでいた平穏な高校生活は、転校生の出現からわずか数十分で、音を立てて崩れ去った。
これから放課後まで、いや明日以降も、この爆心地で生き延びなければならないのか。
俺は心の中で、まだ見ぬ神様に祈った。
もしそこにいるなら、今すぐこの戦乙女を天界に回収してください。
返品送料なら俺が持ちますから。
だが、神様からの返事はなく、代わりに二時間目の予鈴が無慈悲に鳴り響いたのだった。
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