ヴァルキュリア・パニック~六畳一間から始まる強制同棲ライフ~

速水静香

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第六話:朗読は詠唱のように、数式は魔法陣のように

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 二時間目の開始を告げるチャイムが、俺にとっては処刑台への階段を上る合図のように聞こえた。
 教室の引き戸が開き、数学担当の教師が入ってくる。白衣を羽織り、三角定規を武器のように携えたその姿は、規律と論理の守護者そのものだ。
 俺は教科書を広げながら、隣の席に座る災厄の発生源を横目で確認した。

 ヘルヤは、未知の魔導書に挑む賢者のような顔つきで、数学の教科書を睨みつけている。
 その眉間には深い皺が刻まれ、青い瞳は紙面に印刷された数字と記号の羅列を、物理的に焼き尽くさんばかりの勢いだ。

「……カズキよ」

 彼女が教科書で口元を隠し、極小の声量で話しかけてきた。

「なんだ」
「この国では、魔法の基礎理論を『数学』と呼称して一般市民に教示しているのか?」
「はい?」

 俺の手が止まった。何を言っているんだこいつは。

「見ろ、この複雑怪奇な記号の配列を」

 彼女が指差したのは、因数分解の応用問題が載っているページだった。

「これはどう見ても、多重結界を展開するための術式構築だろう。この『x』や『y』といった文字で、精霊の配置を示しているに違いない。しかも、解を求める過程で『=』を用いて左辺と右辺を等価にするとは……等価交換の原則まで網羅しているのか」
「違う。それはただの文字式だ。未知数を求めているだけだ」
「未知数だと? ふん、小賢しい。未知なる力など、己の魔力でねじ伏せれば済む話ではないか」

 彼女は鼻を鳴らし、シャーペンを構えた。
 嫌な予感が背筋を駆け上がる。
 教師が黒板に向かい、チョークでカツカツと例題を板書し始めた。白い粉が舞い、黒い盤面に数式が並んでいく。

「では、この問三。……転入生のヘルヤ、やってみろ」

 またか。
 転入生というだけで、教師たちは面白がって彼女を指名したがる。目新しさは最高のスパイスかもしれないが、俺にとっては致死量の毒だ。
 ヘルヤは不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。

「承知した。その程度の術式、解体してみせよう」

 彼女は教壇へと進み出た。
 その歩調は自信に満ち溢れている。黒板の前に立ち、チョークを受け取ると、彼女は問題を睨みつけた。
 そして、おもむろに黒板の余白へ、巨大な円を描き始めた。

「……おい」

 俺の呟きは届かない。
 彼女は円の中に、さらに幾何学模様を書き足していく。三角形、六芒星、そして見たこともない古代文字のような記号。
 数式の解法ではない。それは明らかに魔法陣だった。

「先生、警告する」

 書き終えた彼女は、チョークを指で挟んで教師に突きつけた。

「この式には致命的な欠陥がある。魔力の循環が悪すぎるのだ。このまま発動させれば、術者のマナが逆流し、精神崩壊を起こす危険性が高い」
「……は?」

 教師がポカンと口を開けた。まったく意味が分かっていない様子で、黒板に描かれた謎の図形とヘルヤを交互に見ている。

「ゆえに、私が修正を施した。この配置ならば、大気中のマナを効率よく吸収し、最小限のコストで爆裂魔法を行使できる」
「ば、爆裂……?」
「さあ、感謝するがいい。貴殿の命を救ったのだぞ」

 ヘルヤはドヤ顔で胸を張った。
 教室中が静まり返る。
 誰も突っ込めない。あまりの突拍子のなさに、全員の思考が停止している。
 俺は頭を抱えて机に突っ伏したかったが、放置すれば事態はさらに悪化する。俺は震える足で立ち上がった。

「せ、先生! すみません!」

 俺の声に、全員の視線が集まる。

「彼女、北欧の方では……その、独自の教育メソッドを受けていまして! ええと、数学を、こう、芸術的なアプローチで解釈する流派なんです!」
「芸術……?」
「そうです! 図形的な美しさを重視するというか、精神世界との調和を重んじるというか……まだ日本のカリキュラムに慣れていないだけなんです!」

 苦し紛れにもほどがある言い訳だった。
 だが、教師は困惑しつつも、ヘルヤの真剣な眼差しと、俺の必死の形相を見て、とりあえず納得することを選んだようだ。

「そ、そうか……文化の違いというのは難しいものだな。まあ、席に戻りなさい。あとで補習を受けてもらうかもしれんが」
「む? 私の理論に異論があるというのか?」
「ヘルヤ、戻れ! 早く!」

 俺は手招きして彼女を呼び戻した。
 彼女は不服そうに頬を膨らませながら戻ってくると、ドカッと椅子に座った。

「なんだカズキ。せっかく高等な術式を伝授してやったというのに」
「余計なお世話だ。あと、黒板に変な絵を描くな。ここは美術の授業じゃない」
「絵ではない! 世界の真理をルーンで記述したのだ!」

 彼女の小声での抗議を聞き流しながら、俺はどっと疲れが出たのを感じた。まだ午前中だというのに、一週間分のエネルギーを使い果たした気分だ。



 休み時間になると、俺の席の周りは再び戦場と化した。
 ただし、今回は女子生徒だけでなく、男子生徒たちの姿も目立つ。
 彼らの視線は、ヘルヤの美貌に向けられた熱っぽいものと、俺に向けられた氷のように冷たいもので構成されていた。

「おい九条」

 クラスカースト上位に位置するサッカー部のエースと呼ばれている男子生徒が、俺の机に手をついた。威圧感が半端ない。

「転校生ちゃんとお前、マジでどういう関係なんだよ。『盟友』とか『魂の管理者』とか、意味分かんねーんだけど」
「だから、ただの知り合いだって……」
「知り合いで、なんで初日から隣の席を奪取して、あんなに親しげに話してるんだよ。おかしいだろ」

 エースの背後では、他の男子たちもウンウンと頷いている。
 完全に尋問モードだ。逃げ場はない。

 すると、ヘルヤが横から会話に割り込んできた。
 彼女は学校の自販機で買ったジュースのストローを咥えたまま、退屈そうに言った。

「なんだ、貴様ら。カズキに用か? あまり彼を困らせるな。昨夜も遅くまで私の相手をして、疲労困憊なのだからな」

 ブッ、と誰かが吹き出す音がした。
 俺の顔から血の気が引いていく。

「よ、夜遅くまで……?」

 エースの声が裏返った。

「ああ。私が満足するまで付き合わせた。彼も最初は嫌がっていたが、最後には観念して私の要求を受け入れたぞ」

 違う。
 断じて違う。
 それは彼女の武勇伝を聞かされたあげく、竹輪とコーラを提供させられた話だ。
 だが、その文脈を知らない彼らの脳内で、どのような変換が行われているかは想像に難くない。

「……九条、お前」

 エースが俺の肩をガシッと掴んだ。その指が食い込む。

「まさか、同棲してんのか?」
「してない! 断じてしてない!」

 俺は首がもげるほどの勢いで否定した。
 しかし、ヘルヤは不思議そうな顔で首を傾げる。

「ドウセイ? とはなんだ? ああ、同じ屋根の下で寝食を共にすることか?」
「そ、そうだ」
「しているぞ」

 爆弾が投下された。
 教室が一瞬で真空状態になったかのような静寂。
 そして次の瞬間、阿鼻叫喚の嵐が巻き起こった。

「うおおおおっ! マジかよ!」
「九条が! あのボッチの九条が!」
「許せねえ! 抜け駆けだ!」
「詳細を吐け! いつからだ! どっちの家だ!」

 男子生徒たちが獣のような形相で俺に詰め寄ってくる。女子生徒たちは「きゃー、不潔ー」とか言いながらも、目は興味津々で輝いている。
 俺は弁明しようと口を開いたが、言葉が出てこない。
 どう説明すればいい?
 天井から降ってきて、成り行きで居候しているんです、なんて言えば、それこそ頭がおかしいと思われるか、ラノベの読みすぎだと馬鹿にされるのがオチだ。

「貴様ら、騒がしいぞ」

 ヘルヤが不機嫌そうに眉を寄せた。

「カズキとの共同生活は、神聖な契約に基づくものだ。家事の分担や食事についても、厳格な取り決めがある。遊びではないのだ」
「契約……家事……食事……」

 単語の一つ一つが、彼らの妄想をさらに加速させていく。
 新婚生活ごっこか何かだと思われているに違いない。

「ヘルヤ、頼むから黙っててくれ……」

 俺は机に額を押し付けた。
 もう終わりだ。俺の高校生活は、灰燼に帰した。
 明日から俺のあだ名は『ワルキューレの情夫』とかになるんだろうか。いや、もっと酷いかもしれない。

「なんだカズキ、顔色が悪いぞ。空腹か?」
「……お前のせいだ」
「ふん、私は事実を述べたまでだ。嘘をつくことは騎士道に反するからな」

 彼女は悪びれる様子もなく、ジュースを飲み干して、ズズズと音を立てた。
 その堂々たる態度が、周囲には「当たり前であることの表れ」として映り、さらに俺への嫉妬を煽っていることに、彼女は気づいていない。

「お前ら、席につけー。三時間目が始まるぞー」

 救いの鐘ならぬ、英語教師の気だるげな声が響いた。
 生徒たちがしぶしぶと散っていく。
 だが、彼らが俺に向ける視線には、「放課後覚えてろよ」という無言のメッセージが込められていた。
 俺は深い深いため息をついた。肺の中の空気をすべて吐き出しても、胸の重苦しさは消えそうにない。

 英語の授業が始まった。
 担当の女性教師が教科書を広げる。
 この時間は、ペアを作って英会話の練習をするらしい。
 最悪だ。
 案の定、俺のペアは隣の彼女になる。

「さあ、カズキ。何を語り合うのだ? 敵将の首の取り方か? それとも効率的な焦土作戦についてか?」
「……日常会話だよ。『週末は何をしましたか』とか、そういう平和なやつだ」

 俺はテキストの例文を指差した。
 ヘルヤは英語のテキストをじっと見つめ、鼻で笑った。

「この言語……ふむ、天界で使われている共通語に似ているな。だが、発音が甘い。もっと腹から声を出して、ルーンを共鳴させるように発音せねば、遠距離の味方には届かんぞ」
「だから戦場基準で考えるな」

 先生が教室内を回り始めた。
 俺たちのところに来て、にこやかに言った。

「はい、そこの二人。やってみて」
「イエス、マム」

 ヘルヤが無駄に流暢な発音で答えた。

「では私から問おう。……Do you have the resolve to die for your honor?(名誉のために死ぬ覚悟はあるか?)」
「……No, I just want to eat pudding.(いいえ、プリンが食べたいだけです)」

 俺は死んだ目で、中学レベルの英語で返した。
 女性教師の笑顔が引きつった。

「えっと……ヘルヤさん? テキストの例文を使ってね? 『I like playing tennis』とか」
「テニス? 球を打ち合う遊戯か。……軟弱だな。鉄球を打ち合うならまだしも」
「鉄球は打たないでください」

 先生は早々に俺たちの席から離れていった。触らぬ神に祟りなしと判断したのだろう。賢明な判断だ。

 その後も、彼女は授業中に独自の解釈を展開し続けた。
 歴史の授業では、教科書に載っている戦争の記述を見て「戦術が稚拙だ。私なら側面から騎兵を突撃させる」とダメ出しをし、物理の授業では「慣性の法則など、ルーン魔法があれば無視できる」と公式を全否定した。
 そのたびに俺が必死にフォローし、言い訳をし、頭を下げる羽目になった。
 俺の精神力は、消しゴムのように削られていった。

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