ヴァルキュリア・パニック~六畳一間から始まる強制同棲ライフ~

速水静香

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第七話:昼休みの購買部戦線――ターゲットは限定メロンパン

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 四時間目の終わりを告げるチャイムは、俺にとっては救済の音に聞こえた。

 一方で、空腹を抱えた高校生たちにとっては、生存競争の開始を告げる号砲に近い。
 特に、育ち盛りの胃袋を抱えた男子生徒にとって、この音色はパブロフの犬のごとく唾液の分泌を促す条件反射のスイッチとなっている。

 教師がチョークを置き、「号令」と短く告げる。
 日直の号令と共に、クラス全員が起立し、礼をする。その一連の流れは、訓練された軍隊のように迅速かつ無駄がない。なぜなら、一秒でも早くこの教室という場所から解放され、食堂や購買部、あるいは友人と机を囲むランチへと移行したいという欲求が、全員の意識を統一しているからだ。

「終わった……」

 俺は椅子に座り込むと同時に、肺の中の空気をすべて吐き出すような深いため息をついた。
 午前中の四コマ。たったそれだけの時間が、今日に限っては永遠に引き伸ばされた拷問のように感じられた。
 理由は明白だ。俺のすぐ隣に、制御不能の核弾頭が鎮座していたからである。

「カズキよ」

 隣から、不満げな声が聞こえた。
 恐る恐る視線を向けると、そこには机の上に突っ伏し、美しい金髪を扇状に広げたヘルヤの姿があった。
 彼女は頬を机板に押し付けたまま、上目遣いで俺を睨んでいる。その青い瞳からは、朝方に見せていたような覇気や、授業中に見せていた無駄な知的探究心は消え失せ、代わりに原始的な飢餓感が色濃く浮かんでいた。

「……なんだ」
「我が魔力が、枯渇の危機に瀕している」
「腹が減ったって言えよ」
「空腹などという俗な言葉で片付けるな。これはエネルギーの欠乏による、生命維持活動への警告だ」

 彼女はむくりと上半身を起こすと、自身の腹部に手を当てた。制服のベストの上からでも分かるほど、その腹はぺちゃんこだ。まあ、朝からアイスしか食べていないのだから当然だろう。

「この国の教育機関は、なぜ兵士に十分な糧食を与えずに酷使するのだ? 四時間もの間、断続的に知識を詰め込まれれば、脳の糖分消費量はマッハを超えるぞ。天界の戦士育成所であれば、授業の合間に『マナ・クッキー』や『ネクタル』の配給があるというのに」
「ここは天界じゃないし、俺たちは兵士じゃない。ただの高校生だ」
「ふん、形式はどうあれ、学びとは戦いだ。……で、カズキ。貴様は何を用意している?」

 ヘルヤの視線が、俺の鞄へと吸い寄せられる。
 俺は気まずさに目を逸らした。

「……今日は、ない」
「なに?」
「弁当を作る時間がなかったんだ。昨日の夜、誰かさんが俺の睡眠時間を削って武勇伝を語り続けたせいで、朝起きられなかったからな」
「む……それは、不可抗力というやつだ。私の話術が巧みすぎたのが悪い」

 どこまでも自分を正当化するその姿勢、ある意味で見習いたいメンタルだ。
 俺は鞄の底を探ってみたが、もちろん指先に触れるのは教科書とノートの冷たい感触だけだった。財布の中身も心許ないが、空腹には勝てない。

「購買で何か買うつもりだ」
「コウバイ?」

 ヘルヤが首を傾げる。

「校内にある売店のことだよ。パンとか飲み物を売ってる」
「ほう! 補給処か!」

 彼女の表情が一変した。死にかけていた魚に水をかけたように、生気が蘇る。

「ならば話は早い。私も同行しよう。手持ちの食料だけでは、午後の戦闘……いや、授業に耐えられそうもないからな」

 そう言って彼女がスクールバッグから取り出したのは、見覚えのある銀色の袋と、黒いペットボトルだった。
 ポテトチップスと、コーラ。
 昨日、俺が「一日一袋まで」と制限をかけたにもかかわらず、彼女はそれを学校に持ち込んでいたらしい。しかも、ポテチの袋はすでに開封されており、中身が半分ほど減っている。

「お前、それ……いつ食べたんだ」
「バレないように、少しずつ摂取していた」
「教室でポテチ食うなよ。匂いでバレるだろ」
「隠密ルーン魔法で、咀嚼音と香りを遮断した。誰にもわかるまい」

 無駄な能力の使いどころを間違えている。
 だが、ポテチとコーラだけで昼食を済ませようとするその無謀さは、さすがに保護者役として看過できない。

「いいか、ヘルヤ。日本の高校生の昼飯は、もっとこう、炭水化物とタンパク質のバランスが取れたものであるべきだ。ポテチはおやつだ」
「異議あり。ジャガイモは野菜であり、炭水化物だ。コーラは高カロリーで効率的にエネルギーを摂取できる。何が不足しているというのだ」
「ビタミンとか、常識とか、いろいろだよ」

 俺は立ち上がった。教室内の他の生徒たちは、すでにグループを作って机を合わせたり、食堂へ向かって移動を開始したりしている。
 周囲からの視線――主に「あの転校生とボッチの九条がまた一緒にいる」という痛いものを見ている目――が心に突き刺さるが、ここで彼女を放置して一人で購買に行くわけにはいかない。そんなことをすれば、彼女が一人で何をしでかすか分かったものではないからだ。

「行くぞ。購買部のパンは争奪戦になる。もたもたしてると売り切れる」
「争奪戦……だと?」

 その単語に、ヘルヤが反応した。
 ガタッ、と椅子を鳴らして立ち上がる。
 その青い瞳に、危険な炎が灯ったのを俺は見た。

「カズキ、それはつまり、実力行使による略奪が許可されているということか?」
「違う。早い者勝ちって意味だ。金を出して買うんだよ。暴力は禁止だ」
「チッ、つまらん。だが、速さが正義というルールならば、戦乙女に遅れはない」

 彼女はスカートを翻し、俺の先を歩き出した。
 その背中は、ランチを買いに行く女子高生というよりは、敵陣へ切り込む特攻隊長のそれだった。



 廊下に出ると、そこはすでに民族大移動の様相を呈していた。
 全校生徒が一斉に動き出す昼休みは、校舎内の人口密度が局所的に跳ね上がる時間帯だ。
 特に一階にある購買部へ続く階段と廊下は、飢えた獣たちの通り道と化している。

「多いな……」

 人をかき分けるように進みながら、俺は呟いた。
 前を行くヘルヤは、この雑踏を不快に思うどころか、むしろ楽しんでいるように見えた。

「ふふっ、悪くない密度だ。敵兵の数としては申し分ない」
「敵じゃない、同級生だ」
「道を塞ぐ者はすべからく敵と見なす。それが戦場の鉄則だ」

 彼女はスルスルと人波を抜けていく。
 身体能力が高いからか、あるいは彼女の放つ「どかないと轢き殺すぞ」という無言の圧力が周囲に伝わっているのか、彼女の進行方向だけモーゼの海割れのようにスペースが空いていくのだ。
 俺はその恩恵に預かり、彼女の後ろについて金魚のフンのように進む。
 
 やがて、目的の場所にたどり着いた。
 購買部。
 それは、校舎の端にある小さなスペースに設けられた、パンとパック飲料の販売所だ。
 だが、今のその場所は、販売所という生易しい名称で呼べる状態ではなかった。

「うおっ……」

 俺は思わず足を止めた。
 そこには、黒山の人だかりができていた。
 カウンターの前に殺到する生徒たちの群れ。
 「おばちゃん! 焼きそばパン一つ!」「こっちコロッケパン!」「おい押すなよ!」
 怒号に近い注文の声が飛び交い、熱気と湿気が渦を巻いている。制服の摩擦音と、小銭がジャラジャラ鳴る音、そしてビニール袋が擦れる音が渾然一体となり、一種のノイズミュージックを形成していた。

「……これは、ひどいな」

 俺はたじろいだ。
 普段は弁当持参派か、あるいはもっと空いている時間を狙ってコンビニに行く派の俺にとって、このピークタイムの購買部は未知の領域だった。
 これに突っ込んでいくのか? サンドイッチ一つ買うために、この肉の壁を突破しなければならないのか?
 諦めて自販機のコーンスープで済ませようか、という弱気な思考が頭をもたげる。

 だが、隣の戦乙女は違った。

「ほう……」

 ヘルヤは、そのカオスな光景を前にして、恍惚とした表情を浮かべていた。
 瞳がキラキラと輝き、頬が紅潮している。

「素晴らしい。これぞ戦場。これぞ混沌。久しく忘れていた、血湧き肉躍る感覚だ」
「いや、ただの混雑だ」
「見ろ、カズキ。あの最前線に立つ老婆……いや、補給部隊長の手さばきを。千手観音のごとき速さでパンを配給し、対価を回収している。あれは熟練の戦士だ」
「購買のおばちゃんだよ。あと指は十本しかない」
「そして、群がる兵士たちの気迫。食への執着が、彼らを修羅へと変えている。……ゾクゾクするな」

 彼女は唇を舐めた。
 完全にスイッチが入っている。
 まずい。ここで彼女を解き放てば、何が起きるか分からない。

「おいヘルヤ、待て。作戦を立てよう。ここは一旦引いて、人が減るのを……」
「引く? 撤退だと?」

 彼女はギロリと俺を睨んだ。

「目の前に獲物があるのに、指をくわえて待てと言うのか? そんな腑抜けた戦術、ヴァルキリーの名折れだ!」
「だから戦術とかじゃなくて……」

 俺の制止など聞く耳を持たず、彼女は片足を一歩踏み出した。

「カズキ、貴様はそこで見ていろ。私が本物の『狩り』というものを見せてやる」
「は? 狩り?」
「狙うは、あのショーケースの中央に鎮座する、緑色の宝石……『数量限定・至高のメロンパン』だ!」

 彼女の指先が、人混みの向こうにあるガラスケースの一点を指し示した。
 そこには確かに、残り一つとなった『プレミアム・メロンパン』が、蛍光灯の光を浴びて神々しく輝いていた。
 通常のメロンパンの倍の価格と、三倍のカロリーを誇ると噂される、幻の一品だ。

「あれこそ、我ら主従の昼餉に相応しい。……行くぞ!」

 言うが早いか、彼女は弾丸のように飛び出した。

「ちょ、待てって!」

 俺の声は、喧騒にかき消された。
 ヘルヤは人混みの最後尾に到達すると、そこから信じられない動きを見せた。
 力任せに押しのけるのではない。
 彼女は、人の波のわずかな隙間、肩と肩の間、一瞬生じる空間の歪みを瞬時に読み取り、そこへ身体を滑り込ませていくのだ。
 まるで流水が岩の間を抜けるように。あるいは、風が木々の間を吹き抜けるように。
 緑色のジャージではなく制服姿だが、その動きのキレは達人のそれだった。

「す、すいません! ちょっと通ります!」

 俺は慌てて彼女の後を追おうとしたが、すぐに人の壁に阻まれた。
 彼女が開いたルートは、彼女が通り過ぎた瞬間に閉じてしまう。俺には彼女のような流体のごとき挙動は不可能だ。
 仕方なく、俺は背伸びをして彼女の行方を目で追った。

 人だかりの中、金色の頭がひょこひょこと動いているのが見える。
 周囲の男子生徒たちが、「うおっ?」「なんだ今の」「いい匂いしたぞ」とざわめいている。
 彼女は接触を最小限に抑えつつも、確実に前へと進んでいた。
 だが、最前線は激戦区だ。
 そこには、ラグビー部や柔道部といった巨漢たちが、壁となって立ちはだかっていた。彼らもまた、メロンパンを狙うライバルたちだ。

「そこをどけ、雑兵ども!」

 ヘルヤの凛とした声が響いた。
 巨漢たちが一斉に振り返る。
 そこには、可憐な美少女が仁王立ちしていた。

「あ? なんだお前……って、うお、すげえ美人」
「転校生か?」

 彼らが一瞬、その美貌に気を取られ、動きを止めた隙。
 それが彼女にとっての勝機だった。

「隙あり!」

 ヘルヤは低い姿勢で回転し、巨漢の脇の下をくぐり抜けた。
 スカートがふわりと舞う。
 誰も反応できない速度で、彼女はカウンターの最前列へと躍り出た。

「おばちゃん! あのメロンパンを所望する!」

 彼女はカウンターにバンと両手をつき、高らかに宣言した。
 購買のおばちゃんは、突然現れた金髪の少女に一瞬目を丸くしたが、そこは歴戦の兵士(販売員)。すぐに営業スマイルを取り戻した。

「はいよ! 最後の一個だよ。よかったね!」
「感謝する。代金はこれだ!」

 彼女はポケットから小銭を取り出し、カウンターに叩きつけた。
 その直後、背後から怒号が飛んだ。

「おい! 俺が狙ってたんだぞ!」
「割り込みだろ!」
「メロンパン返せ!」

 巨漢たちが我に返り、殺気立って詰め寄ろうとする。
 まずい。いくら美少女でも、食い物の恨みは恐ろしい。袋叩きにされるぞ。
 俺が助けに入ろうとした、その時だった。

 ヘルヤがゆっくりと振り返った。
 その手には、獲得したばかりのメロンパンが握られている。
 彼女は青い瞳を細め、ニヤリと笑った。
 そして。

 ゾワリ。

 その場にいた全員の肌が泡立つような、冷たい感覚が走った。
 殺気だ。
 物理的な風圧さえ伴うような、研ぎ澄まされた闘気。
 彼女の背後に、幻影としての巨大な翼と、血塗られた槍が見えたような気がした。

「……何か文句があるのか?」

 彼女の声は静かだったが、それは嵐の前の静けさのように、絶対的な圧力を孕んでいた。
 巨漢たちが、ビクリと身をすくませた。
 動物的な本能が、彼らに「これ以上関わると死ぬ」と警鐘を鳴らしたのだろう。

「い、いえ……」
「どうぞ……」
「俺は、ジャムパンでいいっす……」

 屈強な男たちが、次々と道を譲っていく。
 完全勝利だ。
 ヘルヤは満足げに頷くと、ついでとばかりに他のパンも指差した。

「ならば、ついでにその焼きそばパンと、カレーパンと、クリームパンも頂こう。我が軍の兵士の分も必要だからな」

 我が軍の兵士。俺のことか。
 彼女は追加のパンを購入すると、悠々とモーゼのように開かれた道を戻ってきた。
 その手には、戦利品の山が入ったビニール袋がぶら下がっている。

「待たせたな、カズキ。任務完了だ」

 彼女は俺の前に立つと、キラキラした笑顔を向けた。
 周囲の生徒たちは、呆然と彼女を見送っていた。
 「なんだ今の……」「ワルキューレ……?」「こええ……」
 そんな囁きが聞こえてくる。
 俺は深く帽子を被りたい気分だったが、帽子はないので、とりあえず顔を手で覆った。

「……お前、目立つなって言ったよな?」
「何のことだ? 私は正当な商取引を行っただけだぞ」
「殺気漏れてたぞ。一般人に覇気を使うな」

 俺は彼女の腕を引き、逃げるようにその場を離れた。これ以上ここにいたら、俺までどんな目で見られるか分かったものではない。



 俺たちは人目を避けるため、校舎裏にある中庭のベンチへと移動した。
 ここは昼休みでもあまり人が来ない、俺お気に入りの隠れスポットだ。
 植え込みの陰にあり、日当たりもそこそこ良い。
 ベンチに二人並んで座り、俺たちは戦利品を広げた。

「見ろ、カズキ。この輝きを」

 ヘルヤはビニール袋から『プレミアム・メロンパン』を取り出し、太陽にかざした。
 表面のクッキー生地には砂糖がまぶされ、網目模様が芸術的なまでに均整を保っている。

「これが地上の秘宝か……。天界の『黄金の林檎』にも劣らぬ造形美だ」
「ただのパンだけどな。早く食わないと昼休み終わるぞ」
「焦るな。食事とは、味覚だけでなく、視覚、嗅覚、そして精神で味わうものだ」

 彼女はもっともらしいことを言いながら、袋を開けた。
 甘いバターの香りが漂う。
 彼女は大きな口を開け、ガブリとかぶりついた。

 サクッ。
 いい音がした。

「んんっ……!」

 彼女の目が大きく見開かれた。

「なんだこれは! 外側は鎧のように堅固でサクサクしているのに、内側は雲のように柔らかい! そして溢れ出すバターの芳醇な香り! 甘さが脳髄を直撃する!」
「食レポはいいから。口の周りに砂糖ついてるぞ」
「うまい! うまいぞカズキ! これが百五十円だと!? 天界なら金貨一枚に値するぞ!」

 彼女はリスのように頬を膨らませ、夢中で咀嚼を続ける。
 その幸せそうな顔を見ていると、さっきまでの暴挙も少しだけ許せるような気がしてくるから不思議だ。顔がいいというのは、それだけで強力な武器だ。

「で、俺の分は?」

 俺は空になったビニール袋を指差した。
 ヘルヤはハッとして、慌てて袋の中から別のパンを取り出した。

「ああ、忘れていたわけではないぞ。ほら、これだ」

 彼女が差し出したのは、透明なフィルムに包まれた、茶色い塊だった。
 焼きそばパンだ。
 コッペパンの間に、紅生姜が乗ったソース焼きそばが挟まっている、炭水化物オン炭水化物の暴力的な一品。

「……焼きそばパンか。嫌いじゃないけど」
「貴様に足らない栄養素に合わせて選定した」
「そうか、サンキュ」

 俺は受け取り、フィルムを剥がした。
 ソースの酸味のある匂いが食欲をそそる。
 俺もまた、空腹の限界だった。
 早速かぶりつこうとした、その時。

 じーっ。

 視線を感じた。
 横を見ると、ヘルヤがメロンパンを片手に持ったまま、俺の焼きそばパンを凝視していた。
 その視線は、獲物を狙う鷹のように鋭い。

「……なんだよ」
「いや、別になんでもない。ただ、その黒い麺とパンの融合体が、どのような味のハーモニーを奏でるのか、学術的な興味が湧いただけだ」
「食いたいのか?」
「まさか! 私はこの高貴なメロンパンで満たされている。だが、知識として知っておく必要はあるかもしれないな。未知の食材への理解は、戦術の幅を広げるからな」
「……」

 要するに、一口寄越せということだ。
 この戦乙女は、自分の皿にあるものよりも、他人の皿にあるものが美味しく見えるタイプらしい。
 俺はため息をつき、焼きそばパンを差し出した。

「ほらよ。一口だけだぞ」
「ほう! 貴様がそう言うなら、断るのも無礼というもの。毒見のつもりで味わってやろう」

 彼女は嬉々として顔を近づけ、そして。

 ガブッ。

 でかい。
 一口が、でかい。
 彼女の可憐な顎関節がどこまで開くのか知らないが、パンの半分近くが一瞬にして消失した。

「おい!!」

 俺は悲鳴を上げた。
 手元に残ったのは、端っこだけになったコッペパンの残骸と、わずかにこぼれ落ちた紅生姜のみ。
 具の焼きそば部分は、ほぼすべて彼女の口の中へと吸い込まれていた。

「んぐ、んぐ……ふーっ!」

 ヘルヤは喉を鳴らして飲み込むと、恍惚の吐息を漏らした。

「濃厚だ……! このソースの刺激、そして麺のもちもち感! パンの淡白さと絶妙に絡み合い、口の中で革命が起きている!」
「革命起こしすぎだろ! 俺の昼飯が!」
「カズキ、これは美味いな。メロンパンとはまた違った、野性味あふれる美味だ。気に入った」
「気に入ったじゃねえよ! ほとんど食いやがって!」

 俺は残されたパンの耳のような部分を悲しく見つめた。これでは腹の足しにもならない。
 ヘルヤは悪びれる様子もなく、自分のメロンパンの残りを口に放り込み、コーラで流し込んだ。

「ふう、満腹だ。やはり現地の食事は良いな。活力がみなぎってくる」
「俺は空腹のままだよ……」
「安心しろ。貴様の犠牲は無駄にはしない。このカロリーは、貴様を守るための力となるのだからな」
「自分の欲望のためだろ」

 俺が恨めしそうに文句を言っていると、不意に植え込みの向こうからヒソヒソという話し声が聞こえてきた。

「……おい見ろよ、あれ」
「九条と転校生だ」
「マジで一緒に飯食ってるじゃん」
「しかも、あーんして食べさせてたぞ、今」
「えっ、マジ? 口移し?」
「いや、パンを分け合ってたみたいだけど……」

 男子生徒たちの声だ。どうやら俺たちの姿を目撃されていたらしい。
 しかも、「ヘルヤが俺のパンを強奪した」という事実が、彼らのフィルターを通すことで「仲睦まじくパンを分け合うカップル」という歪んだ解釈に変換されている。

「うわー、九条のやつ、マジで手なずけてんのかよ」
「ワルキューレの飼い主って噂、本当だったんだな」
「すげえな、どんな手を使ったんだ……」
「餌付けか? あいつ、すげえ食ってたし」

 飼い主。餌付け。
 不名誉な単語が聞こえてくる。
 違う。俺は飼い主じゃない。むしろ被害者だ。食料を奪われている被捕食者だ。
 だが、彼らの目には、俺が美少女を侍らせて餌を与えているように映っているらしい。

「カズキ、何やら外野が騒がしいな」

 ヘルヤが怪訝な顔で植え込みの方を見た。

「敵の斥候か? 排除するか?」
「やめろ! 絶対にするな!」

 俺は慌てて彼女の腕を掴んだ。
 ここで彼女が動けば、「飼い主が猛獣をけしかけた」というさらに恐ろしい噂が立つことになる。

「もう行くぞ。昼休みも終わる」
「む、そうか。デザートのプリンを買い忘れたのが心残りだが……」
「まだ食う気かよ」

 俺は彼女を立たせ、早足で教室へと戻ることにした。
 背後に残る噂話が、呪いのように俺の背中にまとわりつくのを感じながら。
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