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「愛しいシエラ。まだ蕾もつけない可憐な君を、私は生涯にわたり大切にしたい。あの美しいヴェラーヌの花のように、私は幾夜でも君が咲きほころぶのをゆっくりと待とう。だから今は、安心してお休み。」
え。今お休みっつった?
そう思ったのも束の間に、私の初夜は幕を閉じた。
鳩豆な台詞だったけど、ヴェラーヌは半世紀に一度花を咲かせる奇妙な植物だ。18の私にそう言うということは、つまり、私を抱く気はない、ということだ。
五分かそこらで、私の横でこちらに背を向けるわけでもなく、仰向けに寝たまま豪快にいびきをこき始めたこの”夫”を見るにつけ、私はこの日のために私が準備し期待してきたことが、静かにその熱を失っていくのを感じた。教育されてきたこと、愛、恋愛、思い描いていた未来、恥じらいに適度な恐怖、何もかも。
でも悲しくはなかった。むしろ熱病が静まったときのような身軽ささへあった。ベッドシーツの心地よい冷たさを思い出し、五月蠅い鼓動が止んで夜の静寂が聞こえた。
アルコール中毒者がそれを克服したときに感じる、「シャキっとする瞬間」というは、もしかするとこんな感じかも、なんて呑気に考えると、天蓋を見つめながら私は一人でニヤニヤした。
実際、結婚早々夫からそんな宣告を受けたなら、出産はじめ私の立場や世間体を気にし焦るものだろうけど、もともとそうしたことに鈍い私には対岸の火事だ。
というのも、私の関心は愛しかなかったから。
人は、それを拒まれたのだから尚のこと落胆するだろう、と考えるかもしれない。
でも私は、必ずしも愛を享受したいわけではなく、ただそれを知りたいのだっだ。
幼少の頃から興味本位で恋愛小説を読みあさり、嫁ぐ前まで、14の時に一度だけ婚約者として顔を合わせた年上のこの夫のことを、私はずーっと勝手に慕ってきた。
それまで本の中にしか存在しなかった愛という無上なものが、いよいよ私のもとに降ってきたと確信したときの私の感慨は、途方もなかった。
振る舞いも容貌も好もしかったし、辺境伯である故豪胆ではあるが決して粗忽ではないその様は、私のあらゆる想像の中にしっかりと彼を着地させた。そのたくましい腕に抱きかかえられる場面も、私を救い出すために勇敢に竜を打ち倒すその雄姿も、装いを変えて私の前にしなやかに跪くその雄弁な姿も、全てがちっとも矛盾せずに。
愛を知りたい私は、必死に好きな競技の練習をする人のように、自身にはまだ備わっていない技術と感覚を身につけるために彼を想った。
もちろん、私は年頃の女性がするように彼を思いながら自然に胸を高鳴らせていたし、勢い付いて、お母様に教育された際に実際に見学させられた、使用人同士の”夜のご様子”を自分たちに置き換えて行き場をなくすほど熱くもなった。想像の中の彼の腕や指が私の触れてはならない身体を無造作に這っていく感覚は、身動きが取れない最中に蛇が絡みついてきたような気味の悪さと、痛みと死の予感に連続していて、そういう想像を膨らませた日は夜も眠れなかった。
似たような想像を他の人物に転用することのなかった私は、間違いなく夫に恋をしていると自負していた。けど、もし誰かに、それは恋に恋をしていただけだと言われれば、あっさりとそれも受け入れただろう。というのも私は、恋に恋をさせてしまうのもまた、一つの愛の真実じゃない?と考えることで、夫への純粋な恋慕と夫から愛を搾取する無礼とを、どちらも捕まえて置きたかったのだ。
さて、こうした私の態度に潜む最大の問題は、私にはそれらを楽しむ癖があるということだ。そういった様々な熱のこもったシーンも、透明なガラス鉢の中を泳ぐ金魚を覗める楽しさと変わらなかった。単に、愛というその魚はほかのどの魚よりも色鮮やかで美しかったというだけ。私には快楽も慕情も苦痛も、ガラスの中の魚の話で、それを眺める私の心まで変容させるだろうという想像力が欠けていた。若い騎士と夫人との悲恋物語に対する私の涙は、むかし飼っていて大好きだった犬のペギーが死んだときに流した涙と、同じ味がしたことだろう。
泣くことまでが嗜みと考えていた私には、自然だったし、これが貴族的な贅沢とも思えなかった。何せ私は誰よりも愛を欲していたという点では、自分を物乞い同様に感じていたし、いつか鉢の中にそんな自分も吸い込まれると、信じていたのだから。
こうした私の癖に加えて、私の残念な初夜を支えていたもう一つのモノに、もっと分かりやすいものがる。
それは私が10歳の頃からバイブルとしている、『必読 愛の定石』である。
200年前にとある老魔女が暇を持て余して記したとされるこの半ばジョーク集のような本は、その一節で、結婚は愛にあらず、とはっきし述べている。
むべなるかな。相手も分からぬまま結婚するご時世だ。
結婚そのものには愛がないのであれば、私は夫を間近に置いて一から観察しなおせば、私の想像を壊して、あるいはまた思いもよらなかった二人の愛の形が見つかるかもしれない、と考えてウキウキした。
幸いなことに、私は、愛について、自身が圧倒的に無知であることをよく知っていた。
現にこの夜、9割が私の想像で構成さていた夫について、いびきがうるせえ、ということを発見でき、しかも暗闇のなかおぼろげに浮かび上がる、その鼻をつまんでみたくなる彼の寝顔は、案外かわいいのかもしれなかった。
え。今お休みっつった?
そう思ったのも束の間に、私の初夜は幕を閉じた。
鳩豆な台詞だったけど、ヴェラーヌは半世紀に一度花を咲かせる奇妙な植物だ。18の私にそう言うということは、つまり、私を抱く気はない、ということだ。
五分かそこらで、私の横でこちらに背を向けるわけでもなく、仰向けに寝たまま豪快にいびきをこき始めたこの”夫”を見るにつけ、私はこの日のために私が準備し期待してきたことが、静かにその熱を失っていくのを感じた。教育されてきたこと、愛、恋愛、思い描いていた未来、恥じらいに適度な恐怖、何もかも。
でも悲しくはなかった。むしろ熱病が静まったときのような身軽ささへあった。ベッドシーツの心地よい冷たさを思い出し、五月蠅い鼓動が止んで夜の静寂が聞こえた。
アルコール中毒者がそれを克服したときに感じる、「シャキっとする瞬間」というは、もしかするとこんな感じかも、なんて呑気に考えると、天蓋を見つめながら私は一人でニヤニヤした。
実際、結婚早々夫からそんな宣告を受けたなら、出産はじめ私の立場や世間体を気にし焦るものだろうけど、もともとそうしたことに鈍い私には対岸の火事だ。
というのも、私の関心は愛しかなかったから。
人は、それを拒まれたのだから尚のこと落胆するだろう、と考えるかもしれない。
でも私は、必ずしも愛を享受したいわけではなく、ただそれを知りたいのだっだ。
幼少の頃から興味本位で恋愛小説を読みあさり、嫁ぐ前まで、14の時に一度だけ婚約者として顔を合わせた年上のこの夫のことを、私はずーっと勝手に慕ってきた。
それまで本の中にしか存在しなかった愛という無上なものが、いよいよ私のもとに降ってきたと確信したときの私の感慨は、途方もなかった。
振る舞いも容貌も好もしかったし、辺境伯である故豪胆ではあるが決して粗忽ではないその様は、私のあらゆる想像の中にしっかりと彼を着地させた。そのたくましい腕に抱きかかえられる場面も、私を救い出すために勇敢に竜を打ち倒すその雄姿も、装いを変えて私の前にしなやかに跪くその雄弁な姿も、全てがちっとも矛盾せずに。
愛を知りたい私は、必死に好きな競技の練習をする人のように、自身にはまだ備わっていない技術と感覚を身につけるために彼を想った。
もちろん、私は年頃の女性がするように彼を思いながら自然に胸を高鳴らせていたし、勢い付いて、お母様に教育された際に実際に見学させられた、使用人同士の”夜のご様子”を自分たちに置き換えて行き場をなくすほど熱くもなった。想像の中の彼の腕や指が私の触れてはならない身体を無造作に這っていく感覚は、身動きが取れない最中に蛇が絡みついてきたような気味の悪さと、痛みと死の予感に連続していて、そういう想像を膨らませた日は夜も眠れなかった。
似たような想像を他の人物に転用することのなかった私は、間違いなく夫に恋をしていると自負していた。けど、もし誰かに、それは恋に恋をしていただけだと言われれば、あっさりとそれも受け入れただろう。というのも私は、恋に恋をさせてしまうのもまた、一つの愛の真実じゃない?と考えることで、夫への純粋な恋慕と夫から愛を搾取する無礼とを、どちらも捕まえて置きたかったのだ。
さて、こうした私の態度に潜む最大の問題は、私にはそれらを楽しむ癖があるということだ。そういった様々な熱のこもったシーンも、透明なガラス鉢の中を泳ぐ金魚を覗める楽しさと変わらなかった。単に、愛というその魚はほかのどの魚よりも色鮮やかで美しかったというだけ。私には快楽も慕情も苦痛も、ガラスの中の魚の話で、それを眺める私の心まで変容させるだろうという想像力が欠けていた。若い騎士と夫人との悲恋物語に対する私の涙は、むかし飼っていて大好きだった犬のペギーが死んだときに流した涙と、同じ味がしたことだろう。
泣くことまでが嗜みと考えていた私には、自然だったし、これが貴族的な贅沢とも思えなかった。何せ私は誰よりも愛を欲していたという点では、自分を物乞い同様に感じていたし、いつか鉢の中にそんな自分も吸い込まれると、信じていたのだから。
こうした私の癖に加えて、私の残念な初夜を支えていたもう一つのモノに、もっと分かりやすいものがる。
それは私が10歳の頃からバイブルとしている、『必読 愛の定石』である。
200年前にとある老魔女が暇を持て余して記したとされるこの半ばジョーク集のような本は、その一節で、結婚は愛にあらず、とはっきし述べている。
むべなるかな。相手も分からぬまま結婚するご時世だ。
結婚そのものには愛がないのであれば、私は夫を間近に置いて一から観察しなおせば、私の想像を壊して、あるいはまた思いもよらなかった二人の愛の形が見つかるかもしれない、と考えてウキウキした。
幸いなことに、私は、愛について、自身が圧倒的に無知であることをよく知っていた。
現にこの夜、9割が私の想像で構成さていた夫について、いびきがうるせえ、ということを発見でき、しかも暗闇のなかおぼろげに浮かび上がる、その鼻をつまんでみたくなる彼の寝顔は、案外かわいいのかもしれなかった。
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