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それから程なくして、日が沈み始めた頃に夫が帰ってきた。
元々ルーク殿が来訪したのは、夫から夕食を共にするようアカデミーで誘われたからだった。
前日に都合をつけるわけでもなく、随分と急だなと思いもしたけど、それは二人の仲だから出来る事なのだろう。 調理人たちの準備を考慮していない晩餐に人を招待するなど、相手によっては決して出来ない。 とはいえ、家の常を晒すこうした行為は、通常、深い友情を示す一つの証ではあるものの、相手の意表をついた申し出をして、相手がそれに困惑する様子を見て悦に入る、ひねくれ者で悪戯好きな夫のことだから、単なる気まぐれかもしれなかった。
「残念! 今日は鴨肉がないから出せないとさ!」
帰ってくるなり、調理場へと顔を出しに行って戻って来た夫が、大袈裟に天を仰ぎながらそう言った。
ルーク殿が来た折に、夕食の準備を軽く指示しておいたけど、確かに今日、肉は鹿肉しかないと言われ、それで構わないと言っておいた。
別に夫は、私や仕入れ人を非難しているわけではないし、この発言が人によっては多少非難めいて聞こえることも、もちろん承知している。
ただ夫は、このように誰かを小さく翻弄することが単純に好きなのだ。
それは、相手を我が意に従わせたいなどという矮小な性根からではなく、あらゆる事を分かってて、意に介さない振る舞いをすることこそ上等であるという、貴族の品性からだった。
なまじな貴族は、そうした夫の振る舞いを、私に誘われたからには断れまい、とか、私の指示を仰げ、という権威の試金ととらえがちだけど、夫が自負するような格式高い貴族は、例えそれらが聞き入れられなかったとしても、相手にこの人は気まぐれな人だと印象付けることが出来ればそれでよいのだった。 そういう所は、なるほど由緒あるマレフィードの人間であると思う。
「ルーク、すまないが今晩は鹿で我慢してくれよ」
「もし今日鹿肉がなかったら、残念! 今日は鴨しかないってさ! とどうせ仰ったでしょう?」
夫を真似ながらルーク殿がこたえた。 その通りだった。
私はというと、ルーク殿と、途中からレ・クロウルバッハ的な私で話していたため、どちらで振る舞おうか少しだけ迷っていた。
正直どっちでもよかった。 だから、そもそも私はマレフィード伯爵夫人であるという当たり前の理由でそちらを選んだ。
加えて、そちらの方が楽でもあったから。
振る舞い方というのは、衣装のようなものである。
マレフィード夫人という上等なドレスを着るか、レ・クロウルバッハというナイトガウンを着るか、それはその時の気分と塲の問題を除けば、前者の方が圧倒的に楽だった。
肌を見せる衣装よりも、色々と着こんだ衣装の方が、遥かに気を使わないですむ。
それにやはり夫には、着飾った美しい私の方を見てほしかった。
「それでは、そろそろ食堂に向かうとしよう」
夫が差し出した手をとり立ち上がると、私達は客間を後にした。
食堂の長卓では、遠いという理由で夫が端に座し、夫の左に私、右にルーク殿で、私とルーク殿が向かい合う形となった。
私は、夫ばかり見ていた。
先日の夜に、夫の細部が思い出せなかったから、努めて私は夫を観察するようにしていたという理由もあったけど、どういうわけかいつにもまして的を欲しがる私の視点は、この時夫に執着した。
私の視点は、夫の傍で、綺麗だという理由でルーク殿をジロジロ見るのは当然不自然だし、かといってルーク殿を見ないのもまたおかしいから、自然にすればいいものを、一度意識するとなかなかそれが上手くいかずに、難儀した結果、すがるように夫を見た。
そのため、先程までと違って側むことの多くなった黒い瞳と髪が、その存在が影のようにハッキリとしているため、少し五月蝿く感じられて落ち着かなかった。
ところが、しばらくソワソワとしながら夫を見ていると、その落ち着きのなさが私の視線に作用して、私を、改めて夫に恋をしているような気分にさせたのである。
まじまじと、少しぼーっとしながら、ルーク殿と話し食事をとっている夫を眺めるのは、とても楽しかった。
夫はどんな料理も、チップスやピーナッツでも摘まむかのように食べる。
こういった部分でも、夫は鋭敏な味覚を示す調理の評価や知識の披露に労をさかずに、愚鈍さを嗜む真の貴族的エレガンスを楽しんで、舌が馬鹿で、繊細な味の変化が感じとれないことを、むしろ誇りとしていた。 夫からすれば、いちいち出されたものについてご託を並べることは、卑しいことだった。 何事においても、言える言葉があるときに、それを言わずにいれる人間は遥かに少ない。 それに食事とは、舌の上で行われるせせこましいイベントではなく、塲そのものなのである。 彼は料理ではなく、準備した使用人たちの労力と、同席した人々の情報をよく食べたから、味はそっちのけで何を食べても、今のように
「大変結構」
とだけ言った。
万が一味がおかしな場合でも、夫のいつもの意に介さない堂々とした様子を見ていると、最初はいぶかしむ客たちも、やがてこれこそが一流の味で自分は知らないだけなのだと、勝手に思い込んで恥じ入るのだった。
そんな様が、私には素敵に思えてニヤニヤした。
「シエラはどうもご機嫌みたいだね。 二人で食事をしているとき、そんなニコニコしてたことは一度もないぞ」
私はドキリとして、咄嗟に適当な返答をした。
「仲の良いお二人の様子が、何だかとても、微笑ましくって」
「もちろん、私とルークは仲良しこよしだが、シエラとルークもそうなってもらわないと寂しい。 私とルークばかりでなく、お前もルークと話してごらん」
言われて、夫が帰ってきて以来では、初めてルーク殿と目を合わせた。
その瞬間、私はドレスを脱いでナイトガウンを羽織った心地がして、自分の腕を触って確かめていた。
思えば、毎晩ベッドで夫の隣に寝るとき、私はいつもドレスを着たままではなかったか?
元々ルーク殿が来訪したのは、夫から夕食を共にするようアカデミーで誘われたからだった。
前日に都合をつけるわけでもなく、随分と急だなと思いもしたけど、それは二人の仲だから出来る事なのだろう。 調理人たちの準備を考慮していない晩餐に人を招待するなど、相手によっては決して出来ない。 とはいえ、家の常を晒すこうした行為は、通常、深い友情を示す一つの証ではあるものの、相手の意表をついた申し出をして、相手がそれに困惑する様子を見て悦に入る、ひねくれ者で悪戯好きな夫のことだから、単なる気まぐれかもしれなかった。
「残念! 今日は鴨肉がないから出せないとさ!」
帰ってくるなり、調理場へと顔を出しに行って戻って来た夫が、大袈裟に天を仰ぎながらそう言った。
ルーク殿が来た折に、夕食の準備を軽く指示しておいたけど、確かに今日、肉は鹿肉しかないと言われ、それで構わないと言っておいた。
別に夫は、私や仕入れ人を非難しているわけではないし、この発言が人によっては多少非難めいて聞こえることも、もちろん承知している。
ただ夫は、このように誰かを小さく翻弄することが単純に好きなのだ。
それは、相手を我が意に従わせたいなどという矮小な性根からではなく、あらゆる事を分かってて、意に介さない振る舞いをすることこそ上等であるという、貴族の品性からだった。
なまじな貴族は、そうした夫の振る舞いを、私に誘われたからには断れまい、とか、私の指示を仰げ、という権威の試金ととらえがちだけど、夫が自負するような格式高い貴族は、例えそれらが聞き入れられなかったとしても、相手にこの人は気まぐれな人だと印象付けることが出来ればそれでよいのだった。 そういう所は、なるほど由緒あるマレフィードの人間であると思う。
「ルーク、すまないが今晩は鹿で我慢してくれよ」
「もし今日鹿肉がなかったら、残念! 今日は鴨しかないってさ! とどうせ仰ったでしょう?」
夫を真似ながらルーク殿がこたえた。 その通りだった。
私はというと、ルーク殿と、途中からレ・クロウルバッハ的な私で話していたため、どちらで振る舞おうか少しだけ迷っていた。
正直どっちでもよかった。 だから、そもそも私はマレフィード伯爵夫人であるという当たり前の理由でそちらを選んだ。
加えて、そちらの方が楽でもあったから。
振る舞い方というのは、衣装のようなものである。
マレフィード夫人という上等なドレスを着るか、レ・クロウルバッハというナイトガウンを着るか、それはその時の気分と塲の問題を除けば、前者の方が圧倒的に楽だった。
肌を見せる衣装よりも、色々と着こんだ衣装の方が、遥かに気を使わないですむ。
それにやはり夫には、着飾った美しい私の方を見てほしかった。
「それでは、そろそろ食堂に向かうとしよう」
夫が差し出した手をとり立ち上がると、私達は客間を後にした。
食堂の長卓では、遠いという理由で夫が端に座し、夫の左に私、右にルーク殿で、私とルーク殿が向かい合う形となった。
私は、夫ばかり見ていた。
先日の夜に、夫の細部が思い出せなかったから、努めて私は夫を観察するようにしていたという理由もあったけど、どういうわけかいつにもまして的を欲しがる私の視点は、この時夫に執着した。
私の視点は、夫の傍で、綺麗だという理由でルーク殿をジロジロ見るのは当然不自然だし、かといってルーク殿を見ないのもまたおかしいから、自然にすればいいものを、一度意識するとなかなかそれが上手くいかずに、難儀した結果、すがるように夫を見た。
そのため、先程までと違って側むことの多くなった黒い瞳と髪が、その存在が影のようにハッキリとしているため、少し五月蝿く感じられて落ち着かなかった。
ところが、しばらくソワソワとしながら夫を見ていると、その落ち着きのなさが私の視線に作用して、私を、改めて夫に恋をしているような気分にさせたのである。
まじまじと、少しぼーっとしながら、ルーク殿と話し食事をとっている夫を眺めるのは、とても楽しかった。
夫はどんな料理も、チップスやピーナッツでも摘まむかのように食べる。
こういった部分でも、夫は鋭敏な味覚を示す調理の評価や知識の披露に労をさかずに、愚鈍さを嗜む真の貴族的エレガンスを楽しんで、舌が馬鹿で、繊細な味の変化が感じとれないことを、むしろ誇りとしていた。 夫からすれば、いちいち出されたものについてご託を並べることは、卑しいことだった。 何事においても、言える言葉があるときに、それを言わずにいれる人間は遥かに少ない。 それに食事とは、舌の上で行われるせせこましいイベントではなく、塲そのものなのである。 彼は料理ではなく、準備した使用人たちの労力と、同席した人々の情報をよく食べたから、味はそっちのけで何を食べても、今のように
「大変結構」
とだけ言った。
万が一味がおかしな場合でも、夫のいつもの意に介さない堂々とした様子を見ていると、最初はいぶかしむ客たちも、やがてこれこそが一流の味で自分は知らないだけなのだと、勝手に思い込んで恥じ入るのだった。
そんな様が、私には素敵に思えてニヤニヤした。
「シエラはどうもご機嫌みたいだね。 二人で食事をしているとき、そんなニコニコしてたことは一度もないぞ」
私はドキリとして、咄嗟に適当な返答をした。
「仲の良いお二人の様子が、何だかとても、微笑ましくって」
「もちろん、私とルークは仲良しこよしだが、シエラとルークもそうなってもらわないと寂しい。 私とルークばかりでなく、お前もルークと話してごらん」
言われて、夫が帰ってきて以来では、初めてルーク殿と目を合わせた。
その瞬間、私はドレスを脱いでナイトガウンを羽織った心地がして、自分の腕を触って確かめていた。
思えば、毎晩ベッドで夫の隣に寝るとき、私はいつもドレスを着たままではなかったか?
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