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翌日二人を見送り、メリルからやらなくてもいいと言われながらも、半ば趣味として行っている洗濯やら掃除を済ませると、私は庭のガゼボで一人お茶を飲んだ。
季節がら庭はまだ植物だけが虫たちに先んじてざわついているばかりで、時折吹く柔らかい風も心地好い。
お茶の香りを楽しみながら、私は今朝の彼の相変わらずなニコニコとした様子を思い出していた。その相変わらずぶりに少し腹が立つけど、決して嫌なものではない。
ふと私は『彼』と私が脈絡もなく思考するとき、それは誰を指示しているだろうかを考えた。答えは分かっていて、もちろんルークである。夫は夫であって、夫に対して彼という言葉を当てるのは、既に違和感を伴うようになっていた。
なるほど婚姻は言葉の上でもある人を夫としてしまうらしい。その代わりに不在となった彼という空隙は、いかにも物欲しそうに何かを、誰かを求めていた。婚姻に愛はなく、不倫こそ愛であると巷で言われるのも、この不足の充足のせいではあるまいかと思えてならない。そうすると愛は欠乏そのものなのかもしれず、しかもそうであるならば、愛は、ある人間と出会うことで自然と生じるものではなくて、すでにそれは相手よりも前に私の中にあって、ただ食虫植物のように、誰かがそこに掛かるのをじっと"待っていた"ということになる。
恋は落ちるものとは、よく言ったものだ。自分で掘っておいた落とし穴に、誰かをひっかけておきながら、あまつさえ自分でその穴を掘ったことを忘れている。
思っていたよりも見も蓋もなくて貪欲な一方で、少し滑稽だなと思うと可笑しかった。
実際、彼は、とか、彼が、とかいう言葉でルークを想像すると、パズルのピースがピタリとはまるのに似た快感があるけど、はまる穴が先になければ、そこに収まるピースは存在するはずがないのだった。
私は急に、ルークに恋をしていると自覚してニヤニヤした。というより、とっくに分かっていたことを、改めて自覚しただけと言った方が正しい。
というのは、よくよく考えてみれば、私は意識に上るか上らないかという瞬間的な判断で、これまで出会ってきた全ての人間に恋をしてきた。それが自覚もないほど一瞬で終わるか、持続するかは相手によって違うだけで、出会ったその瞬間は、それが誰であれ、毎回その人に恋をしているのである。なぜならあなたやら、彼やら彼女、つまり他者とは私にとって空っぽな欠乏そのものだから。
私ははじめからルークが好きだった。さらには、ルークに恋をしているのではなくて、ルークへの恋だけが残っていた。
「奥様、お茶のおかわりをお持ちしましょうか?」
ちょうどいいタイミングでメリルがやってきてそう聞いてきたので、私は楽しくなって言ってみた。
「お茶は結構よ、ありがとう。 それよりも聞いてメリル、わたくし、あなたに恋をしていたの」
30過ぎのこの美しい侍女頭が、年甲斐もなく面くらってどぎまぎと視線をさ迷わせる。
「ほんの一瞬だったから、遠い遠い昔のことのように感じるけれど」
あらゆる過去に出会った、何とも思っていなかった人間さえも、思い出の中で美しいのは、それが小さな恋の思い出に他ならないからな気がした。
庭の花壇へと視線を向けると、一匹のハチが花と戯れて、やがてとまった。
季節がら庭はまだ植物だけが虫たちに先んじてざわついているばかりで、時折吹く柔らかい風も心地好い。
お茶の香りを楽しみながら、私は今朝の彼の相変わらずなニコニコとした様子を思い出していた。その相変わらずぶりに少し腹が立つけど、決して嫌なものではない。
ふと私は『彼』と私が脈絡もなく思考するとき、それは誰を指示しているだろうかを考えた。答えは分かっていて、もちろんルークである。夫は夫であって、夫に対して彼という言葉を当てるのは、既に違和感を伴うようになっていた。
なるほど婚姻は言葉の上でもある人を夫としてしまうらしい。その代わりに不在となった彼という空隙は、いかにも物欲しそうに何かを、誰かを求めていた。婚姻に愛はなく、不倫こそ愛であると巷で言われるのも、この不足の充足のせいではあるまいかと思えてならない。そうすると愛は欠乏そのものなのかもしれず、しかもそうであるならば、愛は、ある人間と出会うことで自然と生じるものではなくて、すでにそれは相手よりも前に私の中にあって、ただ食虫植物のように、誰かがそこに掛かるのをじっと"待っていた"ということになる。
恋は落ちるものとは、よく言ったものだ。自分で掘っておいた落とし穴に、誰かをひっかけておきながら、あまつさえ自分でその穴を掘ったことを忘れている。
思っていたよりも見も蓋もなくて貪欲な一方で、少し滑稽だなと思うと可笑しかった。
実際、彼は、とか、彼が、とかいう言葉でルークを想像すると、パズルのピースがピタリとはまるのに似た快感があるけど、はまる穴が先になければ、そこに収まるピースは存在するはずがないのだった。
私は急に、ルークに恋をしていると自覚してニヤニヤした。というより、とっくに分かっていたことを、改めて自覚しただけと言った方が正しい。
というのは、よくよく考えてみれば、私は意識に上るか上らないかという瞬間的な判断で、これまで出会ってきた全ての人間に恋をしてきた。それが自覚もないほど一瞬で終わるか、持続するかは相手によって違うだけで、出会ったその瞬間は、それが誰であれ、毎回その人に恋をしているのである。なぜならあなたやら、彼やら彼女、つまり他者とは私にとって空っぽな欠乏そのものだから。
私ははじめからルークが好きだった。さらには、ルークに恋をしているのではなくて、ルークへの恋だけが残っていた。
「奥様、お茶のおかわりをお持ちしましょうか?」
ちょうどいいタイミングでメリルがやってきてそう聞いてきたので、私は楽しくなって言ってみた。
「お茶は結構よ、ありがとう。 それよりも聞いてメリル、わたくし、あなたに恋をしていたの」
30過ぎのこの美しい侍女頭が、年甲斐もなく面くらってどぎまぎと視線をさ迷わせる。
「ほんの一瞬だったから、遠い遠い昔のことのように感じるけれど」
あらゆる過去に出会った、何とも思っていなかった人間さえも、思い出の中で美しいのは、それが小さな恋の思い出に他ならないからな気がした。
庭の花壇へと視線を向けると、一匹のハチが花と戯れて、やがてとまった。
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