アイデンティティ崩壊フェアリーズ 妖精たちが人間の中学校に留学したら、たいへんなことになりました。

柳なつき

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第一章 モラトリアム重大フェアリーズ

あはははは

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 事件というか、故意の事故とでもいうか。どちらでもよい。とにかく、それまでも空気はおかしかった。なんというか……気をつかうようでいて、いつでも空気が悪い感じに流れてるんだよな、くすくす笑いというのはあまり気持ちのいいものではないと知った。

 ローザとオレの席はなぜか離れていた。オレは廊下がわのいちばん後ろ、ローザは窓ぎわのいちばん後ろ。空いている席がそのふたつだけだったらしく、まあそんなもんかなと思っていた。
 だが、いざってときにローザに突っ込みに行けないということは想定外だった。ローザは意外と人見知りをするということなどはじめて知ったし。妖精界では生まれたときからみんな友好的な知り合いだから、妖精界にいるかぎりは人見知りということはまず起こらない。オレみたいにちょくちょく人間界に行っていれば別だが。


 決定的となったのは、二時間めの授業のときだった。国語、すなわち日本語の授業。

 だいじょうぶ? 日本語、わかる? 喋れるみたいだけどほら、やっぱりじっさいに使うってなるとさ。発音も向こうとはだいぶ違うんでしょ。無理しなくっていいよ?
 休み時間からすでにそんな調子。へーきへーき、日本語予習ばっちりだしっ、と手を振って笑っておいたが、やはり風はざわついていた。 周りの席のやつらがそこまでオレの日本語力を心配してくるのが不可解だった。魔法が苦手だとはいえオレだってもう成人近くの妖精だ、言語変換魔法は成功しているはず。その証拠に、ふつうに喋れているのに。

 国語の担当教師は、担任教師でもある丸子先生だった。

 教科書の朗読。廊下がわの前列から、ひとりにつきひと段落読み上げていく。オレにも回ってきて、若干緊張したけれどもどうにか読み終えた。「悉く」って言葉はちょっと怪しかったけど、たぶんこうだろ「ことごとく」って読むんだろ! って発音したら合っていたみたいでよかった。

 魔法で変換した言語、こんかいで言えば日本語の水準は、オレたちがすでに習得済みの妖精言語の水準に依存する。文法力も語彙力もだし、日本語でいえば漢字の読み書きなんかも妖精言語のレベルに合ったものとなる。オレは変な単語ばかり知っているが、まあじっさい言語の成績はBプラスかAマイナス、ときどきAが来るかなという程度。それに対してローザは言語の成績で最高評価のSSプラス以外取ったことがない気がする。もともと尋常でないレベルで優等生のローザだが、言語の授業はとくに生き生きと挙手や発言をしていた。


 だから間違うはずもなかったのだ。――通常であれば。


 ローザは順番が回ってくるとがたっと大きな音を立てて、立ち上がった。漏れたのは、温かな失笑とでも言おうか。
 そう難しい教科書ではない。オレだって読めたのだ。ローザに読めないわけがない。

 けれどもローザは、立ち上がって教科書を開いたまま固まってしまった。

 どうした――どうしたんだよ、ローザ。簡単だろ、こんなの、いつもみたいに自信満々なむかつく顔して大声で読み上げてくれよ?

 だが、ローザは動かない。

 テレパスでもしようか、アドバイスでも、オレができることはその程度だが、とりあえずは――そう思って指を動かしかけたが、やめた。留学前、ローザがいつにもまして鬼のような顔で「ぜったいに人間界で魔法なんか使わないでよ。人間にバレたら大事件だし、私はそういうズルをしなくても平気な妖精なの。郷に入りては郷に従え。人間は魔法を使わないんだから、私だって使わないことにするわ」とオレに言っていたことを思い出したからだ。
 こんな状況においてでさえも――オレは、ローザのプライドを傷つけるのがいちばん嫌だった。

 ローザは動かない。――たぶん、動けないのだ。

 その頬がすこしずつ紅潮していく。唇と手が震えはじめる。うなだれて、叱られた子どもが涙を堪えるような表情で教科書に視線を落とす。

「丸子先生」

 またも穏やかにそう言ったのは、クラス委員長――神井基樹かのいもときだった。

「僕は思うのですが、東風ロザラインさんは、留学生なので、日本語にまだ不慣れなのではないでしょうか」
「そうねえ、そうかもしれないわ」

 なのに丸子先生はなぜかもの知り顔で数回うなずいただけで、あとはにこにこにこにこしている。それ以上なにも言わないのだ。促すこともしなければ止めることもなく、ただ、あなたたちのすべてを受け容れますよとでも言いたげな、――オレが反吐が出そうになるような穏やかそのものみたいな顔をしている。

「ねえ。みんなは、どう思う?」

 神井のひとことそう言っただけで、妖精のオレには見えた――さあっと淡くも紫色の風が吹いた。
 紫。……高貴とされるが、まがまがしくもある、つまりは毒の色。神井は――紫色のオーラを帯びた人間なんだ。

 らちが開かない、ローザのプライドは傷つけたくなかったが、仕方ない。


「テレパス」


 オレは机の下で指を振り、小声で唱える。ローザに思念を飛ばす。

 ――おい。ローザ。どうしたんだよ、らしくもねえぞ。腹でも痛いのかよ。


 ローザは微動だにしない。まるで恐怖でも感じているかのように。
 ――ローザ。おいローザってば。読めよ、読めばいいんだ。わかんない言葉あるなら、ほら、この教科書のやつならオレが教えてやるからって、そりゃおまえ優等生だけど、


「うるさいっ、レオン!」


 おそらくは教室じゅうが――オレさえも、面食らった。
 しん、と静まり返る。
 予定調和みたく押し寄せる笑いの波。


 あはは、と。
 すこしすれば、規則的に。
 あはは、あはは、あはは、あはは。
 やがてはパターンを形成していく。



 あは、あは、あははは、あははははは。
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