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序
しおりを挟む「おい、聞いたか?」
「ああ、都の件だろう?大変だったらしいな。」
「一体何の話だ?」
「はあ?お前、知らないのか?呆れるなぁ、何でも都に妖怪が出たらしい。」
「妖怪?そんなの今更だ。あいつらはどこにでも出る厄介なやつらじゃあないか。みんな知ったことだ。どうしてそんなに騒ぐことがある?」
「はあ、まったく呆れるな。この俺がただの妖怪でこんなに騒ぐわけがないだろう。」
「じゃあ何だ。早く教えてくれ。俺はこれから他の村に手伝いに行かないといけないんだ。」
「よし、分かった。聞いて驚くなよ。都に、酒呑童子が出たんだと。」
「はぁ?酒呑童子だと?冗談はやめてくれよ。俺らが子供の頃、よく母ちゃんに脅されたもんだ。良い子にならないなら酒呑童子っつうそれはそれは怖い鬼に食われっちまうってな。」
「ああ、俺もその話を聞いて育ったぞ!だが、それは親が子を躾けるために作った話で、本当は美しい姿で人間の魂を抜いて殺しちまうんだとな!はあ恐ろしい!」
「その酒呑童子が現れたってか?馬鹿にするなよ!俺らはもう子供じゃないんだ。そいつは誰かの思いつきでできた妖怪だろう?本当なのか?」
「ああ本当だ!というのもこの話はちょうど都に行っていた、長さんから聞いたんだからな。」
「長さんかあ、そりゃあ信じられるな。あの人はめったに冗談は言わないからな。こうなっちゃいられない。それでどうなったんだ?何とかなったのか?この頃は物忌みの日はなかったはずだろう?酒呑童子が本当にいたとなったら、今こうして呑気に話している場合じゃない!都も大変じゃないのか?」
「まあ落ち着け。お前は本当に現金なやつだな。何とかなったから今こうして話をしていられるんだ。続きを聞きたいか?」
「もちろんだとも。早く聞かせてくれ。」
「ごほん。十日ほど前の夜、急に都が黒雲に包まれ、人々はなんだなんだと大騒ぎ。逃げるべきかどうするべきか。すると急に一筋の大きな鳴神が落ちた。それとともに大きな地響きがなる。皆は大鯰が暴れているのかと思い始めたとき、鳴神が落ちたところに、何者かがいることに気がついた。どうやらそいつは人間の姿をしている。よぉく目を凝らしてみるとこの世のものとは思えないほど美しいではないか。天満月に照らされ佇む姿はまるで月読のようだ。」
「おい、いつになったらいいところまで辿り着くんだ?」
「まあ待て。もう少しだから。そうしているとその姿に見惚れる人々が現れ始めた。そいつらが取り憑かれたようにその美人を見ていると、急にそいつらがばたりばたりと倒れ始めた。本当に急だったものだから、周りの人々が驚き確認してみると、なんと全員絶命しているではないか。」
「死んだだって?どういうことだ?」
「ほら、噂によると酒呑童子はこの上なく美しい容姿をしていて、ずっと見ていると魂を奪われてしまうと言われているじゃないか。つまりその美人が酒呑童子だったということだ。少し見てみたい気もするがな。」
「俺が都にいなくてよかった。もしいたのなら今頃生きていなかっただろう。それで、どうなったんだ?」
「まあ言わずもがな、大量の死者が一気に出たとなったら皆大騒ぎだ。死体は汚れだからな。皆逃げ出した。だがそこに一人の陰陽師が現れた。酒呑童子の攻撃をものともせず、まるで舞うようにそいつをあっという間に祓ってしまったらしい。」
「何だって?酒呑童子ってそれはそれは強い力を持っているんだろう?そんな妖怪を祓ってしまうなんて、その陰陽師は一体誰なんだ?」
「それはだな…篠澄絃というお方らしい。」
「誰だそれ?」
「なんだって!聞いたことがあるぞ。澄絃と言えば、若くして陰陽師になられて、都の妖怪や霊をほぼ一人で祓っていると。」
「そいつはすごいな。全く妖怪というのは本当に厄介な奴らだな。全部消えちまえばいいのにな。」
「そうだな。本当に迷惑な奴らだ。俺らの村にも来たらたまったもんじゃあない。」
「陰陽師なんてこんな辺鄙な村にはめったに来てくれないからな。」
「貧乏な村一つ困ってたって、あいつらは何にも思わないんだろうよ。」
「いっそのこと、その澄絃とかいうやつが妖怪をぱっぱと全部殺してくれないかな。そいつ強いんだろ?」
「確かにな。酒呑童子を倒したんだ。そこらへんの妖怪全部祓うくらいわけないだろうよ。」
「でもあいつら噂では妙な術を使うんだろう?もしも妖怪と組んで悪さをしてたらどうする?俺らで遊んで楽しんでるんじゃないか?だから助けに来ないんだよ。」
「それは...まあありえるかもな。恐ろしい術だ。俺らを殺すくらい朝飯前だろう。」
「そういや俺今日朝ご飯食ってない。」
「お前それ今かよ。よく腹が空かないな。もう昼時じゃないか?」
「あ!思い出した!!聞いてくれよ!そういや隣の村でよ…うっ⁈」
「おい?どうした?何かあった…お前、なんだそれ!」
「「うわぁあ‼︎」
「本当に良いのか澄絃。」
「はい。もちろんでございます。主上。」
澄絃と呼ばれた男は、両手をしっかり揃えたまま、下に向けていた顔をゆるやかに持ち上げ、澄み切った水面のような眼差しを、少し高いところに対座する男へ御簾越しにまっすぐ向ける。その空間には一切の光が入る隙間はなく、豪奢に装飾された金の燈台が心もとなく、室内を照らしている。
主上と呼ばれた男は軽く口を窄め息を吐き、直衣の擦れる音を小さく鳴らしながら軽く座り直す。燈台の明かりがその動きによって、動揺するように揺らめいた。
「酒呑童子の呪いは極めて強力だ。呪われているものには体に呪いの紋様が浮かぶが、其方の紋様は心の臓の位置にあり、青黒い。まるで体に穴が空いているようだ。そんな色はこの私でも今までに一度も見たことがない。今はまだ何も影響はないようだが、いつ何がお前の体に起こるか見当もつかない。だが、このまま陰陽師を辞して仕舞えば、あのじじい共の反感を更に買うだろう。陰陽師のくせに呪いを返せなかったのかとな。あやつらはそもそも其方の若さと才能に嫉妬しておるからな。」
その言葉を聞いても双眸をそらすことなく、澄絃は真っ直ぐな声で言った。
「恐れながら申し上げます。陰陽師を辞するということではありません。法師陰陽師となりたいのです。」
その言葉に思わず驚いたような声が聞こえる。
「何?法師陰陽師だと?」
「はい。この現世には主上のご存知の通り、夥しいほどの妖怪が蔓延っております。それらは都にのみ現れるのではなく、もちろん他の沢山の村や人々の前にも現れますため、その方々は戸惑いに遭っておられます。その方達を助け、世をもっとより良いものにしたいのです。お爺様方のお相手をするよりよほど大切なことと存じます。」
「くくっ。確かによっぽどだな。なるほどより良いものか…己にはできると申すのだな。中々に生意気なものだ。それにしても其方が法師陰陽師とはな。其方ほどの腕があれば苦労はしないだろう。しかし今の暮らしを大人しくしておくほうが生活の面に関しては賢いとは思うが。はぁ、其方がいなくなるとなると、都の安全はどうしたものか。」
御簾の中の男は揶揄うような言い方をした。その巫山戯たような言い方に澄絃は少し笑った。
「月に叢雲花に風と言いますから。良い状態は続かないものです…。ですが、都には十分に腕の良い陰陽師がいるでしょう。それに私が生意気なことは十二分に存じております。妖怪というものは、人間に害をなす、一匹残らず祓うべき邪悪なものです。それに少しでも助力できるのならば、どんな呪いが降りかかろうと少しもこの身は惜しみません。」
彼は少し間をおいて、何か思うように呪いの証に手を当てる。
「そしてこの世のどこかにはこの呪いを解く手立てが必ずあると私は信じているため、それを探したいのです。」
「…なるほど。其方の決意は堅そうだな。もう何を言っても無駄か。其方がいなくなってしまうのは寂しいものだ。」
男はまたもや直衣の擦れる音を立てながら、足を組み替え姿勢を正す。澄絃は彼の御簾越しでも分かるような高貴さと威圧感にたじろぐことはなかった。
「…それでは本日を以て、其方の陰陽寮に属する陰陽師の任を解く。私が言えば誰も何も言えはしないだろう。」
今まで少しも逸らすことのなかった眼差しがその言葉を聞いて、雫の落ちた水面のように揺らいだように見えた。
「…ありがとうございます。これまで助けてくださった恩は決して忘れません。お元気で。」
室内に片手で数えられる程度しかない燭台の炎が、部屋の主の動きに合わせてゆらめく。彼は、他の人が見たら、長旅に出るとは思わないであろう量の荷物を風呂敷の上に並べた。澄絃はあまり私物を増やさない性格のため、元々の荷物も少なかったが、今までの生活を断ち切るためさらに荷物を選び抜き、食料の多くの干し飯と共にそれらを桔梗色の風呂敷で包んだ。するとその風呂敷は、包む前は風呂敷と荷物の大きさが合っていないかのように思われたが、すんなりと包むことができ、また、包んだ後の見た目も包む前より小さくなっているようだった。そして彼は、薫物の調合も好んでいた。そのため、その中には彼が調合した中で一番気に入っている檜の薫物もあり、風呂敷を動かすたびに品の良い香りがふわりと広がる。都を出て旅に出れば、薫物の調合などという贅沢なこともできなくなるだろうと、用意周到な彼は先日追加で作っておいたのであった。
「よし、このくらいで良いか。」
他に何か忘れ物はないかと部屋を見回していた時、襖を軽く叩く音が聞こえてくる。
「どうぞ。」
短くその音に返答すると、間髪容れずやや乱暴に襖が開く。
「澄鳥!」
そんなことをしたのは誰だろうかと確認するため視線を入り口に向けると、そこにいたのは拍楊という男で、長身に秘色の狩衣を身に纏い、波のように緩やかに捻れ流れる髪の毛を頭の上でしっかりと高く結っている。濃く吊り上がる眉と大きい瞳ははっきりとした性格が現れていて、その目には焦りがじわりと滲み、どれほど急いできたのか肩が上下に軽く動き、少し息を切らしているようだ。彼は澄絃の言葉に少し不満げに、落ち着くまもないまま口をひらく。
「拍楊じゃないか。どうしたんだい、そんなに慌てて。」
「澄鳥、いつになったらその呼び方を改めてくれるんだ?」
澄絃はずっと上げたままだった口の端をそのままに、その言葉で彼の過去の言葉を思い出した。
「楊羊と呼べというのだろう?流石にそれはやめさせてもらいたい。それに、その貴方の私への呼び方も、やめてほしいのだけれど。」
「なんだ良いじゃないか。俺たちは昔からの親しい仲だろう?そんなふうに呼び合うのは何もおかしな事じゃあない。」
「おかしいのは呼び合うことではなく、その呼び名だよ。なぜそのような幼子のような名なんだい?大人がそんな名で呼び合うなんて。それに昔からというけれど、知り合ったのだってつい二、三年ほど前だろう?」
「大切なのは数ではなく、密度だ。そう思わないか?それに、この呼び名は親しさの表れだ。幼子にだってわかるだろう?」
「確かにそうだね。でも貴方が堅苦しいのはやめろと強く言うから、私は砕けた話し方に変えた。それでさえ心が痛いのに、それ以上は流石に…。それに今から私は都から去るからね。」
「それだよ!君が都から去るって聞いて、天文部から慌てて来たんだ。観測中だったけどな。」
「それは大丈夫なのかい?色々と。」
「だ、大丈夫だ。周りの奴らに丁寧にお願いして来たから。」
拍楊は明らかに焦ったように、澄絃から目を逸らして後ろ髪を指先で器用に遊び始めた。
(無理やり押し付けてきたんだね…)
澄絃は彼のその行動でそう悟ったが、またしても何も言わなかった。
拍楊は思いついたように急に澄絃に飛び掛かる勢いで詰め寄った。
「そんなことより、なぜ急に都を離れるんだ?!私に相談もなしに...。何か事情があるのか?」
澄絃は一息つき、真っ直ぐ拍楊の目を見つめながら言った。
「この世を見てみたくなったんだ。ほら、私はずっと都にいただろう?何も知らないんだ。それに妖怪どもから人々を助けたい。それが理由だよ。」
その言葉に自分にはそれ以上の、彼を引き止めれる理由が言えないと自覚したのか、もう説得する気がなくなったのか拍楊は拗ねたような寂しそうな表情を見せ、また髪を触り始めた。
「分かった。納得したよ。」
「それならそろそろ行くとしようかな。」
その言葉に反応した拍楊は、後ろ髪を触るのをすぐに止め、凛々しい眉尻を少し下げた。
「もう行くのか?外は暗いし、明日でも良いのではないか?」
「いや、今日中に都を出るのが良いと出た。そして明日は悪いと。」
「君は天文生でもないのに占術ができるのすごいよな。本当に尊敬する。しかも私たちよりも精度が高い。」
澄絃は霊力の非常に高い陰陽師であり、妖怪や霊を祓うことに特に優れているが、それに加え術を自分で作ったり、他の部の学術を学ぶことも好んでいた。どうやって学んでいたかというと、友人に頼みこもうとしたが、拍楊のように許諾してくれる人はいなかったし、無闇にお願いしても良くない噂が立ちそうだった。そこで、澄絃は己が使役する式神を部に送りこみ、学術の書をこっそりと盗み見ていたのだった。式神は澄絃自身にしか見えないようにしているため、もちろんこのことは誰にも露見していないし、秘密である。
「自己流だけれどね。陰陽師は妖怪や霊を払うだけではないと己に示したいんだ。君だって、剣術の腕もすごいじゃないか。君に教えてもらって私も随分と上達したんだよ。」
「へへ。そうかな。幼い頃は兵になりたかったからな。それに確かに君は初めに比べたら別人のような剣の腕になった。…けど、己の部以外の知識を身につけることは世間でよく思われていないし、学ぶことも許されていないだろう。私も澄鳥の他には一人にもそのことは言っていないしな。もし露見したら他の奴らは、そんなに無駄な知識をつけてどうするんだ、まさか謀反を起こす気かって騒ぐんだろうな。そんなわけないだろうに。」
拍楊は肩を落とし、軽く俯いた。その様子を見た澄絃は宥めるように言った。
「知識をつけることに無駄なことなんて無い。皆、恐れているんだ。一つの存在が力をつけすぎることに。…无情のように。」
「…そうだな。皆、次の无情のような存在を人間からも出るんじゃないかと怖がって目を光らせているんだ。くだらないが、君も都を出るなら、他の力は隠した方が良い。もし見られたりでもしたら酷い目に遭わされる所もあるって話だ。」
「ああ、そうするよ。」
元から分かっているかのように、短くそう言うと、澄絃は寝台にゆっくりと近づき、その上に置いてあった、先ほど用意した風呂敷を肩にかけ、薄いたれ衣のついた笠をしっかりと頭に乗せて紐を結んだ。その様子を見て拍楊はまたしても眉尻を下げたが、それを悟らせないように優しく笑いながら言った。
「君がいなくなるのは寂しい。こんなに気の合うやつはこの寮に、いやこの世にはなかなかいないんだ。」
出会ってから初めて見たその表情に澄絃は微笑み返す。
「君のそんな顔は初めて見た。君はもっと豪快に笑っている方が良いよ。その方が厄も逃げるだろう。それに今生の別れじゃない。この世に生きる限りまた会える。」
「そうだな。君に負けないくらい学んで知識を得てやるさ。…またな。澄絃。」
「ああ、さようなら。楊羊。」
澄絃は暗くなってしまった空を一瞬だけ見上げて、長い階段を降りる手前で立ち止まった。そしてたれ衣に手を掛け、できたその隙間から目に焼きつけるように、そこから見える一面の都の灯りを見つめ、体内に溜まっている気がする暗い空気を出すように息を吐いた。少しして手を下ろし、後ろをゆっくりと振り返り、どこか虚空を見つめ何かを思うような面持ちであったが、断ち切るかのように顔を戻し、これから始まるであろう長旅への好奇心と共に階段へと足を動かした。彼はもう振り返ることはなかった。往時不可追ー今までもずっとそうだった。
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