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「今日はこの辺りで休むとしようかな。」
澄絃は日を跨ぐまでに無事に都を出た後、日が出るまで道を歩き続けた。都を出る際に、門の番をしていた男に道を聞き、とある地域に妖怪に困っている人が多くいるという噂を聞いたという情報を得た。その村に向かって歩いている途中で、日が昇り始めてしまった。門の番の男に書いてもらった図によると、その村までもうすぐといったところだが、日が高く上るまで歩き続けたため、流石にそろそろ休みたい。澄絃は初日から野宿かと思ったが、運の良いことに宿屋が見えた。彼は、音を立てて戸を開け宿屋に入ると、そこには暇そうにしているおそらく店主であろう男がいた。店主は店に入ってきたやつがどんなものか値踏みするために横目で全身を隈なくじろりと見てみたが、なかなかに良い身なりをしていたので、態度をころりと変え、満面の笑みで両手を擦り合わせながら近づいてきた。
「おやお客さん、宿泊でしょうか?いやーこの辺の宿はここしかありませんからね。寝台はふかふか、部屋は広くて最高ですよ。ご飯も付きますし、貴方様のような人でしたらお安くしておきますよ。」
澄絃はその迫力に少し後ずさりしたが、見えない微笑みを顔に貼り付けたまま、垂れ衣越しに言った。
「貴方は見た目だけで、私がどんな人物かわかるのですか?それはすごい。」
「勿論です。これでも伊達に宿屋をしていませんよ。今まで色々な人を、それはそれはたくさん見てきましたからね。貴方様は、そのー…高貴な身分であられますね?」
「さあ、どうでしょう。」
「またまた、ご冗談を。どうします?泊まっていかれますか?ちょうど、ちょうど部屋に一つだけ空きがございますよ。」
澄絃は部屋が一部屋しか空いていないとは思えないほど静かな宿屋で必死な店主を見て、一泊ほどであれば野宿で十分だろうし、きっと銭を払って泊まろうという人がこの宿にあまり来ないのだろうと思い、彼はしばらくの住処をここにしようと決めた。
「では一部屋頼めますか?しばらく泊まりたいのですが。お代はこのくらいで足りるでしょうか?」
「ありがとうございます!勿論です!銭さえきちんと払ってくださればいくらでも…え⁈こんなにですか?このくらいの銭でしたら、本当にいくらでもいてくださって結構ですよ!くふふ。」
店主は受け取った銭袋の中をすぐに確認した後、目を大きく見開き、驚いた声をあげ、その袋はもう己のものだというばかりに両腕でしっかり握り締めた。
「それは良かったです。」
(こんな良客は初めてだ!このくらいの銭があればしばらくは遊んで暮らせるぞ!これは儲けたな!この人は見た目からすると、おそらく世間知らずのお姫さんだな。一人でいるのが気にかかるが、良い金蔓だ!)
店主は抑えきれないほどの嬉しさを抱え、これ以上ない笑顔でこちらに向き直った。澄絃はひとまず笠を取ろうと顎の紐を外し、頭からゆっくりと下ろした。そのとき、初めてその顔を見た店主は、驚きのあまり目が離せなかった。なぜなら、彼はこの世のものとは思えない美しい容姿をしていたからだ。白く透き通った肌、御髪は鴉のように黒く艶やかであり、より一層肌の白さを際立たせていた。控えめに主張する鼻と、桜色の薄く形の良い唇が緩く弧を描いていて、しばらく前に建ったのであろう宿の古めかしい室内にいるとそこだけ光っているように見える。天女が間違えて天から降りて来たのか、はたまた妖怪が驚かそうと化けて出て来たのか百目以外の全員が悩むほどの美しさを放っていた。
店主は彼から目を離せず、そのまま魂が抜けたかのようにぴくりともせずにただじっとその顔を眺めていた。その様子に澄絃は怪訝に思い、少し気まずそうに声をかけた。
「もし、店主?お部屋はどちらでしょうか?ずっと歩いて来ましたので、そろそろ休みたいのです。」
「……はっ!た、大変失礼しました。お、お部屋はこちらです…。」
先ほどとは打って変わって、体を硬直させ、顔を真っ赤に染めながら、店主は階段を登り始めた。澄絃はその後を静かに付いていくが、二人が上るたびに木造の階段はギシギシと悲鳴を上げた。その途中で、店主は何度か足を踏み外しそうになりながらも、なんとか二階にある部屋に澄絃を案内した。
「こ、こちらを使ってください。」
「わざわざありがとうございます。では。」
澄絃は戸を開けてお礼を言うと、視線をこちらに向けたままなかなか立ち去れない店主を隠すかのように戸を閉めた。
「ふう。」
澄絃はやっと休める場所を見つけて息をつき、室内をぐるりと見回した。室内には寝台と燭台、机、そして壁には小さめの御簾が一つあり、質素にまとめられていた。陰陽寮にあった自室と比べるとずいぶんと狭いが、この宿の二階に唯一ある一部屋なので、おそらく店主は一番広い部屋に案内してくれたのだろう。ありがたく思いながら、彼は脱いだ履き物をきれいに揃えて隅に並べ、部屋にあがり肩から下ろした荷物を、近くの台の上に笠と一緒にそっと置いた。そして御簾からの景色を一目見ようと近づくと、急に目の前が真っ暗になった。
「なんだ?何が起きたんだ?」
彼は最初、何かの仕業で急に夜が来たのかと思ったが、目にあるのは暗闇だけで、月の光も入ってこない。
瞬きを何度もしてみるが、何も変わらなかった。澄絃はふと、自分の心の臓が不自然に脈打っているのに気がついた。
(もしやこれは…酒呑童子の呪いか!)
彼はそれがこれほど急に、しかも目を見えなくするというものだとは思っていなかった。
(いつまで目が見えない状態なんだ!)
これを呪いだと仮定すると、また見えるようになるのか、もしかしてずっとこのままなのか、彼には分からなかった。とりあえず落ち着こうと澄絃は手探りで寝台を探し、その上にゆっくりと座った。焦ることではない。ただ見えなくなっただけだ。そろそろ良くなったのではと希望を持ち、すぐ下にあるだろう手を見ようとして、手を握ったり開いたりしてみるが、その様子は暗闇に隠され全く見ることができない。もしもこのまま見えないままだったら少しだけ困るなとも思った。文字を綺麗に書いたり、書物も読むことができない。彼は胸元から一枚の人形を取り出し、右手の人差し指と中指で挟んだ。
「姿を現せ、雲外蒼天、急急如律令。」
彼は小さくそう唱えると、人形を辺りに素早く投げた。するとその人型は床に叩き落ちると思われたが、床に落ちる寸前、急に風もないのに室内を自由にぴょんぴょんと飛び回り始めた。そして床に立った瞬間、白い光を放ち、二足歩行の灰色の兎の姿に形を変えた。その兎は鼻をヒクヒクさせ耳をピンと立てながらいつものように主人の命令を聞こうとじっと澄絃を見つめて待っていた。しかし彼が一向に自分と目も合わせてくれず黙り込んでいるのを見て、寂しく耐えきれないと声をかけた。
「澄絃さま。どうかされましたか?錫はここですよ。」
その声に澄絃はその声がした方へ一瞬だけ向き、目が見えないことを悟られてしまわないように目線を落としながら両手で髪紐を外し、綺麗に畳むと、寝台の枕元であろう場所に置いた。
「錫、私は今から少し寝るから見張りを頼む。」
そういうと、澄絃は胸元から正方形の真っ白な紙を取り出し、見えずとも慣れたような手つきで鳥のような形を作った。それを右の手のひらに載せると、左手の親指と中指を擦り、ぱちんと音を出した。その鳥は空中にゆっくりと浮き始め、口をぱかりと開け、子供のようにも老人のようにも聞こえる声を出した。
「現在は牛の刻、牛の刻。子供は寝る時間です。」
「それでは申の刻になったら起こしてくれ。」
「?ああ!おめでとうございます。ついにおめでたですか。」
「違うよ。」
鳥は言い終わったかと思うと、空中に浮いていたそれはまた手のひらに戻り、魂が抜けたかのように転がった。澄絃はそれをまた枕元にそっと置いた。そして、履き物を脱ぎ、髪を避けながら寝台に横たわる。
「錫、頼むよ。」
「はい。お任せください。おやすみなさいませ。」
従順で、誰に似たのかそういうことには勘が鈍い兎は一言挨拶をすると、軽い足音を立てながら戸の方に歩いて行き、また光ったかと思ったら、今度は兎の置物に姿を変えた。
澄絃は音がしなくなったのを確認し、静かに息を吐くと、新しい地でよほど疲れがあったのか、すぐに眠気が襲ってきた。
(今考えていても仕方がない。休むとしよう)
目が覚めたら治っていることを願い、ゆっくりと目を閉じ、変わらない暗闇の世界へと落ちていった。
気がつくと澄絃は暗闇の空間の中に一人立っていた。現実とまるで変わりのない視界。まさか夢の中でも盲目なのか。それに何の音も聞こえない。じっとしていてもどうしようもないと試しに少し歩いてみるが、足の感覚もなく本当に歩けているのかも分からない。
思わず足を止めると急に強い風が吹いた。澄絃はあまりの強風に目を閉じた。すぐに風が止み、澄絃はまた暗闇を見ようとゆっくりと目を開けた。すると目の前には、自分が身を賭して倒したはずの酒呑童子が変わらない姿でいた。最後に会った時とは衣服が違っているようだが、長い髪をなびかせ、誰が見ても弱く見えない体格の良い体を黒い衣服で覆い、額には他の妖怪とは違うということを示すための紋が青く光っていた。その容姿は、魑魅魍魎の低級妖怪しか見たことのない人間が想像する最上級妖怪の容姿とは全く真逆であった。垂れた目元と、それとは逆に吊り上がった形の良い眉毛、大きめで厚めの口がその派手な凛々しさを持つ顔を作り上げていた。その口には余裕そうな笑みが浮かんでいて、今から何か遊戯でもやるのかというような表情だった。
思わぬものの登場に、澄絃は言葉を失う。そしてそれは、空中に体を浮かせ、空中で足を組み、何もないところに肘をついて楽しそうに頬杖をしている。澄絃が何も言わず微動だにしないのを見て、やっと口を開いた。
「おやおや、どうした?まさか驚いたのか?お前が驚く姿を見ることができるとはな。」
澄絃は揶揄うようなその声に表情をさらに鋭くした。
「どういうことだ。なぜお前が勝手に私の夢にいる?」
「まあ、落ち着け。ここはお前の夢の中だ。何が起きてもおかしくない。」
そう言うと彼は頬杖をついていた手で、自分の髪の毛を指に巻きつけて暇そうに遊び始めた。
「まあ、俺がいるということは、心のどこかでお前が望んでいたんじゃないか?」
「はっ!馬鹿な事を言うな。」
「だってそれしか考えられないだろう?」
「それに私に呪いをかけたな。悪あがきなどみっともない。私に呪いをかけたって何にもならない。やはりお前はどうしようもない馬鹿だな。」
それを聞いた酒呑童子は急にわざとらしく声をあげ、顔を埋めて大声で泣き始めた。
「おいおい、言い過ぎだろ。流石の俺でも目から涙が出ちゃうぞ。」
泣いているのを見ても動じない澄絃に、彼はつまらないなと諦め、すぐに泣くふりをやめた。
「まあ出るわけないけどな。お前はそっちの素の方が面白い。」
そう言った酒呑童子は、急に妖力を操り始めた。澄絃はやはり己を殺す気かと自分も戦う姿勢に入ろうとしたが、それは彼の勘違いで終わった。何故なら妖力を使って出したのはなんと生きている鼠だったからだ。何をする気かとじっと見つめていると、出した本人は丸々と太った生きの良い鼠の尻尾をしっかり尖った爪の先で箸のように摘むと、口を大きく開けてまさか口に含むと、そのままごくりと飲み込んだ。その大きくゆっくり動いた喉を見て澄絃は様々なことを想像し、気が遠くなりそうだった。
「よく噛まないと、胃袋から登ってきそうだな。」
澄絃の皮肉めいた言い方を気にせず、鬼は満足そうに舌なめずりをした。
「その感覚を楽しむんだよ。」
(そのままこいつの脳みそまで齧ってくれないかな)
その感想を聞いて彼はさらに気が遠くなりそうだった。それに加え、己も鼠を食べていないから鼠ではないはずだが、何かが胃から登ってきそうでもあった。胃を落ち着かせるために軽くさすりながら、息を吐き、気を落ち着かせると彼に尋ねた。
「何故ここに現れた?」
澄絃は日を跨ぐまでに無事に都を出た後、日が出るまで道を歩き続けた。都を出る際に、門の番をしていた男に道を聞き、とある地域に妖怪に困っている人が多くいるという噂を聞いたという情報を得た。その村に向かって歩いている途中で、日が昇り始めてしまった。門の番の男に書いてもらった図によると、その村までもうすぐといったところだが、日が高く上るまで歩き続けたため、流石にそろそろ休みたい。澄絃は初日から野宿かと思ったが、運の良いことに宿屋が見えた。彼は、音を立てて戸を開け宿屋に入ると、そこには暇そうにしているおそらく店主であろう男がいた。店主は店に入ってきたやつがどんなものか値踏みするために横目で全身を隈なくじろりと見てみたが、なかなかに良い身なりをしていたので、態度をころりと変え、満面の笑みで両手を擦り合わせながら近づいてきた。
「おやお客さん、宿泊でしょうか?いやーこの辺の宿はここしかありませんからね。寝台はふかふか、部屋は広くて最高ですよ。ご飯も付きますし、貴方様のような人でしたらお安くしておきますよ。」
澄絃はその迫力に少し後ずさりしたが、見えない微笑みを顔に貼り付けたまま、垂れ衣越しに言った。
「貴方は見た目だけで、私がどんな人物かわかるのですか?それはすごい。」
「勿論です。これでも伊達に宿屋をしていませんよ。今まで色々な人を、それはそれはたくさん見てきましたからね。貴方様は、そのー…高貴な身分であられますね?」
「さあ、どうでしょう。」
「またまた、ご冗談を。どうします?泊まっていかれますか?ちょうど、ちょうど部屋に一つだけ空きがございますよ。」
澄絃は部屋が一部屋しか空いていないとは思えないほど静かな宿屋で必死な店主を見て、一泊ほどであれば野宿で十分だろうし、きっと銭を払って泊まろうという人がこの宿にあまり来ないのだろうと思い、彼はしばらくの住処をここにしようと決めた。
「では一部屋頼めますか?しばらく泊まりたいのですが。お代はこのくらいで足りるでしょうか?」
「ありがとうございます!勿論です!銭さえきちんと払ってくださればいくらでも…え⁈こんなにですか?このくらいの銭でしたら、本当にいくらでもいてくださって結構ですよ!くふふ。」
店主は受け取った銭袋の中をすぐに確認した後、目を大きく見開き、驚いた声をあげ、その袋はもう己のものだというばかりに両腕でしっかり握り締めた。
「それは良かったです。」
(こんな良客は初めてだ!このくらいの銭があればしばらくは遊んで暮らせるぞ!これは儲けたな!この人は見た目からすると、おそらく世間知らずのお姫さんだな。一人でいるのが気にかかるが、良い金蔓だ!)
店主は抑えきれないほどの嬉しさを抱え、これ以上ない笑顔でこちらに向き直った。澄絃はひとまず笠を取ろうと顎の紐を外し、頭からゆっくりと下ろした。そのとき、初めてその顔を見た店主は、驚きのあまり目が離せなかった。なぜなら、彼はこの世のものとは思えない美しい容姿をしていたからだ。白く透き通った肌、御髪は鴉のように黒く艶やかであり、より一層肌の白さを際立たせていた。控えめに主張する鼻と、桜色の薄く形の良い唇が緩く弧を描いていて、しばらく前に建ったのであろう宿の古めかしい室内にいるとそこだけ光っているように見える。天女が間違えて天から降りて来たのか、はたまた妖怪が驚かそうと化けて出て来たのか百目以外の全員が悩むほどの美しさを放っていた。
店主は彼から目を離せず、そのまま魂が抜けたかのようにぴくりともせずにただじっとその顔を眺めていた。その様子に澄絃は怪訝に思い、少し気まずそうに声をかけた。
「もし、店主?お部屋はどちらでしょうか?ずっと歩いて来ましたので、そろそろ休みたいのです。」
「……はっ!た、大変失礼しました。お、お部屋はこちらです…。」
先ほどとは打って変わって、体を硬直させ、顔を真っ赤に染めながら、店主は階段を登り始めた。澄絃はその後を静かに付いていくが、二人が上るたびに木造の階段はギシギシと悲鳴を上げた。その途中で、店主は何度か足を踏み外しそうになりながらも、なんとか二階にある部屋に澄絃を案内した。
「こ、こちらを使ってください。」
「わざわざありがとうございます。では。」
澄絃は戸を開けてお礼を言うと、視線をこちらに向けたままなかなか立ち去れない店主を隠すかのように戸を閉めた。
「ふう。」
澄絃はやっと休める場所を見つけて息をつき、室内をぐるりと見回した。室内には寝台と燭台、机、そして壁には小さめの御簾が一つあり、質素にまとめられていた。陰陽寮にあった自室と比べるとずいぶんと狭いが、この宿の二階に唯一ある一部屋なので、おそらく店主は一番広い部屋に案内してくれたのだろう。ありがたく思いながら、彼は脱いだ履き物をきれいに揃えて隅に並べ、部屋にあがり肩から下ろした荷物を、近くの台の上に笠と一緒にそっと置いた。そして御簾からの景色を一目見ようと近づくと、急に目の前が真っ暗になった。
「なんだ?何が起きたんだ?」
彼は最初、何かの仕業で急に夜が来たのかと思ったが、目にあるのは暗闇だけで、月の光も入ってこない。
瞬きを何度もしてみるが、何も変わらなかった。澄絃はふと、自分の心の臓が不自然に脈打っているのに気がついた。
(もしやこれは…酒呑童子の呪いか!)
彼はそれがこれほど急に、しかも目を見えなくするというものだとは思っていなかった。
(いつまで目が見えない状態なんだ!)
これを呪いだと仮定すると、また見えるようになるのか、もしかしてずっとこのままなのか、彼には分からなかった。とりあえず落ち着こうと澄絃は手探りで寝台を探し、その上にゆっくりと座った。焦ることではない。ただ見えなくなっただけだ。そろそろ良くなったのではと希望を持ち、すぐ下にあるだろう手を見ようとして、手を握ったり開いたりしてみるが、その様子は暗闇に隠され全く見ることができない。もしもこのまま見えないままだったら少しだけ困るなとも思った。文字を綺麗に書いたり、書物も読むことができない。彼は胸元から一枚の人形を取り出し、右手の人差し指と中指で挟んだ。
「姿を現せ、雲外蒼天、急急如律令。」
彼は小さくそう唱えると、人形を辺りに素早く投げた。するとその人型は床に叩き落ちると思われたが、床に落ちる寸前、急に風もないのに室内を自由にぴょんぴょんと飛び回り始めた。そして床に立った瞬間、白い光を放ち、二足歩行の灰色の兎の姿に形を変えた。その兎は鼻をヒクヒクさせ耳をピンと立てながらいつものように主人の命令を聞こうとじっと澄絃を見つめて待っていた。しかし彼が一向に自分と目も合わせてくれず黙り込んでいるのを見て、寂しく耐えきれないと声をかけた。
「澄絃さま。どうかされましたか?錫はここですよ。」
その声に澄絃はその声がした方へ一瞬だけ向き、目が見えないことを悟られてしまわないように目線を落としながら両手で髪紐を外し、綺麗に畳むと、寝台の枕元であろう場所に置いた。
「錫、私は今から少し寝るから見張りを頼む。」
そういうと、澄絃は胸元から正方形の真っ白な紙を取り出し、見えずとも慣れたような手つきで鳥のような形を作った。それを右の手のひらに載せると、左手の親指と中指を擦り、ぱちんと音を出した。その鳥は空中にゆっくりと浮き始め、口をぱかりと開け、子供のようにも老人のようにも聞こえる声を出した。
「現在は牛の刻、牛の刻。子供は寝る時間です。」
「それでは申の刻になったら起こしてくれ。」
「?ああ!おめでとうございます。ついにおめでたですか。」
「違うよ。」
鳥は言い終わったかと思うと、空中に浮いていたそれはまた手のひらに戻り、魂が抜けたかのように転がった。澄絃はそれをまた枕元にそっと置いた。そして、履き物を脱ぎ、髪を避けながら寝台に横たわる。
「錫、頼むよ。」
「はい。お任せください。おやすみなさいませ。」
従順で、誰に似たのかそういうことには勘が鈍い兎は一言挨拶をすると、軽い足音を立てながら戸の方に歩いて行き、また光ったかと思ったら、今度は兎の置物に姿を変えた。
澄絃は音がしなくなったのを確認し、静かに息を吐くと、新しい地でよほど疲れがあったのか、すぐに眠気が襲ってきた。
(今考えていても仕方がない。休むとしよう)
目が覚めたら治っていることを願い、ゆっくりと目を閉じ、変わらない暗闇の世界へと落ちていった。
気がつくと澄絃は暗闇の空間の中に一人立っていた。現実とまるで変わりのない視界。まさか夢の中でも盲目なのか。それに何の音も聞こえない。じっとしていてもどうしようもないと試しに少し歩いてみるが、足の感覚もなく本当に歩けているのかも分からない。
思わず足を止めると急に強い風が吹いた。澄絃はあまりの強風に目を閉じた。すぐに風が止み、澄絃はまた暗闇を見ようとゆっくりと目を開けた。すると目の前には、自分が身を賭して倒したはずの酒呑童子が変わらない姿でいた。最後に会った時とは衣服が違っているようだが、長い髪をなびかせ、誰が見ても弱く見えない体格の良い体を黒い衣服で覆い、額には他の妖怪とは違うということを示すための紋が青く光っていた。その容姿は、魑魅魍魎の低級妖怪しか見たことのない人間が想像する最上級妖怪の容姿とは全く真逆であった。垂れた目元と、それとは逆に吊り上がった形の良い眉毛、大きめで厚めの口がその派手な凛々しさを持つ顔を作り上げていた。その口には余裕そうな笑みが浮かんでいて、今から何か遊戯でもやるのかというような表情だった。
思わぬものの登場に、澄絃は言葉を失う。そしてそれは、空中に体を浮かせ、空中で足を組み、何もないところに肘をついて楽しそうに頬杖をしている。澄絃が何も言わず微動だにしないのを見て、やっと口を開いた。
「おやおや、どうした?まさか驚いたのか?お前が驚く姿を見ることができるとはな。」
澄絃は揶揄うようなその声に表情をさらに鋭くした。
「どういうことだ。なぜお前が勝手に私の夢にいる?」
「まあ、落ち着け。ここはお前の夢の中だ。何が起きてもおかしくない。」
そう言うと彼は頬杖をついていた手で、自分の髪の毛を指に巻きつけて暇そうに遊び始めた。
「まあ、俺がいるということは、心のどこかでお前が望んでいたんじゃないか?」
「はっ!馬鹿な事を言うな。」
「だってそれしか考えられないだろう?」
「それに私に呪いをかけたな。悪あがきなどみっともない。私に呪いをかけたって何にもならない。やはりお前はどうしようもない馬鹿だな。」
それを聞いた酒呑童子は急にわざとらしく声をあげ、顔を埋めて大声で泣き始めた。
「おいおい、言い過ぎだろ。流石の俺でも目から涙が出ちゃうぞ。」
泣いているのを見ても動じない澄絃に、彼はつまらないなと諦め、すぐに泣くふりをやめた。
「まあ出るわけないけどな。お前はそっちの素の方が面白い。」
そう言った酒呑童子は、急に妖力を操り始めた。澄絃はやはり己を殺す気かと自分も戦う姿勢に入ろうとしたが、それは彼の勘違いで終わった。何故なら妖力を使って出したのはなんと生きている鼠だったからだ。何をする気かとじっと見つめていると、出した本人は丸々と太った生きの良い鼠の尻尾をしっかり尖った爪の先で箸のように摘むと、口を大きく開けてまさか口に含むと、そのままごくりと飲み込んだ。その大きくゆっくり動いた喉を見て澄絃は様々なことを想像し、気が遠くなりそうだった。
「よく噛まないと、胃袋から登ってきそうだな。」
澄絃の皮肉めいた言い方を気にせず、鬼は満足そうに舌なめずりをした。
「その感覚を楽しむんだよ。」
(そのままこいつの脳みそまで齧ってくれないかな)
その感想を聞いて彼はさらに気が遠くなりそうだった。それに加え、己も鼠を食べていないから鼠ではないはずだが、何かが胃から登ってきそうでもあった。胃を落ち着かせるために軽くさすりながら、息を吐き、気を落ち着かせると彼に尋ねた。
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