量子力学的マンションシリーズ

深井零子

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第6章 隣人たち

隣人たち その1(1)隣室の揺らぎ

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 Collapse Residenceの春は、制度の隙間から漏れる光のように曖昧だった。俺たちはこの集合住宅に三年住んでいるが、建物自体がまるでシステムそのもののように、住人の行動や思考を観測し、微妙に調整してくる。

 冷蔵庫は通知を詩的に吐き出す。「牛乳が切れた。明日の朝は、君の選択を待つ」 「バターが溶けている。制度は揺らぐ」 妻はそれを絵日記にスケッチし、解釈を試みるのが日課だ。彼女の絵は、制度の揺らぎをキャンバスに閉じ込めるような、不思議な柔らかさを持っている。

 猫(仮)は、俺たちの部屋の中心で香箱座りを極めていた。黒と白の毛並みが、まるで量子状態の揺らぎを体現しているかのようだ。猫(仮)が鳴くと、何かが「確定」する。 たとえば、俺がシステム設計のコードを書き終えた瞬間、猫(仮)が「ニャア」と一声鳴けば、バグが消えるか、あるいは致命的なエラーが露呈する。 観測者としての猫(仮)は、俺たちの生活をシステムの枠内に収める鍵だった。

 そんなある日、隣に高梨が引っ越してきた。 総会の後、エレベーター前の薄暗い廊下で、彼は自己紹介がてらこう言った。

 「量子コンピュータでVR空間を作ってるんです。フルダイブ型で、プレイヤーが“意味を持たないまま遊べる”ような。まだ試作段階ですけどね。」

 高梨は、瘦せた体に大きめのメガネをかけた男だった。髪は乱雑で、まるで量子状態のエントロピーをそのまま頭に載せているようだった。 彼の言葉は、SFの住人である俺の心を掴んだ。意味を持たない空間——それは、Collapse Residenceの理念そのものだ。

 この建物は、住人が過剰に意味を求めると、制度が硬直化し、崩壊の危機を迎える。 だからこそ、俺たちは曖昧さを愛し、猫(仮)の気まぐれに身を委ねる。

 「面白そうですね。どんなゲームになるんですか?」俺は尋ねた。

 高梨は目を細め、まるでVR空間をその場で覗き込むように言った。

 「プレイヤーが自由に漂える空間。ストーリーも、目的も、結末もない。ただ、存在するだけ。だけど、プレイヤーが“何か”を求めると、空間は収束してしまうんです。それが課題で。」

 エレベーターが「カタン」と音を立てて止まった。扉が開き、猫(仮)が廊下の向こうで一瞬こちらを見た。鳴かなかった。

 その夜、妻の絵日記には、高梨のメガネが光るスケッチと、冷蔵庫の通知「隣人は揺らぎを運ぶ」が描かれていた。
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