量子力学的マンションシリーズ

第７章 夫婦とは

空白を受け入れた隣人の変化

　隣人がアルバムを閉じ、「これは私たちの空白の記録なんですね」と呟いた翌日から、マンションの空気がわずかに変わった。

　まず、隣人の部屋の前に置かれていた配送伝票が消えた。 昨日まで確かにあったはずの、折り目のない古びた紙片。 透が制度ログを確認すると、配送記録そのものが「存在しなかったこと」になっていた。

　「空白を受け入れたから、制度が“過程の痕跡”を消したんだろうね。」 透はそう言ったが、環は首を振った。 「違う。あの人たちが“過程を必要としなくなった”から、制度が消したんだと思う。」

　隣人自身にも変化があった。 以前は「昔から住んでいますよ」と言い切っていたのに、今は違う。 「いつから住んでいるか分からないけれど、ここにいることは確かです。」 その言葉は、制度の確定をなぞるのではなく、自分の空白を抱えたまま立っている人間の声だった。

　猫（仮）は隣人の部屋の前で香箱座りをしなくなった。 代わりに、廊下の真ん中でノイズと向かい合い、静かに目を合わせていた。 まるで「この部屋はもう観測の必要がない」と言っているようだった。

　その夜、マンションの観測AIが新しい通知を出した。 「隣室の入居状態は安定しました。 過程の再構成は不要です。」

　俺は眉をひそめた。 「制度が“空白を受け入れた状態”を安定と認めた……？」 妻は小さく笑った。 「人間が空白を受け入れると、制度も揺らぎを止めるのかもね。」

　翌朝、隣人の部屋から聞こえていた生活音が、妙に自然になっていた。 昨日までは「空室のはずなのに聞こえる音」だったのに、 今日は「隣人が普通に暮らしている音」になっていた。

　空白を受け入れたことで、隣人は“制度に馴染んだ”のではない。 むしろ逆だ。 制度が、隣人の“空白を抱えたままの存在”を受け入れたのだ。

　マンションは、結果だけを確定させる共同体だった。 だがその日、初めて「空白を抱えたままの存在」を安定として認めた。 猫（仮）とノイズは、その変化を静かに観測していた。