夜雨に眠る赤い花

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5話

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「……紫陽? どうかしたんですか」

 いつの間にか布団から出てそばへ来ていたらしい。雨月が布団に潜り込んでいた紫陽を覗き込むようにして聞いてきていた。

「ど、どうもしない」
「嘘。やはりなにかあったんですか?」

 潜り込んでいる布団をめくられて、雨月の顔と一緒に湿度を含みながらも涼しい風が入り込んでくる。先ほどまであれほど雨月に対しても落ち着かなかったというのに、今は妙にホッとした気持ちになった。

「話してみられませんか」

 雨月の言葉がそれこそ土に染み込む雨水のように入り込んでくる。布団から這い出ると、紫陽は「俺、せっかく入った会社、辞めたんだけど」と話を切り出した。
 他人事のように話してしまえば大したことなんてない。職場で大きなミスがあった。取引先を失うかもしれないほどのミスだった。ちょっとした判断を間違えた結果、取り返しのつかないミスとなった。そしてそれは担当していた紫陽の責任となり、それが原因で首になったわけではないが、辞めなければならない空気に耐えられなかった。

「でも俺の判断じゃない……確かに俺が携わっていたけど……でも違和感に気づいて上司には報告したんだ。だけど問題ないからそのままいけと指示された。結果、取引先から大きなクレームが来る羽目になって……俺が勝手に判断したことになった。抗議はした。でも上は皆、俺を信じてくれなかった。入ってまだ一年も経っていない新人のやらかした取り返しのつかないミスになった。普段ちゃんと真面目に働いてきていたのに、誰も信じてくれなかった。同僚は同情してくれるやつもいたけど、だからと言ってどうすることもできないし。上司も一応監督不行き届きってことで三か月の減給にはなったけど……俺は……」

 友人たちには「ひどくね?」などと軽い感じで文句は言ったりしていた。友人も「ないわ」などと言ってくれたが、それで終わる話だった。電話で話している時に耳に挟んだ祖母がどう思ったのかは聞いていないのでわからない。自分は悪くないと思っていても、そんな羽目になった自分が情けなくもあった。恥ずかしくもあった。だから祖母に対しても何も聞けていない。祖母が深く追及せずに茶化すように脅しの材料に使ってきたのはでも、わざとなのかもしれない。だがもしそうだとしたら、それはそれでありがたいけれども変に気を使われたのかもと恥ずかしかった。ちなみに両親にはこちらへ戻ってきた時に、単に「仕事きつくてやめた」としか言っていない。いくつか聞かれても適当に流していた。飄々と受け流し、生まれ育った場所に久しぶりに戻ってきてのんびり過ごしていた。だが本当はかなり気持ちの上で負担になっていたようだ。決して誰にも真剣に話さないと思っていたはずがこうして雨月に話してしまい、その途中から胸がつかえてきて上手く話せなくなってしまった。
 雨月は何も言わなかった。だが布団から這い出て座っていた紫陽を引き寄せ、そっと抱きしめてきた。それがとてつもなくホッとして、紫陽は泣きそうで胸がつかえていた状態から抱きしめられたままゆっくりと呼吸できるようになっていた。

「……何も言わないんだな」
「こうするべきだったと言って欲しいんですか。それともつらかったねと言われたい?」
「……いや」

 どちらも聞きたくない。正論も、中途半端な慰めも今はまだありがたくなかった。

「どうされたいですか」
「……わからない、けどお前にぎゅってされるのはなんか落ち着く」

 雨月は「そう」と小さく囁くと、しかし抱擁を少し解いてきた。まだ離されたくないなと紫陽は腕を回しかける。だがその前にふと小さな息がかかったかと思うと唇を塞がれた。
 一瞬どういう状況かわからなかったが、キスをされているのだとじわじわ脳が理解していく。反動的に抵抗は少ししたものの、実際のところ嫌悪感などはなかった。
 男に興味を抱いたことはない。だが雨月がどこか現実離れしたような美しさを持っているからだろうか、それとも自分でも気づかない間に性別を抜きにして好きになっていたのだろうか。唇を合わせることはむしろしっくりきていた。先ほどまで感じていた紫陽花や雨月に抱いたそこはかとない怖ささえ、今の状況に馴染んで溶け込んでいる。

「……は……」

 何度も口を吸われ、力が抜けてまるで雨月にしなだれかかるような感じになってしまった。それを受け止めながら、雨月が静かに話す。

「雨脚は弱まりましたけど、まだ降り続いてますね」
「……え? あ、ぁうん」
「しとしと降り続く雨のことを淫雨って言うんですが」
「いんう?」
「淫らと書いて雨、です。日本語ってすごいですよね」

 またキスをしながらそんなことを言ってくる。

「なんで降り続いて淫らなん、だよ」
「淫という字はなにも姦淫的な意味だけではないですよ」

 雨月の唇が耳元にきて、紫陽は思わず小さくふるりと震えた。

「度を越して長く続く、物事にふける、という意味もあります」

 するり、と雨月の手が抱き寄せたままの紫陽の着物の中に入ってきた。

「あ……」

 度を越して……長く……ふける……。

 そこに触れられる前からすでに高ぶっていたのはキスだけでなく、雨月の声や言葉にも反応していたのかもしれない。
 雨月はそれに対しては何も言わず、ただ着物の中の熱くなったものに触れてきた。こんな湿度のある中、雨月の指はひんやりとしていて気持ちよかったが、その大きくてしなやかな指が動きだすと紫陽は何も考えられなくなっていった。
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