光の剣

湯島晴一

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3 夢幻の刻

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暗闇の中、俺の意識は少しずつ、その形を取り戻しつつあった。
 
意識が闇に閉ざされた底知れぬ井戸の中を延々と落ち続ける、そんな感覚だった。
 
闇の中を落ち続けるにつれ、今までの記憶が少しずつ削ぎ取られていく、そんな心持ちだった。
 
恰も薄皮が剥がれ落ちるかのように少しずつ少しずつ記憶を失いながら、俺の意識は延々と暗闇の井戸の中を落ち続ける。
 
落下は唐突に止まり、そして、俺は何処かに辿り着いた。
 
何処だろう、ここは。
何時だろう、この時は。
 
そう、ここは、あの日のバザールの片隅だ。
 

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俺は、五人兄弟の末っ子として、とある裏寂れた農村にある、貧しい農家に生を受けた。
食べることすら事欠くような、とても貧しい家だった。
幼い俺は、いつもひもじい思いをしていたような気がする。
親の顔はよく覚えていない。
父親も、そして母親も働き詰めだったのだろう、沢山の子ども達を養うために。
親が家に居ることは余り無く、兄たちが代わる代わる俺の世話をしてくれていた。
けれども、放っておかれることも多かった。
年の離れた兄たちは、畑仕事や家の手伝いやらで忙しかったのだ。
俺は、寂しさに苛まれて泣いてばかりだった。
誰かに俺を見詰めて欲しかった。
誰かに俺のことを構って欲しかった。
誰かに暖かく抱きしめ、そして、微笑みを向けて欲しかった。
寂しさ、そして温もりへの渇望に、俺はいつも苛まれていた。
 

確か、俺が六歳の時だった。
その朝、母親は俺に鶏肉を食べさせてくれた。
塩を振りかけ、そして火で炙った程度の代物だった。
だが、その時の味わいは、今でもはっきりと覚えている。
ちっぽけで、そしてパサパサの肉だったが、普段は芋や雑穀程度しか口にしていない俺にとって、その味わいは至高のものだった。
この世にこんな旨いものがあるのかと、まさに涙するような思いだった。
無我夢中で貪り食べた。
鶏肉を貰えたのは兄弟の中で俺だけだったことも嬉しかった。
俺だけが親から特別扱いされている、その思いは俺を有頂天にさせた。
 
食事を終えた俺は、母親から新しい服を与えられた。
勿論、新品などではなく、兄のお下がりの服だったが、穴だらけで継ぎ接ぎだらけの俺の服と比べると、それは輝かんばかりに見えた。
そして、父親からは、これから近くの街のバザールに出掛けるから、新しい服に着替えるようにと告げられた。
バザールに出掛ける、父親のその言葉は、俺の心をより一層浮き立たせた。
俺は、それまでバザールに連れて行ってもらったことは一度たりとも無かった。
兄たちからバザールの賑やかさ、そして商品の豊富さや物珍しさは時々自慢げに聞かされていて、一体どんな場所なのだろうと想像ばかりを膨らませていた。
いつか俺も連れて行ってもらいたい、そう願い続けていた憧れの場所だった。
俺は父親に手を引かれて嬉々としつつ、小さくて傾いた粗末な家を後にした。
 
数時間かけて辿り着き、初めて目にしたバザール、それは想像以上に賑やかで、そして、思い描いていた以上に彩り豊かなものだった。
目に映るもの全てが新鮮だった。
バザールの中の喧噪に満ちた雰囲気、それは年に一度の村の祭を思い出させた。
所狭しと並べられた数多の品々、それらの鮮やかな色彩は、俺の心をより一層浮き立たせた。
浮かれはしゃぐ俺に、父親は大きな林檎を買い与えてくれた。
俺と同じくらいの歳の男の子が番をしている露店で林檎を買い、俺に与えてくれたのだ。
林檎を目にするのはそれが初めてだった。
赤く艶やかなその色合いは、とても眩く目に映った。
その色合いは、口にすることが憚られるほどに艶やかで美しかった。
父親から促され、俺は恐る恐る林檎へと齧り付いた。
初めて口にする林檎の味わい、その瑞々しさと甘さには、最早、目も眩むような思いがした。
シャオッとした食感、それに次いで口中に流れ込んでくる瑞々しい果汁、そして、立ち上る甘い香り。
そのどれもが新鮮だった。一口囓っては、その味わいも歯応えも香りも消え失せてしまうまで、口の中の果肉を幾度も幾度も噛み締めた。
嬉しそうに林檎を囓る俺の頭を、父親は優しく撫でてくれた。
父親のその手は大きく、そして、暖かだった。
 
俺は、幸せだった。
父親から大切に扱われること、父親の関心を独り占めできること、父親の温もりを感じられること、それらはこれまで感じたことの無い、しみじみとした幸せを俺の心にもたらしつつあった。
これから俺は幸せになれるんだ。
父親にも、そして母親にも大切にされるんだ。
そう思うと、嬉しさで心がはち切れそうだった。

この幸せが続いて欲しい、切にそう願っていた。
林檎が湛える鮮やかな朱、それは、今日のこの時の幸せの象徴であるように思われた。
俺は父親に手を引かれ、林檎を囓りながら、満ち足りた気持ちでバザールの中をあちらこちらと漫ろ歩いた。


バザールの外れ、喧噪もやや静まったところで、繋いだ手を離した父親は俺に向かって言った。
別の店で買い物をしてくるから、少しここで待っているように、と。
俺は頷いた。
いい子だ、と父親は呟くように言い、そして、俺の頭を撫でてくれた。
父親は俯き加減で、その表情はよく見えなかった。
目を合せることもないままに父親は俺に背を向け、歩み行き、そして、バザールの喧噪の中へと姿を消していった。
バザールの人いきれの中に消えゆく父親の背中を眺めつつ、俺は林檎を囓った。
もしかしたら、父親は、また林檎を買って来てくれるのかもしれないと思った。
俺の心は弾むばかりだった。
 
 
けれど、そんな俺の期待とは裏腹に、父親はなかなか戻って来なかった。
待てど暮らせど戻っては来なかった。
俺が父親に連れられてバザールに着いたのは昼過ぎだったのに、陽は西へと大きく傾き、そして、今や暮れ始めていた。
人気が失せつつあるバザールを、夕陽が橙に染め上げる。
つい先刻までは、様々な商品が満ち溢れ、取り取りの色に彩られていたバザールは、今や夕陽の橙、そして夕陽の為す黒々とした影とに満たされていた。
つい先程まで喧噪に満たされていたバザールの中を、ひんやりとした静寂が満たしつつあった。
俺が抱くように大切に持つ林檎、それは、まだ半分ほど残っていた。
けれども、俺はそれを囓る気持ちにはならなかった。
父親が戻ってきたら、残った半分の林檎は彼にあげよう、そして、食べて貰おう。
そう、思っていた。
そう思うことで、父親は必ず戻ってくると自分自身に言い聞かせていた。
夕陽が照り付ける中、俺は林檎を捧げ持ち、その朱に見入っていた。
その朱に心を寄せることで、昼間に感じた幸せな記憶を反芻できるような心持ちだった。
 
それは、突然の出来事だった。
左の横合いから伸びてきた真っ黒く汚れた手が、俺の捧げ持つ林檎を不意に奪い去ったのだ。
俺の手からもぎ取るようにして。
驚いた俺は左を振り向き、その真っ黒く汚れた手の主を見遣る。
その手の主、それは子どもだった。俺よりやや歳上に見える子どもだった。
見窄らしくて破れ目だらけの汚れきった服を、ガリガリに痩せたその身に纏い、野犬のように荒んだ光をその目に宿らせた、垢に塗れた子どもだった。
「返して!」
俺は悲鳴とも泣き声ともつかぬ声をあげる。
必死になってその子どもに取り縋ろうとする。
けれども、その子どもは取り縋ろうとする俺を荒々しく振り払い、俺の叫びなど耳に入らぬかのように、その場から掛け去って行った。
俺から奪った林檎を貪るように囓りながら。
その子どもを追い掛けようという気力も萎え失せた俺は、その場にへたり込んでしまった。
惨めさや悲しさ、そして無力感とが俺の心を浸し始める。
浮かび上がってきたその気持ちに触発されるかのように、林檎の存在故に俺が目を逸らし続けていた不安や恐怖が一挙に黒雲の如く俺の心を満たし始める。

父親は一体、どうしたのだ?
もう間も無く夜ではないか?
戻ってくるのが余りにも遅すぎるのではないか?

父親に対する様々な疑念が心の面へと浮かび上がる。
けれども、そんな心の動きとは裏腹に、俺はその場から離れることは出来ずにいた。
そのうち父親がひょっこりと姿を現わして、俺を家へと連れて帰ってくれるに違いないと信じようとしていたから。
その場から離れてしまったら、父親は俺を見つけることが出来なくなってしまうと思ったから。
そして、俺には、その場を動く体力も、そして気力も残されてはいなかった。
いつしか俺の心の支えとなっていた林檎を奪い去られてしまったこと、それは俺の心を挫けさせるには十分だった。俺は地面にへたり込んだまま、自分の両足を抱え込むようにして丸くなる。
ひたひたと押し寄せる寂しさや心細さ、そして深々たる恐怖から自分を守るかのように。
自分でも気付かぬうちに、俺はしゃくりあげていた。
両の目からは、いつしか涙が滲み出ていた。俺は、もうどうすれば良いのか分からなかった。
切々と込み上げて来る寂しさや心細さ、それらをどう取り扱ったら良いのか分からなかった。
只、涙するしか無かった。
 

 

ふと気が付くと、夜が明けつつあった。
俺はいつの何か眠り込んでしまったようだった。陽が昇り、そしてバザールの中が光で満たされ行くのに従って、周囲の喧噪も徐々に高まりつつあった。
そう、昨日の昼間のように。
 
陽は更に高く昇り、バザールの中は熱気と喧噪、そして様々な色彩で満たされつつあった。
けれども、それらは昨日のように、俺の心を浮き立たせることは無かった。
むしろ、昨日に感じた幸せを思い出させられることによって、俺が置かれている今の状況の惨めさを、より一層際立たせるものでしかなかった。
そして、俺は飢えと渇きとに苛まれつつあった。
昨日の昼に林檎を買い与えられて以来、俺は何も口にしていなかったのだ。
 
俺が座り込んでいる場所の近くにも露店が並び始めた。
どうやら、昨日と同じ店であるらしい。
露店の主達は、俺に好奇と哀れみの混じった目線を投げ掛けながら、何やらヒソヒソと話をしているようだった。
疲れ果て、飢えと渇きに苛まれつつあった俺には、そのヒソヒソ話に耳を傾ける余裕など有る訳もなかった。
けれども、遠慮も無い彼らの会話は、熱気を孕んだ微風に載せられるかのようにして、俺の耳へと忍び入ってきた。
「ほら、あの子って、
 昨日からずっとこの場所に居るよ。」
「一晩中、この場所にいたのかね?」
「昨日の昼間は、たしか親と一緒だったはず。」
 
「あの子、きっとこのバザールに
 棄てられたんだよ。」
「そうかい、可哀想にねぇ。」
「時々見掛けるけどねぇ。
 食い詰めた親が、
 子どもをバザールに置き去りにするって。」
 
 
一瞬、何のことだか分からなかった。
自分のことが話題になっている、それを受け入れることが出来なかった。
俺の頭は、その話の内容を理解することを頑なに拒んでいた。
けれども、その話が意味するところは、俺の心にジワジワと染みてくるような思いだった。

「棄てられた」

その言葉は、俺が薄らと抱いていた、そして無意識のうちに募らせつつあった疑念に形を与えるものだったのだ。
目を逸らそうとし続けていた救いのない現実を、俺に突きつけるものだった。
残酷に、そして容赦も無く。
俺はフラリと立ち上がった。
そして、行く当てもなく歩き始めた。

「棄てられた」

俺は、その言葉を、もう耳にしたくなかった。
あの場所に座り込んだままだと、その言葉がいつまでも頭の中をグルグルと巡りそうだった。
露店の人々から注がれる、慎みのない好奇の視線、無責任な哀れみの眼差しを浴び続けることに耐えらそうにもなかった。
 
俺は、あてどなくバザールの中を彷徨い歩いた。
バザールの中を満たす喧噪、それは、俺の耳から押し入り、頭の中身を揺さ振るように感じられた。
また、飢えと渇きとが、俺から注意深さを奪い去りつつあった。
バザールの狭い通路を誰かとすれ違う際、時折ぶつかってしまった。
けれども、それに気を配る余裕など俺には無かった。
こうしてバザールの中を歩いていれば、いつしか父親が隣に戻ってきてくれる、そのように思いつつあった。
これは悪い夢なんだ。こうして歩いていれば、きっと昨日に戻れる、そのように思いつつあった。
バザールに溢れる喧噪、バザールを華やがせる様々な色彩、バザールに満ちる熱、それらは俺を益々混乱させた。
 
不意に、俺の目に鮮やかな朱が飛び込んできた。
それは、林檎の朱だった。
俺は、心の中で叫び声を上げた。
 
嗚呼、林檎だ。
あれは、俺の林檎だ。
昨日、あの黒く汚れた子どもに奪われた、俺の林檎だ。
 
引き寄せられるように、その朱い林檎の方へと俺は歩み寄る。
そこは昨日、父親が俺に林檎を買い与えてくれた露店だった。
昨日と同様、俺と同じくらいの歳の男の子が店番をしていた。
朦朧としつつある頭で、俺は思った。
俺がこの林檎を持っていれば、父親は戻って来てくれるに違いない。
林檎を再び手にすれば、幸せだった昨日に戻れるに違いない。
この手に朱い林檎を取り戻せば、この悪い夢から目覚められるに違いない。
「棄てられた」だなんて、そんな悪夢から目覚められるに違いない。
林檎さえ有れば。
そう、この朱い林檎さえ有れば。



不意に、俺は思い出した。これは俺の過去なんだ、と。俺はこれから、この露店から林檎を奪うのだ。それを咎め、取り戻そうと追い掛けてくる店番の男の子を殴り倒すんだ。
殴り倒された男の子の悲鳴を聞き付けた近くの店の大人達が一斉に集まってくるんだ。
そして、俺は皆から罵られるんだ、この泥棒め!と。
その騒ぎを聞き付けて、先程、私を「棄てられた」と噂していた連中もやって来るんだ。
連中は、俺のことをバザールに棄てられた子どもだと喚くように言ったんだ。
哀れみ、蔑み、そして憎しみの視線が一斉に俺へと突き刺さるんだ。
居たたまれなくなった俺は、思わず叫び声を上げ、その場から走り出そうとしたんだ。
けれども、周りの大人達はそれを許さなかったのだ。


そして、大人達による『盗人』への制裁が始まったのだ。


一切の容赦の無い制裁が。
俺は、集まった大人達から叩きのめされた。
頭を小突かれ、頬を張り叩かれた。
胸へと、そして腹へと幾度となく拳がめり込んだ。
子どもの体が、容赦の無い大人の暴力に耐えられる訳も無かった。
遠慮の無い打擲を受け、俺が崩れ落ちるように倒れ伏してからも、容赦は一切無かった。
倒れ伏した俺は蹴り飛ばされ、踏みつけにされた。
脇腹を蹴り上げられ、頭を蹴り飛ばされた。
腕を、足を、背を、そして頭を荒々しく踏みつけにされた。
悲鳴を上げ、そして必死になって許しを請おうとも、誰一人として俺を庇う者は居なかった。
誰一人として俺の言葉を聞き入れてくれる者は居なかった。
怒声と罵声、そして嘲りの声が降り注ぐ中、俺は大人達から只管に打ち据えられ、只管に踏みにじられた。

俺が悲鳴すら上げられなくなった頃、ようやく制裁は終わった。
倒れ伏した俺に罵声を浴びせ、唾を吐きかけ、大人達はその場を去って行った。
打ちのめされた俺は地面に倒れ伏し、血の味がする砂塵を噛み締めていた。
体中が酷く痛んだ。
俺の目の前に、踏みにじられ無残に潰された砂塗れの林檎が落ちていた。
うめき声を上げながら何とか身を起こした俺は、潰された砂塗れの林檎を拾い上げる。
腫れ上がった瞼越しに見る林檎、その朱は砂に塗れて無残に色褪せていた。
それは、俺が昨日に味わった幸せの残酷な末路を示しているようだった。
俺は、潰れた砂塗れの林檎を口にした。
口の中で砂がジャリジャリと不快な音を立てた。
その味わいには、最早瑞々しさは無く、そして、甘い香りも失せ果てていた。
けれども、そんなことはどうでも良かった。
俺は只管に飢え、只管に渇いていた。
無心になって、その潰れた林檎を貪り、砂とともに臓腑へと流し込んだ。
そして、俺はふらりと立ち上がった。
足を引き摺り、よろめきながらその場を立ち去ろうとする俺に、冷たい蔑みの視線が突き刺さった。

俺の心は絶望に満ちていた。
誰一人として俺の心に手を差し伸べてくれぬ、俺を取り巻く世界への絶望に。
俺の心は憤怒に満ちていた。
俺に朱い林檎を取り戻させてくれなかった、俺を取り巻く世界への憤怒に。

俺は、俺と同じく親から棄てられてバザールに巣食う子ども達のグループに加わった。
日々を生き延びて行くために。
盗むこと、そして奪うことが俺の唯一の生きる術となった。
仲間とともにバザールの中を徘徊し、店番の隙を見つけては品々を掠め取っていった。
バザールだけでなく、街中でもひったくりやかっぱらいに手を染めた。
他者を思い遣る余裕など全く無かった。
盗むこと、奪うことに躊躇するような者は、飢えた挙句に命を落としていった。
大人達は誰一人として、そんな俺達に手を差し伸べてくれなかった。
俺は寂しさと哀しさに満ちた心を絶望と憤怒とに塗り潰すことで、盗むこと、奪うことを平然と為していた。
そうして何とか生き永らえてきた俺は、いつの間にか、ごく自然に強盗へと成り果てていた。

初めて人を殺めたのは十四歳くらいの頃だったと思う。
夜半、街中を行く商人を後ろから付け、そして、荷物を奪おうとした。
商人は思いのほか頑強に抵抗した。
俺は、抵抗する商人に叫ばれ、そして助けを呼ばれては困ると思った。
黙らせようと思い、携えていた短刀を鞘から抜いて逆手に持ち、そして、叩き付けるようにして商人の首筋を刺した。
短刀は意外と抵抗無く、商人の首筋へとめり込み、その肉を貫いた。
悲鳴を上げる暇も無く、商人はその場に崩れ落ちた。
罪の意識も、そして同情の念も俺の心には湧き上がらなかった。
意外と簡単だったな、というのが正直な思いだった。
今や何も映さなくなった商人の虚ろな瞳、それは、絶望に満ちた俺の瞳そのもののようにも思えた。

それからは、人を殺めることに抵抗が無くなった。
襲われて抗う者、泣き叫んで助けを求める者、そんな者達の命を容赦無く奪った。
けれども、街中で殺しをしては目立ってしまう。
それ故、俺は仲間と共に街道を行き交う隊商を襲うようになった。
そのうち仲間割れに辟易し、一匹狼となって旅人を狙うようになった。
一匹狼となってからも、命を奪うことに何の躊躇いも抱かなかった。
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