光の剣

湯島晴一

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4 夢

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俺は、ハッと気が付いた。
そこは、バザールの中だった。
そう、俺は父親にバザールへと棄てられたのだった。
父親から棄てられた俺は、露店の前にて林檎を見詰めていた。
最早、焦点も定まらなくなりつつある瞳で。
飢え、そして渇きとに苛まれながら。
その林檎の朱は、俺の心を苛むようだった。
それは、昨日の幸せと今日の不幸、その二つを現わす色のように思えてしまった。

店番の少年と目が合った。
少年は、真っ直ぐに俺の目を見詰めていた。
その眼差しに、哀れみや好奇の色は無かった。
俺の瞳から自然と涙が零れ落ちた。
好奇も哀れみも纏わぬ視線、それだけでも、その時の俺にとっては救いだった。
眼前にて不意にポロポロと涙と零し始めた俺に対し、少年は戸惑い、そして、驚いたのだろう。
彼は露店の商品である林檎をひとつその手に取り、俺の方へと差し出して来た。
涙に暮れる俺を慰めるかのように。
驚いた俺は少年を見遣る。
少年はその視線に優しさを湛えて俺を見遣り、そして、無言で頷いた。
俺は林檎を受け取る。
そして、その林檎に無我夢中で齧り付いた。
林檎の瑞々しさ、甘さ、そしてその芳しさは、張り詰めていた俺の心を解きほぐしてくれるかのように思えた。
貪るように林檎を囓る俺の口からは、いつしか嗚咽の声が漏れ始めていた。
そして、囓りかけの林檎を持ったまま、何時しか号泣していた。

号泣する俺の頭に大きな手が置かれた。
その手は、その少年の父親のものだった。
少年の父親は俺に問い掛けた。
一体、どうしたんだ、と。
涙ながらに俺は答えた。
昨日、父親から、このバザールに置き去りにされ、棄てられてしまったことを。
少年の父親は息を呑んだ。
もの言いたげな少年の眼差しが、彼の父親へと注がれた。

少年の父親は果実商だった。
その日から、俺はその果実商の家で暮らすこととなった。
その家は、両親と少年、そしてその弟の四人家族だった。
少年は俺より二歳歳上だった。
その家は、決して裕福などでは無かった。
けれども、両親は、二人の子ども達と何の分け隔ても無く、俺を育ててくれた。
「父親」が果物を仕入れ、街々へと行商する。
俺の「兄」となった少年、そして俺とがバザールの露店にて果物を売る。
そうやって「家族」の生計を支えた。

俺は懸命に「家族」の役に立とうとした。
他の店の賑やかな呼び子の調子を真似て、道行く人に林檎の美味しさを喧伝したりした。
よく見掛ける人の顔を覚え、愛想良く話し掛けては果物を買って貰おうとした。
浅はかでいじましい、そのような努力の甲斐もあってか、露店の売り上げは少しだが伸びていった。
また、バザールの中でも次第に顔見知りが増え、何かと大人達から可愛がられることも多くなってきた。
両親も、そして「兄」も、俺に優しく接してくれた。「兄」とは毎朝のように、バザールの露店にて果物を売るために一緒に家を出た。
どちらがより多くの荷物を持てるか力比べのようになってしまい、父親が行商のために持って行くはずの果物まで持ち出してしまうことも時々あった。
そして、苦笑交じりの「父親」から「兄」共々雷を落とされ、「母親」が笑いながら「父親」を宥めるということが往々にして繰り返された。
そんな日々が堪らなく愛おしかった。
「兄」との絆、「父親」の優しさと厳しさ、そして「母親」の微笑み、それらが自分のものだと実感できる刹那、それは俺の心をじんわりと、そして揺るぎ無く暖めてくれた。
「弟」も、唐突に「家族」へと加わった俺によく懐いてくれた。
「母親」が家事で忙しい時などに「弟」の面倒を見、一緒に遊ぶことは楽しかった。
「家族」と関わって生きていくこと、支え合いながら生きていくこと、それは幸せだった。
「家族」との暖かな繋がりの中で、俺を苛んでいた心の渇きは、静やかに癒やされていった。俺の心に渦巻いていた寂しさは、次第にその影を薄めていった。

新しい「家族」に迎え入れられて六年程が経ったある日のこと。
バザールにも店を出している顔見知りの絨毯商から、彼の下で奉公人として働かないかとの誘いを受けた。
露店での俺の働きぶりを目にし、見込みがあると考えたらしい。
ただ、その絨毯商は吝嗇なことで有名だった。
他の街々にも店を構え、手広く商売を行ってはいるものの、給金の安さと酷い扱いから、奉公人がよく逃げ出してしまうと囁かれていた。
けれど、俺にとってその話は、まさに渡りに船だった。
俺が懸命に工夫を重ね、露店での売り上げを伸ばしたとしても、それは所詮、焼け石の水に過ぎず、「家族」の暮しぶりは然程変わらなかった。
むしろ、俺を抱え込んだことで、家計は苦しくなってしまっているようだった。
父親が営む果実商の商売にしても、将来的には「兄」が継ぐことになっており、また、露店にしても、そのうち「弟」が番をすることになるのだろう。
いずれ、「家族」の中から自分の居場所が失われてしまうことが、俺には分かっていた。


俺は「家族」に、絨毯商の下で働くことを告げた。
「母親」は涙ながらに俺を引き留めようとした。
そんなに急がなくていい。
お前はまだ小さい。
もう少し、この家で皆を一緒に過ごしてもいいじゃないか、と。
「父親」も俺を引き留めた。
あの絨毯商は評判が良くない。
お前をそんな場所で働かせたくはない、と。
「兄」も、そして「弟」も俺を引き留めようとした。
けれども、俺の決意は変わらなかった。



絨毯商の店へ奉公に出る日の朝、母親は鶏肉と豆のスープを作ってくれた。
家族みんなで食卓を囲み、スープに舌鼓を打った。
つましいながらも皆で囲む食卓、その暖かな賑やかさが、俺の心にとじんわりと染み入っていくような心持ちだった。
「父親」は言った。
お前のことは本当の家族だと思っている。
だから、辛くなったら戻ってきてもいい。
時には家に遊びに来てくれ、そして、元気な顔を見せてくれ、と。
「母親」も、「兄」も、そして「弟」も涙ながらに相槌を打った。


俺は、もう十分だった。
俺は本来、あの日、あのバザールで「兄」から林檎を奪う筈だったのだ。
挙句、「兄」を殴り倒し、それが切掛となって盗賊へと身を落とすところだったのだ。
人の命を奪うことに何の躊躇も抱かぬ、非道極まりない盗賊に。
そんな俺を、この「家族」は救ってくれた。
そんな生を歩むはずだったこの俺を、「家族」は優しさで包んでくれた。
元々の家族では、いくら望んでも得られなかったものを、この「家族」は与えてくれた。だから、もう十分だった。


奉公に出た絨毯商の下で、俺は懸命に働いた。
それなりに手広く商売をやっている店だったので、彼の下に使用人は二十人ほどいたが、十二歳の小僧など、まさに使い走りの下っ端だった。
それこそ奴隷のようにこき使われた。
遊びに出る暇など無く、給金も雀の涙程度だった。
けれども、俺は懸命に働いた。
ようやく得られた僅かな給金も、「家族」に仕送りとして送った。


そうして絨毯商の下で十五年程働き続けた時のこと。
一代で財を築いたその絨毯商は不慮の事故にて急逝し、その一人息子が後を継ぐこととなった。
その一人息子は、父親ほど商売の才覚も無く、また、父親ほど商売への意欲も持ち合わせてはいなかった。
けれども、自分の身の程を弁えており、無理に背伸びをすることは無い人物でもあった。
そのため、自身の力量で営むことの出来る本拠の店だけを残し、他の街の支店については、古参の使用人達に経営を一任することとしたのだった。
それは、実質的には店を譲り渡したようなものだった。
そして、奉公人の入れ替わりが激しいその店にて古参の部類に入っていた私は、私の街の支店を任されることとなったのだ。
その支店は然程大きなものでは無かった。
けれども、私は奇遇にも一国一城の主となることが出来たのだ。


事実上の独立を果たした私は、「家族」と、何の気兼ねもなく関わることが出来るようになった。
三十歳を前にして妻を娶ることも出来た。
然程美人ではなかったが、気立てが良く、そしてしっかり者の妻だった。
妻が店の経理を一手に引き受けてくれたため、私は接客や外回りに専念できるようになり、店の経営、そして暮しぶりをより安定させることが出来た。
二人の子宝にも恵まれた。
近隣の街に商売の用で出掛けた時には土産を買い求め、妻や子ども、そして「家族」へと配りもした。皆の喜ぶ様を目にすることは例えようも無く嬉しかった。
「兄」にも、そして「弟」にもそれぞれの家族が出来、皆と関わっていくことは幸せだった。
「父親」と「母親」が次第に年老い、体が衰え行く様を目にすることは何とも切なかった。


私も次第に歳を重ね、そして、何時しか老いていった。
店を跡継ぎの長男に譲り渡し隠居してから程無くして、私は病に倒れた。
ずっと働き詰めだったためか、働くことを止めたことで急に老け込んでしまった、そのような感じだった。
若い頃の無理の代償からか、一度病み付いて寝込んでからは、体が衰え行くのはあっという間のことだった。短い闘病生活の果てに、私は息を引き取った。
「兄」や「弟」、妻や息子たちに囲まれながら。
皆の励ましと涙とに心を暖められながら。
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