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兵法者としてのこれから!
第三話 福岡黒田家にて兵法指南
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武蔵はこの縁もあり、しばらくの間兵法指南を頼まれることとなった。城下に道場を貸し出され、もちろん賃料は黒田藩が。それだけではなく、二日に一度は登城して、城の庭で兵法の指南を行う。
武蔵の円明流は二刀を扱う流派ではあるが、二刀はあくまでも補佐的な役割を担っており、まずは一刀である大刀を基礎通り扱う必要がある。
そもそも日本刀というものは、鉄でできている事はもちろん、その長さからもとても重いものである。戦国時代の太刀から、その性質は変わりつつあり、大きさも関ヶ原以前よりは帯刀しやすく、長さも二尺半くらいのものが主流になってきている
鎧武者が戦で振るってきた得物は、鎧を貫くために刀も重く長さも今より一尺ほどは長かったのではなかろうか。
しかしながら、この平穏な時代を迎え、戦よりも普段の帯刀には当時の太刀は大きすぎた。
従って剣術も、戦国時代の一体多数よりも、一対一を主体にしたものへと変化を遂げていた。
武蔵が開祖となる円明流は、まずは一対一の立ち合い。それを基礎として、一対多数などの戦などへの立ち振る舞いや戦い方を武蔵独自の観点から教えていく。
二刀は必ず使うものではない。武蔵はこう説く。必要に応じての使い分け。また、武蔵は二刀を使うためには、一刀を扱うよりもより腕を鍛えよと説く。
それもそのはず。刀の重さに振り回されては二刀流どころではない。一刀を扱った方がはるかにましである。また、利き腕で大刀を支えられるように、自由自在に扱えるようにと指導していく。
それから武蔵が教えるのは、立ち合いでいかに有利に立つか。その手ほどきというかアドバイス。そんな日々が二月ほど続き、季節は春から夏へ移ろうとしていた。新緑が芽吹いて武蔵はそろそろ旅立とうと思っていたが、梅雨が明けるまでは。そう黒田家から申し出あり、それを受け入れた。武蔵は肥後から薩摩へと向かおうと決めていた。今、九州で一番と言われている流派が新陰流から派生した、タイ捨流という流派である、
その流派を興したのは、丸目蔵人佐という戦国を生き抜いた兵法者である。南九州、薩摩の島津家の家臣である相良家に仕え、門下生は相良家以外にも九州中から教えを請う侍たちが多かったということから、今九州で一番活きのいい流派といえるかもしれない。
武蔵はまだ対戦したことのない、この流派と一度剣を交えてみたいと思っていた。
自身も福岡城下で剣を教えながら、今一度自身の剣のあり方を己に問う。これも、武蔵にとっては常々からなる研鑽の日々となんら代わりはなく、逆に時折求められる町づくりなど、武蔵は兵法の観点から、武家の配置や商人たちの町など、率直な感想を述べた。
梅雨時のうっとうしい時期も、そうしたことから、退屈することは無かった。逆に武蔵は黒田家からアイデア料や兵法指南の対価として金子を賜う事となる。
それは武蔵が思っていたよりも少し多い。これだけあれば冬まで食うに困らないだろう。
武蔵は黒田家の好意に甘えつつ、ふと、あることを思う。それは、武士は仕官してなんぼ。あるいは自身が大名になるという野心をもって生きてきたのが戦国の世の理だった。
だが、徳川政権の世の中になって、大名へと出世するのはかなり難しい現状。それに大名ともなれば、窮屈な生活。武蔵が子供の頃、あるいは関ヶ原の合戦の頃思い描いていたものとはかなり違う。
ところが、である。武蔵は今回、黒田家に助言や兵法指南をしただけなのである。敷いていうなら自由なままだ。もっとも、これまでも円明流を立ち上げ、門弟たちから謝礼を受け取ったり、旅先での兵法指南などで金子を得ていたが、微々たるもので。旅の路銀としては心もとなかった。
今回の様に、武蔵は自由気ままな兵法家として旅をしながら声のかかる大名に指南などをする。どこぞの大名に仕官しなくても、わりと自由に生きていけるのでは無いだろうか。
もはや、武蔵には仕官する気はなかった。自由に生き、時折働いて金子を得る。武蔵にはこの行き方が一番性に合っている。今ではすっかりその気だった。
梅雨が終わる頃に、武蔵は旅支度を終えて南へ向かって旅立った。福岡に残った門弟たちも、それぞれ己の道を歩むことだろう。
門弟たちの中でも、三喜之介は一際剣の腕も立ち、若さ故の吸収力は福岡で剣術指導をした中でも筋が良かった。
旅立ちの支度をする武蔵に、付いていくと懇願するほど。武蔵にも思うところは多々あったのだが、親類であること。元服を迎えてはいたが、長男ではないため、正式にはまだ黒田家に仕官していないことなどもあり、武蔵も迷いはしたがこの度に連れて行く事にした。
「武蔵よ、武蔵もまだ嫁を娶る気は無いようでお節介かも知れぬが、三喜之介を養子にしたらどうだろう。やがてどこかで落ち着いて仕官する事もあろう。その時は三喜之介に後を継がせておくれ。どうせ福岡に居っても新免家の跡は継げんのでな」
宗貫の言葉に、武蔵も宮本家の長子として養子に迎えるのを決めるのであった。
新しい出発だった。これまでのただ一人の気ままな兵法修行の旅ではなく、三喜之介という子を預かり、また一つ責任も重くなったが、三喜之介には円明流を継がせることを考えていた。どこかに仕官を、あるいはできなくても新免家の次男でいるより彼自身も活き活きしていた。二人は暑くなり始め、梅雨の終わりが告げられた七月初旬に福岡から南へと旅立っていったのだった。
武蔵の円明流は二刀を扱う流派ではあるが、二刀はあくまでも補佐的な役割を担っており、まずは一刀である大刀を基礎通り扱う必要がある。
そもそも日本刀というものは、鉄でできている事はもちろん、その長さからもとても重いものである。戦国時代の太刀から、その性質は変わりつつあり、大きさも関ヶ原以前よりは帯刀しやすく、長さも二尺半くらいのものが主流になってきている
鎧武者が戦で振るってきた得物は、鎧を貫くために刀も重く長さも今より一尺ほどは長かったのではなかろうか。
しかしながら、この平穏な時代を迎え、戦よりも普段の帯刀には当時の太刀は大きすぎた。
従って剣術も、戦国時代の一体多数よりも、一対一を主体にしたものへと変化を遂げていた。
武蔵が開祖となる円明流は、まずは一対一の立ち合い。それを基礎として、一対多数などの戦などへの立ち振る舞いや戦い方を武蔵独自の観点から教えていく。
二刀は必ず使うものではない。武蔵はこう説く。必要に応じての使い分け。また、武蔵は二刀を使うためには、一刀を扱うよりもより腕を鍛えよと説く。
それもそのはず。刀の重さに振り回されては二刀流どころではない。一刀を扱った方がはるかにましである。また、利き腕で大刀を支えられるように、自由自在に扱えるようにと指導していく。
それから武蔵が教えるのは、立ち合いでいかに有利に立つか。その手ほどきというかアドバイス。そんな日々が二月ほど続き、季節は春から夏へ移ろうとしていた。新緑が芽吹いて武蔵はそろそろ旅立とうと思っていたが、梅雨が明けるまでは。そう黒田家から申し出あり、それを受け入れた。武蔵は肥後から薩摩へと向かおうと決めていた。今、九州で一番と言われている流派が新陰流から派生した、タイ捨流という流派である、
その流派を興したのは、丸目蔵人佐という戦国を生き抜いた兵法者である。南九州、薩摩の島津家の家臣である相良家に仕え、門下生は相良家以外にも九州中から教えを請う侍たちが多かったということから、今九州で一番活きのいい流派といえるかもしれない。
武蔵はまだ対戦したことのない、この流派と一度剣を交えてみたいと思っていた。
自身も福岡城下で剣を教えながら、今一度自身の剣のあり方を己に問う。これも、武蔵にとっては常々からなる研鑽の日々となんら代わりはなく、逆に時折求められる町づくりなど、武蔵は兵法の観点から、武家の配置や商人たちの町など、率直な感想を述べた。
梅雨時のうっとうしい時期も、そうしたことから、退屈することは無かった。逆に武蔵は黒田家からアイデア料や兵法指南の対価として金子を賜う事となる。
それは武蔵が思っていたよりも少し多い。これだけあれば冬まで食うに困らないだろう。
武蔵は黒田家の好意に甘えつつ、ふと、あることを思う。それは、武士は仕官してなんぼ。あるいは自身が大名になるという野心をもって生きてきたのが戦国の世の理だった。
だが、徳川政権の世の中になって、大名へと出世するのはかなり難しい現状。それに大名ともなれば、窮屈な生活。武蔵が子供の頃、あるいは関ヶ原の合戦の頃思い描いていたものとはかなり違う。
ところが、である。武蔵は今回、黒田家に助言や兵法指南をしただけなのである。敷いていうなら自由なままだ。もっとも、これまでも円明流を立ち上げ、門弟たちから謝礼を受け取ったり、旅先での兵法指南などで金子を得ていたが、微々たるもので。旅の路銀としては心もとなかった。
今回の様に、武蔵は自由気ままな兵法家として旅をしながら声のかかる大名に指南などをする。どこぞの大名に仕官しなくても、わりと自由に生きていけるのでは無いだろうか。
もはや、武蔵には仕官する気はなかった。自由に生き、時折働いて金子を得る。武蔵にはこの行き方が一番性に合っている。今ではすっかりその気だった。
梅雨が終わる頃に、武蔵は旅支度を終えて南へ向かって旅立った。福岡に残った門弟たちも、それぞれ己の道を歩むことだろう。
門弟たちの中でも、三喜之介は一際剣の腕も立ち、若さ故の吸収力は福岡で剣術指導をした中でも筋が良かった。
旅立ちの支度をする武蔵に、付いていくと懇願するほど。武蔵にも思うところは多々あったのだが、親類であること。元服を迎えてはいたが、長男ではないため、正式にはまだ黒田家に仕官していないことなどもあり、武蔵も迷いはしたがこの度に連れて行く事にした。
「武蔵よ、武蔵もまだ嫁を娶る気は無いようでお節介かも知れぬが、三喜之介を養子にしたらどうだろう。やがてどこかで落ち着いて仕官する事もあろう。その時は三喜之介に後を継がせておくれ。どうせ福岡に居っても新免家の跡は継げんのでな」
宗貫の言葉に、武蔵も宮本家の長子として養子に迎えるのを決めるのであった。
新しい出発だった。これまでのただ一人の気ままな兵法修行の旅ではなく、三喜之介という子を預かり、また一つ責任も重くなったが、三喜之介には円明流を継がせることを考えていた。どこかに仕官を、あるいはできなくても新免家の次男でいるより彼自身も活き活きしていた。二人は暑くなり始め、梅雨の終わりが告げられた七月初旬に福岡から南へと旅立っていったのだった。
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