自分の事を兄だと慕ってくれる無口系箱入り娘(物理)を、闇の沼底から救い出せ! ~留年、回避、ゼッタイ!~

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1日目

004 守りたい

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 彩との勉強会は、サプライズイベントを含むことなく終着駅に到着した。さようならのステッカーを前面に張り付けられていない汽車が、蒸気を吹き上げて車庫に折り返していくところだ。

 先生役も楽なものではなく、生徒の彩から鋭い指摘がいくつも飛んできて胃に穴が開く。胃液が侵入して胃潰瘍になる前で食い止めなくてはならないのだが、この難易度が桁違いに高いのだ。流石に彩の留年回避とは月とスッポンだが、正確な応対が出来ないと煽られることになる。

 一年先輩の理屈は、ここ久慈(くじ)彩宅では通らない。人権の管理者は彩で、陽介は女王の定める範囲で権利を持つ。許可なしに設問の解説を終わらせる権利は有していないのだ。質問者が納得するまで、講義は続く。

 通信制の高校を紹介したことは、過去に一度あった。たちまち黒猫は毛を逆立て、限度一杯まで尖らせた鉛筆を両手両足に取り付けて襲撃されたのは教訓として肝に刻まれている。

 これは陽介自身の願望になってしまうのだが、彼女が通信制に入ってしまうと接点が失われる。勉強を教える機会は失われ、わざわざ出向いてこいと命令される日常も消えるだろう。高校内で碌に青春を謳歌できていない陽介に、親友の彩を引いたら何が残るのか。

「……今日も、ありがとう……。分からなかったところ……よく理解できた」
「彩がそう言ってくれるなら、俺だって来た甲斐がある」

 教科書を家で何回も読み返すと自慢話を展開してくるにしては、どうにも陽介の我流講義で習熟度が低い。独学で高校の教科を履修するのは、無理があるということだ。改めて、授業の偉大さを思い知らされる。

 質問攻めに遭ってメンタルをボロボロにされても、彼女の将来で心が病みそうになっても、心の底から浮き出た彩の微笑みで相殺される。

 ……この笑顔が、守りたい。

 人の喜びを守るという立場の人間でないのは、重々承知している。幸福の味を欠片しか知らない陽介の力では、彩に幸せや喜びを与えられない。高校教諭でもなく、成績会議で留年を阻止させてやることも出来ない。

 だからと言って、黙ったまま封殺される未来は望まない。妹と見なしてこれまで接してきた彼女を、自立しろと切り離すのは血の通った人間ではないのだ。

「……留年……だっけ。あと二週間……なんだよね……」

 雰囲気を壊さないよう平静を繕ってくれていた彩が、ただでさえ日が落ちて路面に差す影にどんよりとした暗雲を重ね合わせていた。光を吸い込む瞳は地面を向き、手で日数を数えては口をつぐむ。

 大学でも留年は避けたいイベントであるが、高校は猶更だ。周りの同級生がこぞって進級する中、たった一人置いて行かれるのである。後輩に追いつかれる心境は、外界から予想出来ない。

 二週間というのも、休日を含めてのお話。厳正に対象日を調べ上げると、そのリミットは十日にまで狭まる。この短期間では、模試の結果すら閲覧不可だ。

 陽介が手伝えることは、何かないだろうか。腕力に任せて彼女を高校に登校させても、信頼関係が崩壊する以外に効果は見いだせない。固く閉ざされた扉を、彩自身でぶち壊してもらわなくてはならないのだ。

 ……もし、この状況を打破できなかったら……。

 不吉な想像に、陽介の思考の手綱を握られる。

 外社会と結ばれている糸が切れると、彩はもう出てこない。在宅でも可能なバイトを申し込むのか、はたまた生産性の無い生活を謳歌するのか……。いずれにせよ、プラスに傾かないことは確かだ。

 打開策を見つけられないポンコツ脳に、体中の細胞からヘイトが溜まる。『救いたい』と正義のヒーロー面をしておきながら、実践へと足を踏み出さない優柔不断さを責められている。

「……彩は、このままでいいのか……?」
「……良くないに決まってる! ……」

 獅子の雄たけびを上げて、彩はまた肩を落としてしまった。

 無口で主張の激しくないイメージが先行する彩も、気象異常で激動の感情を備えている。ケーキが半回転して見事な着地を決めたら多少なりとも傷つくだろうし、抜け出せない暗闇に光が差し込めば自然と背筋が伸びる。

 彼女にとって、留年は死活問題。社会人で一年の遅れは挽回できるが、成長期真っ盛りの高校生でロスタイムは多大な代償を背負う。米俵をしょった状態で棒高跳びに挑戦しろと命令されるようなものだ。

 ……何言ってるんだよ、俺は……。

 彩が、現状を諦めて押し入れに閉じこもるとでも思ったのか。熱心に勉強へと励んでいる女子が、意欲を全て失って閉じこもるのが最適解だと考えていたのか。あきらめの境地で佇んでいたのは、陽介の方である。

「……何をしたらいいか……分からないけど……」
「焦る必要はない……とは言えない。でも、彩が望むことなら何だって協力する」

 彼女が希望する道は、苦難のデコボコ道を乗り越えた明日なのか、現状維持を重視して形態を変化させようとしないのか。常にガスが供給されている蒼い炎を見れば、一目瞭然である。

 二週間しか猶予の無い狭間で目標を立てず我武者羅に突っ込んでいくのは、どれだけ無謀な挑戦か。一方通行の標識の下で、休憩を取りながら進んでいく必要がある。

 玄関まではご主人を送り出す子猫だった彩は、敷地外へと身を乗り出そうとしない。軽く手を揺さぶっても、新鮮な空気に身震いするばかりだ。

 劣悪な環境下で飼育された猫は、人間から恐怖心を植え付けられている。背中を撫でても、顎の下で手を転がしても、無愛想な愛玩動物の完成になってしまう。

 ……先週が、最後だもんな……、一緒に登校したのは……。

 ぎこちなく手を振ってくれている彩の、その向こう側を透視していた。次元の異なる世界から風景を眺めているようで、遥か未来の日本にタイムスリップした感触を受ける。

 年下の実質妹と手を繋いで、わいわい雑談しながら駅へと向かう。訪れるべきだと思っていた一枚の写真は、色褪せて当時の色調を伝えていない。この頃は、彩も外の公園で駆け回るやんちゃな少女だった。

 学年が一個噛み合わなかった事実は、決定的な歪みを彩に与えた。最重要機密の人格や知識こそ守られたが、最外殻の感情は外力によって捻じ曲げられてしまったのだ。ジムに通うボディビルダーが空き缶を潰すかのように、ほんの一瞬で。

「……時間……、もう遅い……。……今日は……、ありがと……」

 紅潮が壇上で一歩前に進んだ時以上の、深々としたお辞儀。形式ばった上辺のお礼ではなく、時間という資金を投資してくれた感謝の念である。持ち主の意志に背いていたくせ毛も、ゴムに倣ってひとかたまりになっていた。

 夏に頭を突っ込んだとはいえど、まだ始まりの始まり。太陽は、地平線のその向こうへと身を隠そうとしていた。

 ……火事の夕焼けが彩と見られるのは、あと何回なんだろう……。

 来年の三月、進級を認める旨の通信簿を満面の笑みで自慢してくる彩とここに立っていられる未来。地殻変動で古代大陸が浮上してこようと、陽介が信じる将来は変わらない。

 陽介の歩む道と、彩が逸れようとする道。航空写真を撮影すれば明らかなように、この先で交わっているとは考えづらい。赤い糸でも銀の鎖でも、彼女と縁を結んでいたいと常に思う。

「……今日は、ここまでだな。明日もとことん詰め込みに行くから、覚悟しろよ?」
「……暴力……反対……」
「だから、そういう発言をしたら通行人に勘違いされるだろ……! もっと、温和なワードを言ってもらわないと……」

 指を詰めるのはヤクザで、知識を詰め込むのが明日。休日は原則陽介の定休日だが、留年が近づいているとなればそうも言っていられない。教え子が留年したと連絡が行った日には、親御さんから一日中迷惑メールでメモリデータを消去されることだろう。

 季節にそぐわない北風が、陽介の肩をなでる。排気設備の不十分な頭を冷ませと言わんばかりに、肌の熱気をもぎ取っていった。

 彩が背を向け、久慈宅の扉が閉まった。鍵をいじくる金属音が聞こえて、部外者の侵入を硬く拒んだ。

 いつもならば迷わず帰路に着くところだが、今日という日ばかりは彩の家に目が行ってしまう。堀が周囲に流れていない一般庶民の住宅に、心が惹きつけられていた。

 ……彩の部屋は、確か二階の……。

 消灯している、ベランダ付きの窓。カーテンで覆われていて、中身を物色するのは不可能だ。玄関は倹約で防犯費を削るのに、プライバシーの管理はしっかりとしているらしい。

 始業から終礼まで、彩はあの部屋で教科書を開いている。授業で進めているであろう範囲をノートに書き写し、練習問題を解き、知識を定着させるのだ。

 高校の初めは、中学範囲の復習から。平均点が高くなると予想される分野ですら、彼女の理解は中々深まっていない。元々勉強から逃げていた節もあり、中学後半でまともに授業にありつけなかった弊害もあり、基礎知識が不足している。

「……俺が救ってやる、なんてかっこいい言葉で期待させてもなぁ……」

 困難で満たされた心の容量をこじ開けようと、溜息が漏れた。グレーに塗られた空気の塊は、ゆっくりと陽介の足元に落ちた。

 信念を貫くのと、現実で目標を達成することは、間に琵琶湖が横たわっている。己の肉体の身で横断するのは、不可能に近い。

 ……まずは、目標を立てないとな……。

 制限時間を設けないマラソンを走ろうとすると、体力が尽きて保健室送りになる。彩にも、せめて保健室登校が可能なレベルまでもっていかなくてはならない。

『……陽介お兄ちゃん!』

 過去のアルバムとなった回想が、にわかに巡った。公園で年長の男子たちに囲まれていた彩が、助けを求めて陽介に泣きじゃくって飛びついてきたときだ。

 彼女の涙で勇敢さが奮い立った陽介は、飛び道具を用いて追い払おうとした。自分が逃げ出せば、彩が危険にさらされる。そうと分かっていて、逃げ出す選択肢は取れなかった。

 ……顔に何個もアザを付けられたけどな……。

 頼り、頼られで過ごしてきたこれまでの陽介と彩。精神が成長した現在となっても、不思議なことに縁は途切れていない。舞台が、高校へと移っただけである。

 何分、陽介はぼんやりと焦点の合わない目で眺めていたのだろうか。我に返ると、二階の窓から白色光が漏れ出していた。脆弱なセキュリティのパソコンは、ハッカーからこう見えているのだろう。

 陽介は、ようやく踵を返した。『彩を救う』という明確な決意を胸に秘めて。
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