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3話-3
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次の日、目が覚めてからしばらくベッドの上で過ごした。昨日の疲れがまだ残っているのか、すぐに起き上がる気力が湧かなかったのだ。昨日の夜は寝落ちしてしまったが、夜中に目が覚めたので何とか余力を振り絞って風呂に入った。その後再びベッドで寝直し、今に至る。
携帯の着信音が鳴った。電話だ。ベッドから手を伸ばし、ちょっと遠くのローテーブルからなんとか掴み取る。
「もしもし」
『花ちゃんおはよう!』
画面を見た時から相手は分かっていたし、覚悟はしていたけれど、それ以上のボリュームで叫ばれ、つい耳元から離した。朝から元気で羨ましい。
『あれ、もしかして寝てた?』
「寝てたよ」
『もう十時だよ?』
「昨日、いっぱい働いたんだよ」
電話口の向こうから悠希くんのはしゃいでいるような声が聞こえる。先週落ち込んでいたのを心配して、真希ちゃんが一時的に帰宅しているのだ。
『休日出勤だったの?』
「あ、ううん。引っ越しの手伝いをしていて……」
『へぇ、偉いねぇ』
少し迷い、真希ちゃんに誰もいないところに移動してもらえるよう、言った。間があり、「寝室にきたよ」と不思議そうに返ってくる。
「あのさ、学童に篠原くんっているでしょ」
『えー、誰だっけ……。悠希と同じ学年?』
「違うよ。働いてる人。あおちゃんって呼ばれてて」
『わかった。バイトの子だ。まだ日が浅いし、あんまり会ったことないんだよねぇ』
そうだったのか。そういえば、本人もそんなようなことを言っていた気がする。私がお迎えの代行をする少し前に、彼も働き始めたのかもしれない。
「その篠原くんのお兄さんの引っ越しだったの」
『えぇ、なにそれ。学童ぐるみの手伝い?』
「ていうか、個人的な手伝い……」
『篠原君に誘われたの?』
「うん」
週末、人手が足りないからと手伝いをお願いされた経緯を伝えた。さすがに手紙のことを言うと怒られそうだったので、そこは伏せておいた。そっかぁ、と言う真希ちゃんは思いのほか冷静で、優しい声だった。
『花ちゃんに惚れたかな』
「なんか、言い方が嫌だ……」
『そういうことじゃないの?』
「好意は抱いてくれていると思う」
『堅苦しいなぁ』
正直、どう言葉にすべきか分からなかった。普段は無愛想で感情を全然見せてくれないのに、突然、距離を縮めてこようとする。それが凄く不器用で、今となっては、あの連絡先を聞かれたことも、手紙を渡されたことも、そういうことだったのかと納得がいくけれど、当時は訳が分からずに呆けていた。
『それって、花ちゃん的にはやめてほしいってこと?』
「そんなこと、ないよ」
『え?』
「えっと……」
『えぇーっ』
その声が、まるでピンク色に染まっているかのように弾んで聞こえて思わず恥ずかしくなった。いくら暇だったからと言って、何の感情も抱いていない相手の手伝いなどするはずがない。連絡先だって交換しないし、敬語はやめよう、なんて言わない。
『そっかぁ、仲良くなれるといいね』
「他の人に言ったら駄目だよ。お母さんたちとか」
『言うわけないじゃん。ぶっ飛ばされるよ』
「こわ」
『冗談だけど。でも、良くは思われないよ。頼んでおいてなんだけど、お迎え期間中は我慢だね』
我慢、という言い方がなんだか気になるけれど、たしかに、お迎え代行が終わるまでは個人的に会うようなことはあまりしない方がいいのかもしれない。悠希くんに影響があっても嫌だし、終わってからいくらでも連絡はとれるのだから。
『私は年齢とかあんまり気にしないけど、花ちゃんはちょっと意外だったなぁ』
「意外?」
『高校生相手なんて犯罪だーとか、言いそうじゃん』
突然出てきた単語が不可解すぎて、すぐに頭が追い付かなかった。数秒の後、フリーズしていた脳が動き出す。今、なんて言った? 高校生……?
「だ、誰のはなし……」
『花ちゃん』
「じゃなくて、高校生……て」
『篠原君』
当たり前のように言う真希ちゃんに、絶句した。「たしか今年受験生とか聞いたから、高校生なはずだよ」と淡々と話す言葉が頭の中に響いている。受験生……ということは高校三年生……ということは、十七歳……?
『もしかして、知らなかったの?』
「は、犯罪だ……っ」
『あーあ』
どうして大学生なんて勘違いをしてしまったのだろう。大人っぽいし、最初は学生であることすら気づかなかったから、まさか高校生だなんていう発想が浮かばなかった。
それに、と脳裏に蘇ってくる。そうだ、彼自身が言ったのだ。昨日、お兄さんの家の近くに学校があるという話が出た時、以前通っていた高校だと、そう言った。大学だと思っていた私に対して、否定をしなかった。
『まぁ、のんびり考えなよ。べつに告白されたわけじゃないんでしょ』
「うん……」
『私からしたら、高校生も、社会人二年目も、同じようなもんだけどね』
それから悠希くんや学童の話を少しだけして、早々に通話を切った。久しぶりの家族水入らずの時間を邪魔してはいけない。
重い身体をなんとか起こし、顔を洗って着替えた。昨日は結局、夕飯を食べずに寝てしまった。支度をしているうちにだんだんと空腹感が増していき、お昼兼用のボリュームを平らげてしまった。
今日はなにも予定が無いし、部屋の掃除でもしよう。食材も余っているから、適当におかずを作って使い切ってしまおう。そう思いながらも、意識はすぐに昨日ことへと向いてしまう。
引っ越しの手伝いなんて、普段はしないことをしたからか、妙に楽しかった。お兄さんは凄く優しくて良い人だった。葵くんも、いつもは見れない一面が見えて、嬉しかった。嬉しかったのに。
携帯電話が着信を知らせた。電話ではなく、メッセージの受信だ。私の心の中を読んだかのように、葵くんからだった。
昨日はありがとう、というお礼に対し、どういたしまして、とすぐに返す。
『兄貴が、新居落ち着いたら遊びに来てって言ってた』
『ちょっと遠いけど、静かだし家も広いよ』
どう返したものかと迷い、ただ見つめる。遊ばれているのだろうか。ただ、からかわれているだけで、そこに私に対する好意なんて無いのかもしれない。高校生が、ちょっとした悪戯心で近づいてきただけだと思ったら、普通にあり得そうで納得してしまう。
けれど、悠希くんや、他の子供達に対する接し方を見て、彼がそういう人とは思えない。保育士になるのだと言った、真っすぐな目が綺麗で、そこに人を騙すような濁りは一つも見えなかった。
どうして嘘なんかついたの。そう送ってしまったら、どういう返事がくるのだろう。僅かに指先が動き、そっと息を吐いた。
『しばらく忙しくなるから、またの機会にお邪魔するね』
『また連絡します』
ほんの少しだけ距離を置いたことに、彼は気づくだろうか。またすぐに返事がきたらどうしよう。なんて返そう。携帯をテーブルに置き、悶々としながら時計を見つめ、携帯を見つめ、膝を抱える。
けれど、私の心配は杞憂だったようで、いくら待っても返事はかえってこなかった。
翌日、月曜日特有の気怠さを感じながら、いつものように会社へ向かう。そこに並ぶ顔ぶれも、聞こえてくる声も、いつも通りだ。同僚も上司も皆いい人だし、仕事も無理なく働きやすい。職場に不満などなにもない。けれど、こうして変化のない毎日を繰り返していると、何となく、嫌だな、と思ってしまう。贅沢なことだ。
「今日もよく働いたなぁ」
夕刻、まだ定時まで一時間以上残っている時間に、飯塚さんが言った。椅子の背もたれに体重を預け、ゆらゆらと左右に揺れている。
「今日はあんまり仕事なかったじゃないですか」
「宮丘はつまんないなぁ」
「つまんないって……」
「もっと楽しく生きようぜ。俺なんてこのあいだ」
「あ、電話だ」
着信音が鳴ったのと同時に手を伸ばした。淡々と喋りだす私に、隣から文句が聞こえてくる。
もしもし、と受話器の向こう側から声がする。こちらの様子を探るような、少し遠慮がちな男の声に、何故かぞわりと悪寒がした。
『宮丘さん、いらっしゃいますか』
静かに、丁寧に、相手を不快にさせないその声が、黒い渦を巻いているように私へと届く。途端に頭の中に感覚が蘇ってくる。息がくるしい。声が出てこない。まさか、と不安が膨張していき、全身を硬直させる。
「……申し訳ありません、本日は、お休みをいただいておりまして」
『そうですか。ではまた、明日改めます』
そう言うとすぐに通話が切れた。名前を聞けばよかった。声だけで判断するなんて馬鹿らしい。けれど、何度も聞いた電話越しの声は、忘れたはずの記憶を引きずり出してくる。
「宮丘、どうした?」
隣を見れば、私の異変に気付いたのか、飯塚さんが身を乗り出してこちらを覗き込んでいた。
「えっと……」
「クレーマー? なんか嫌なこと言われたの?」
仕事なんて好きじゃない。毎日通勤して、楽しくもない仕事をして、時間が過ぎていくだけだ。けれど、この職場には良い人がたくさんいる。相手を気遣うことができる仲間がいる場所を、失いたくない。
「なんでもないです」
笑顔を作ってみせ、席を立った。きっと、なんでもないようには見えていないだろう。トイレに行き、洗面台の前に立つと、思いのほか顔色が悪い自分の姿が映って驚いた。気を落ち着かせようと額に手の平を当てれば、僅かに汗をかいていた。
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