22 / 53
【淳平編】4話-2
しおりを挟む
鍋がぐつぐつと音を立て始めた。火を弱め、蓋を開けて中の具材を寄せ、そこに豚肉を入れる。風呂場から、父のカウントする声が聞こえてくる。
再びリビングで腰を下ろし、携帯電話を取り出した。昼間に開いたままの電話帳画面が、点灯して映し出される。
何度か通話ボタンを押そうとしたが、思い切れずにいる。
電話をしてどうするというのだ。何の用だと聞かれたら、様子がおかしかったから気になって、と言うのか? それとも、葵が会いたがっているから、とだしに使うのか。土日に会う約束をしていたのだから、その土日になったけど、どう? と都合を伺ってみるか。この大雨でどうも何もない。
朝から繰り返している問答が再び脳内で始まった。さすがに疲れてきた。そんなに悩むことではないだろう、と、もう一人の冷静な自分が言う。日野は僕の携帯番号を知らない。ワンコールをせずに別れてしまったからだ。それならば、こちらから電話をかければいいだけのことだ。
思い切って通話ボタンを押した。液晶画面で番号が点滅するのを見ながら、今じゃなかったかな、と少し後悔した。耳にあて、呼び出し音を聞いていると、しばらくしてその音が止む。
『……はい』
小さな女の声がした。本当に日野だろうか、と疑うほど、弱々しい声だ。
「あの、えっと、日野……さん、ですか?」
なぜか敬語になる。
『はい、そうです。どちら様でしょうか……?』
「篠原だけど」
返事がなく、沈黙が流れた。数秒の後、淳平です、と言い直すと、間髪いれずに
「え!」と大きな声が返ってきた。本物の日野だった。
『淳平くん、ですか……、ああ、そっか、番号教えましたもんね』
「急にごめん」
『いえいえ、うれしいです。まさか、淳平くんから電話をしてもらえるなんて』
そう言う声が、尻すぼみに小さくなる。何だか声に張りがない。いつもの喋り方とは違って、やはり弱々しい感じがする。
「風邪でもひいてるのか?」
『え、いや……あ、ハイ』
「どっちだよ」
『あの、ちょっと、体調を崩していて……。すみません、次の日、公園に行こうと思ってたんですけど』
五日前の次の日から体調を崩しているということは、今日で四日目ということになる。帰り際に様子がおかしかったことを考えると、あの時から既に体調の変化を感じていたのではないか。
「ちょっと長くないか、本当に風邪なのか?」
『あの、えっと、その』
日野は掠れた声で、煮えきらない言葉を放つ。
「熱は? 病院には行った? ていうか、ちゃんとおとなしく寝てるんだろうな」
『なんだか、お母さんみたいです』
僕の心配をよそに、おかしそうに言われた。
「家族は一緒にいるのか?」
『いえ、一人暮らしなので……』
少し言葉が途切れ、慌てて繕うように「でも、ちゃんとしてます、ちゃんと寝てます」と言う。それが逆に、ちゃんと出来ていないことを隠しているように感じる。素直に、じゃあお大事に、と受け入れることができない。
「あのさ、迷惑じゃなかったら、何か買っていくけど」
『は……え、うちに、ですか……?』
一人暮らしの女性の家に行くというのは、たとえ高校生でも非常識な発言だっただろうか。日野のうろたえる様子が目に見えて分かったが、黙って返事を待った。やがて、掠れた返事がかえってくる。
『ありがとうございます……実は、昨日から何も食べていないんです……』
僕は自分の非常識な発言を称えた。
日野の家は、学校の最寄り駅の近くだった。教えてもらった住所を、携帯の地図で検索した。学校や公園のある方角とは反対のようだ。鍋の火を止め、自分の部屋に戻るとコートを羽織る。
財布に金が入っていることを確認していると、風呂場のドアが開け閉めされる音が聞こえてきた。脱衣所のドア越しに出かけることを告げれば、父が驚いて声を上げた。なんで、どうして、という喚き声を無視して玄関に向かい、傘を手にとって素早く家を出た。
外の空気は冷たく、素肌を晒した顔に突き刺さる。雨は衰える様子を全く見せず、盛大な音を立てながら傘に降り注いだ。自分の白い息を見て、マスクを付けれくればよかったと思った。父と葵は大そう楽しそうに帰ってきていたが、寒くは無かったのだろうか。
定期券で改札をくぐり、学校方面の電車に乗る。ドアの近くに立ち、すでに暗くなっている外を眺めた。
そういえば、と携帯を取り出した。放置している鍋のことを伝えなければいけない。肉の灰汁をとって、葉野菜と豆腐を入れてから食べてください。そう打とうとして画面を見れば、父から困惑したメールが大量に届いていた。
再びリビングで腰を下ろし、携帯電話を取り出した。昼間に開いたままの電話帳画面が、点灯して映し出される。
何度か通話ボタンを押そうとしたが、思い切れずにいる。
電話をしてどうするというのだ。何の用だと聞かれたら、様子がおかしかったから気になって、と言うのか? それとも、葵が会いたがっているから、とだしに使うのか。土日に会う約束をしていたのだから、その土日になったけど、どう? と都合を伺ってみるか。この大雨でどうも何もない。
朝から繰り返している問答が再び脳内で始まった。さすがに疲れてきた。そんなに悩むことではないだろう、と、もう一人の冷静な自分が言う。日野は僕の携帯番号を知らない。ワンコールをせずに別れてしまったからだ。それならば、こちらから電話をかければいいだけのことだ。
思い切って通話ボタンを押した。液晶画面で番号が点滅するのを見ながら、今じゃなかったかな、と少し後悔した。耳にあて、呼び出し音を聞いていると、しばらくしてその音が止む。
『……はい』
小さな女の声がした。本当に日野だろうか、と疑うほど、弱々しい声だ。
「あの、えっと、日野……さん、ですか?」
なぜか敬語になる。
『はい、そうです。どちら様でしょうか……?』
「篠原だけど」
返事がなく、沈黙が流れた。数秒の後、淳平です、と言い直すと、間髪いれずに
「え!」と大きな声が返ってきた。本物の日野だった。
『淳平くん、ですか……、ああ、そっか、番号教えましたもんね』
「急にごめん」
『いえいえ、うれしいです。まさか、淳平くんから電話をしてもらえるなんて』
そう言う声が、尻すぼみに小さくなる。何だか声に張りがない。いつもの喋り方とは違って、やはり弱々しい感じがする。
「風邪でもひいてるのか?」
『え、いや……あ、ハイ』
「どっちだよ」
『あの、ちょっと、体調を崩していて……。すみません、次の日、公園に行こうと思ってたんですけど』
五日前の次の日から体調を崩しているということは、今日で四日目ということになる。帰り際に様子がおかしかったことを考えると、あの時から既に体調の変化を感じていたのではないか。
「ちょっと長くないか、本当に風邪なのか?」
『あの、えっと、その』
日野は掠れた声で、煮えきらない言葉を放つ。
「熱は? 病院には行った? ていうか、ちゃんとおとなしく寝てるんだろうな」
『なんだか、お母さんみたいです』
僕の心配をよそに、おかしそうに言われた。
「家族は一緒にいるのか?」
『いえ、一人暮らしなので……』
少し言葉が途切れ、慌てて繕うように「でも、ちゃんとしてます、ちゃんと寝てます」と言う。それが逆に、ちゃんと出来ていないことを隠しているように感じる。素直に、じゃあお大事に、と受け入れることができない。
「あのさ、迷惑じゃなかったら、何か買っていくけど」
『は……え、うちに、ですか……?』
一人暮らしの女性の家に行くというのは、たとえ高校生でも非常識な発言だっただろうか。日野のうろたえる様子が目に見えて分かったが、黙って返事を待った。やがて、掠れた返事がかえってくる。
『ありがとうございます……実は、昨日から何も食べていないんです……』
僕は自分の非常識な発言を称えた。
日野の家は、学校の最寄り駅の近くだった。教えてもらった住所を、携帯の地図で検索した。学校や公園のある方角とは反対のようだ。鍋の火を止め、自分の部屋に戻るとコートを羽織る。
財布に金が入っていることを確認していると、風呂場のドアが開け閉めされる音が聞こえてきた。脱衣所のドア越しに出かけることを告げれば、父が驚いて声を上げた。なんで、どうして、という喚き声を無視して玄関に向かい、傘を手にとって素早く家を出た。
外の空気は冷たく、素肌を晒した顔に突き刺さる。雨は衰える様子を全く見せず、盛大な音を立てながら傘に降り注いだ。自分の白い息を見て、マスクを付けれくればよかったと思った。父と葵は大そう楽しそうに帰ってきていたが、寒くは無かったのだろうか。
定期券で改札をくぐり、学校方面の電車に乗る。ドアの近くに立ち、すでに暗くなっている外を眺めた。
そういえば、と携帯を取り出した。放置している鍋のことを伝えなければいけない。肉の灰汁をとって、葉野菜と豆腐を入れてから食べてください。そう打とうとして画面を見れば、父から困惑したメールが大量に届いていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ハチミツ色の絵の具に溺れたい
桃本もも
青春
大学生になったばかりの梅若佐保には、ひとつだけ悔やんでも悔やみきれないことがあった。
高校で唯一仲良くしていた美術部の後輩、茜谷まほろが事故に遭うきっかけを作ってしまったことだ。
まほろは一命を取りとめたものの、意識不明がつづいている。
まほろがいない、無味乾燥な日々。
そんな佐保のもとに、入院しているはずのまほろが現れる。
「あたし、やりたいことがあって、先輩のところに来たんです」
意識だけの存在になったまほろとの、不思議なふたり暮らしがはじまる――
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
僕《わたし》は誰でしょう
紫音みけ🐾新刊2月中旬発売!
青春
※第7回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
交通事故の後遺症で記憶喪失になってしまった女子高生・比良坂すずは、自分が女であることに違和感を抱く。
「自分はもともと男ではなかったか?」
事故後から男性寄りの思考になり、周囲とのギャップに悩む彼女は、次第に身に覚えのないはずの記憶を思い出し始める。まるで別人のものとしか思えないその記憶は、一体どこから来たのだろうか。
見知らぬ思い出をめぐる青春SF。
※表紙イラスト=ミカスケ様
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる