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沙羅柁と鶴さん

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河原町通りの人並みを自転車で縫うように走っていく。

自転車は押してください、のアナウンスも今日の私には聞こえない。

もうすぐ日が暮れる。できればあやつとの初のご対面は明るいうちに済ませたい。電球の淡い灯りの下で小首を傾げたりされた日にはもう二度とあそこには足を踏み入れられない。

(考えすぎやん、誰かが虫干しにでも置いてくれたんやろ)

ラインに踊るの姉の文字は私にはなぜか楽しそうに見えた。
姉の沙南無は私とは違って理屈に合わないものを怖がることはない。
説明のつかない霊現象や科学的根拠のないお化けの類いは鼻で笑う。
何でも数式に仕立て答えを出そうとする典型的な理系女の姉。
研究者志望であのIPS細胞の山中教授に憧れ京大理Ⅲに入ったものの結婚が決まるとあっさりとその夢を捨て専業主婦に収まった。

夢の確率を計算するのは馬鹿げてる,

それがこの八つ年上の姉の口癖。
そんなことをぼーっと考えていたら目の前の赤の信号を見落とす。通り過ぎてから飛んでくる強烈な連射のクラクションに肩を竦める。

(そんなに鳴らさんでも・・・)

京都人は実は人一倍せっかち。車に乗るとみんな性格が変わってしまうほど。だから夜の京都市バスは恐くて乗れないのは有名だ。
バス停は急ブレーキ急発進だし、堀川通りの160Rは毎回ほぼほぼ強烈なGが背中にかかる。

(京都人ってみんなはんなり生きてるって思われてるけど、ほんまにお門違いやわ)

舞妓ちゃんはこっぽり履いて超速で走ってるし、お坊さんの足はマジェスティやPmaxのビッグスクーターが主流、お寺の鐘の連打はエイトビートを刻んでるみたい。

(あかんあかん、私なにしょうもない事考えてんねんやろ)


気を取り直して目を東の方にやる。もう東山の稜線にはきれいにクオーターに割れた上限の月が顔を出し始めていた。
丸太町通りから寺町通りに入るともうそこは狭い歩道に家路を急ぐ人が溢れていた。
ここは流石に危ないので自転車を降りて押しながら人混みを縫うように早足で歩を進める。店まではもう普通に歩いても三分とはかからない。通りには暮れなずむ空の裾野を彩るようにレトロなオレンジ色の街灯がぼんやりと灯り始めている。

(なんとか陽が沈まへんうちに着けそうや)

額から流れ落ちる汗を手で拭う。北白川からここまで、いつもは30分はゆうにかかるところを20分で来たことになる。

安心したら急にお腹が思い出したようにクゥと鳴った。そう言えば今日はお昼から何も口にしていない。いつもはお決まりの菜月との買い食いもそんなこんながあってできなかった。

もう夕飯時、通りのお店やさんからここそこでいい臭いが漂ってくる。

「さらちゃん、大変やったなぁ」

大きな声で行く手を塞ぐように声をかけたのはおばんざい屋「てまりや」の鶴子おばさん。

ここは私が音羽屋に居座るときはほぼほぼマイダイニングルーム。朝昼晩と私の旺盛な食欲をそのおふくろの味で満たしてくれる。

「鶴さん・・」

「あらあら、こんなにぎょうさん汗かいて、別嬪さんが台無しや」

鶴さんのひんやりとした掌がうなじを濡らした私の汗をそっと拭う。料理の途中なのだろう、その手からは千枚漬けのつんと鼻をつく匂いがした。

「じっちゃんが・・・」

「うん、うん、聞いてる、聞いてる。軽い脳梗塞やろ。発見が早かったから良かったって、ママさん電話で言うてはったえ」

「ママが見つけてくれはったんは近所のひとやって言うてたけど、もしかして鶴さん?」

「いいや、それは私やあらへん。私が気がついたんは救急車が来てからやし」

「ほんなら、連絡してくれたんは誰なんやろ?」

「ここら辺はみんな家族みたいなもんやし。音羽屋が昼まで開いてなかったら、そら、誰なと心配するやろ」

「そうなんかなぁ」

そこんところは私のなかではずっと腑に落ちていなかった。ママへの連絡はショートメール、ここらあたりの商店主はほとんどがおじさんやおばさんが多い、急な連絡をするなら迷わず、面倒なメールより電話を選ぶのが道理のはず。

「あっ、それと旬さん、来てはるみたいやで」

「旬兄さんが?」

「うん、今さっきお惣菜買うて帰らはったん、大好物の生姜の天ぷら」

朱雀旬。私の姉の夫。つまり私のお義兄さん。

「相変わらずええ男ぷりやなぁ、旬さん。色が白おて、しゅっとして、京大の先生言うよりも南座で舞台に立った方がお似合いやわぁ」

鶴さんの頬がぽっと紅を差したように赤らむ。まだ40路を下ったばかりの鶴さんやけど、惚れっぽいところは昔から。けど去年、長年連れ添った旦那さんを病でなくしてひとりもんになってからはまたそれに拍車がかかったような気がする。

「危ない危ない。相変わらずやなぁ鶴さんは。ひとのもんに手出すのは天下一品やから」

「いやー、えらい言われかた。さらちゃんもそないな事言えるようになったんや」

「まぁね、これでも女性としての経験はいちおう終わってるから」

「沙羅陀ちゃん?・・・」

辺りを憚りながら、咎めるように小さな声を絞り出す鶴さん。
人を疑うことなく情け深くてお人よし、性善説を絵に描いたように生きてる私の鶴おばさん。


「ほらぁ、またそうやってすぐ騙されるぅ」

「さらちゃんっ?!」

また後で行くからね、後ろ手で手を振りながら私はひとまず愛すべき隣人に別れを告げる。

「旬さんも一緒にね~~!」


夕暮れの寺町通りに響く、お酒焼けした鶴さんのハスキーボイス。

私にとっては何も変わらない、いつもの姉小路界隈の日常だ。






    
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