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二章 妖屋敷と冷たい結婚生活
3
黒稜が目の下を真っ黒にして生気のない白い顔で自室を出ると、なにやら普段嗅がない懐かしい匂いが漂っていた。
その匂いの元へと歩みを進めると、トントントンと子気味のいい音を立てながら、紫音が台所で野菜を切っていた。
黒稜は眉間に皺を寄せ、紫音に話しかける。
「何をしている?」
しかしその声に反応を示さない紫音に、そうか、彼女は耳が聞こえないのだった、と思い出す。
黒稜は少し躊躇いながらも、とんとん、と紫音の肩を優しく叩いた。
紫音は驚いて勢いよく顔を上げる。
「だ、旦那さまっ、お、おはよう、ございます……」
その声は小さくか細いものだった。
紫音は耳が聞こえない。自分の声も聞こえていないはずだから、音量の調節もうまくできないのだろうと黒稜は思った。
「何をしている?」
黒稜はもう一度紫音に問い掛ける。
紫音は黒稜に怯えたように、ぼそぼそと呟いた。
「あ、朝食の、準備をと思いまして……」
黒稜に向かって恐る恐る言葉を紡ぐ紫音に、黒稜は眉を顰める。
「余計なことはしなくていい。昨日も言ったが、互いに干渉せず、君は君の好きなように過ごせばいい」
「……はい」
黒稜は踵を返し、そのまま台所を出て行く。
一人残された紫音は、困ったように切りかけの野菜を見下ろした。
(ご迷惑に、なってしまった……?)
確かに互いに干渉はしない、とは言われていた。けれど、紫音にとって家事をすることはずっと当たり前にしてきたことで、何もするなと言われると、逆に何をしていいのかわからなくなってしまう。
ひとまず作り始めてしまったものは仕方がないと、紫音は調理を進めた。
(できた……)
いつもと同じように盆に朝食を乗せる。真っ白なご飯に、焼き魚、ほうれん草のお浸しに、豆腐の味噌汁。
黒稜はまた自室に戻ってしまったのか、居間にはいなかった。
(確か、旦那様のお部屋は、ここ、だったはず……)
遅くまで明かりがついていたのは、この部屋だけだった。
紫音は朝食の乗った盆を部屋の前に置くと、小さく声を掛ける。
「旦那様……、朝食です……。ここに、置いておきます……」
勝手なことをして怒られるかもしれない。北条院の家にいた時のように、お味噌汁をひっくり返されたり、ぶたれたりするかもしれない。
怯えながら少しの間そこにいたが、中からはなんの反応もなかった。
紫音はぺこりと頭を下げると、そそくさとその場をあとにした。
今日はやらなくてはいけないことがたくさんある。
少しの朝食をあっという間に平らげた紫音は、布団を干し、各部屋と廊下の掃除を始める。
大きい屋敷であるから、今日一日で掃除するのは難しいだろう。
(また余計なことはするなと、怒られてしまうかしら……)
けれどここに住まわせてもらっている恩義がある。迷惑に思われるかもしれないが、何かせずにはいられなかった。
正午頃になり、紫音はおにぎりを握った。
三つのおにぎりとたくあんを乗せた盆を再度黒稜の部屋へと持ってくると、朝食の盆が廊下に置かれたままだった。
しかし近付いてみると、どの皿も空になっていた。
「…………!!」
(旦那様……、食べてくださったのね)
昨日の黒稜の様子からして、手を付けずにそのまま残されているものと思っていたが、予想外に空になった皿を見て、紫音は嬉しくなった。
「旦那様……、昼食の、ご用意ができました。置いておきます……」
「失礼します」と言って紫音は黒稜の部屋の前をあとにする。音が聞こえない紫音には、中で何か仕事をしているのか、そこに黒稜がいるのかすら、よくわからなかった。
午後も紫音は、屋敷の清掃に精を出した。
しかし、日が傾き始めても、誰かが庭の手入れにやってくることはなかった。
(てっきりあの女性が手入れされているものと思っていたのだけれど……)
藤色の長い髪を持った女性。なんとなくその人が毎日手入れしているのだと思ったが、やはりあれは単なる夢だったのだと、紫音は思った。
そうして慌てて庭の花壇の手入れを始める。雑草を抜き、水をあげ、葉の様子を確認する。
(すごく元気に成長している)
一通り花壇の世話を終えた紫音は、縁側から花々を見つめる。
(こんなに穏やかな時間を過ごすのは、いつぶりだろう……)
暮れ行く夕陽を見つめながら、大きく深呼吸をする。
北条院にいたときには考えられないほどに穏やかな時間だった。
(噂はやはり噂なのね)
黒稜は冷たくはあるが、ただの人であり、紫音を妖の生贄にするような人間ではないように思う。とは言ってもまだ一日目だ。黒稜が何を企んでいるのかは、紫音にはわからない。
(明日この生が終わるとしても、こんなにも綺麗な花々と夕陽を見られて、私はもうきっと思い残すことはないわ)
ぎしっと縁側の床板が軋んだような振動があって、紫音ははっとして顔を上げる。
そこには漆黒の着物を纏った黒稜の姿があった。
(い、いけない! もうこんな時間だわ!)
あまりに綺麗な夕陽に見惚れていたせいで、夕食の支度をすっかり忘れていた。
「だ、旦那様、申し訳ございませんっ……、い、今すぐに夕食のご準備を……っ」
頭を下げる紫音に、黒稜がゆっくりと近付いてくる。
ぶたれる、そう瞬時に思った紫音はぎゅっと両の瞼を瞑る。
しかしその痛みも衝撃もいつまで待ってもやってくることはなかった。
恐る恐る顔を上げると、黒稜はじっと無表情で紫音を見つめていた。
「あ、ええと……」
戸惑う紫音に、黒稜は呟く。
『今朝も言ったが、無理にご飯の支度をしなくてもいい』
「え…………?」
黒稜の低く通った声が、紫音の脳内に響く。
紫音は信じられずに、黒稜を見つめ返してしまう。
しかし黒稜はそれだけ言うと、踵を返しさっさと行ってしまった。
(今のは、旦那様の声……?)
黒稜の口が言葉を紡ぐのと同時に、紫音の脳内に声が聞こえてきた。それは聴力が戻ったかのような、はっきりとした声だった。
紫音は慌てて手を叩いたり、ぱたぱたと着物の袖を振ったりしてみる。
しかしそれらの音は相変わらず紫音の耳に届くことはなく、紫音は目をぱちくりさせた。
(でも確かに今、旦那様の声が聞こえた気が……??)
しかし聴力が戻ったわけではないようだ。紫音は困惑しながらも、夕食の支度をするべく台所へと向かった。
夕食の支度を終え居間にやってくると、そこには黒稜の姿があった。珍しく自室ではなく、居間で新聞に目を通していた。
「……旦那様、夕食の支度ができました……」
紫音が恐る恐る声を掛けると、黒稜は小さくため息をついた。
やはり迷惑だったのかも……、と気を落とす紫音にしかし黒稜はこう言った。
『……いただこう』
その声はやはりはっきりと紫音の耳に届いた。
盆を持ってくる際、台所でまた机を叩いたりしてみたのだが、やはりその音は聞こえなかった。
黒稜の前に夕食を置き、紫音は少し離れて座る。その様子を黒稜は不思議そうに見つめる。
『食べないのか?』
「え……っ」
黒稜が食べ終わったあとにでも一人で食べようと思っていた紫音は、またも耳を通して聞こえるかのような黒稜の言葉に驚きつつ、自分の分のご飯を用意し、また隅の方へと腰を下ろす。
紫音の作った夕食に箸を付けてくれている黒稜を一瞥した紫音は、少し嬉しく思いつつ小さく「いただきます……」と呟いて白米を口にする。
その様子を見ていた黒稜がぶっきらぼうに口を開いた。
『それだけか?』
「え?」
紫音の皿によそわれた少量の夕食を見て、黒稜は眉根を寄せる。
(やはり、また旦那様の声が聞こえた……)
不思議に思いつつも紫音が答えようとすると、黒稜が質問を重ねる。
『小食なのか?』
「あ、いえ、その……」
実家にいるときから残飯のように少ないご飯を食べさせられていた。自身のご飯を少しでも多くよそおうものなら、弥生から蹴飛ばされ両親からは侮蔑の視線を送られる。
紫音が答えられずにいると、黒稜は立ち上がり台所へと向かう。そうして戻って来た黒稜の手には、米櫃が抱えられていた。
米櫃にしゃもじを入れた黒稜は、紫音の茶碗へとこんもりとお米を盛った。
見たこともないご飯の量に目をぱちくりさせる紫音に、黒稜は淡々と言う。
『これくらいは食べろ』
「え、えっと……」
あわあわとする紫音を無視し、黒稜は再び自身の食事へと戻ってしまう。
(こんな量、食べたことない……)
「い、いただきます……」
いつもお腹を満たすことのない食事をしていた紫音はいつからか、何かを食べたいという気持ちすら持たなくなっていた。それゆえ、このように人並みにしっかりとした量を食べるのは、いつぶりのことだっただろうか。
(美味しい……)
温かなご飯は、それだけで紫音の心を満たした。
黒稜はさっさと食べ終えると、部屋を出て行ってしまう。
呼び止めようかとも思ったが、紫音はまだ食事中で行儀が悪いと思いぐっと堪えた。
(旦那様の声、やはりしっかりと聞こえたわ)
紫音が下を向いていたときも、黒稜の声がはっきりと聞こえた。それこそ聴力が回復したかのように。しかしそれに返答する自身の声は聞こえないままだった。
(不思議な、ひと……)
紫音は今だ謎に包まれている黒稜に想いを馳せた。
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