20 / 49
第2幕
第20話 静謐の密会
しおりを挟む
夜のヴェルサイユ宮殿には、日中の華やかさとは異なる重厚な静けさが漂っていた。蝋燭の光だけが回廊の一角を照らし、床に長い影を落としている。
マリー・アントワネットは、侍女すら寄せ付けぬまま、一人でその通路を歩いていた。
向かう先は、宮殿の最奥にある小さな応接室。今では誰も足を踏み入れぬその空間には、代々の王族も知る者の少ない秘密の扉があった。
彼女が静かに扉を開けると、すでに部屋には一人の男が待っていた。
漆黒の外套に身を包み、深紅のワインを一杯、ゆったりと揺らしている。歳を重ねた風貌ながらも、どこか年齢を超越した印象があった。
「……遅くなりました…
サンジェルマン伯爵。」
マリー・アントワネットが頭を下げると、伯爵は穏やかに微笑んだ。
「王妃たるあなたが、わざわざ私などを訪ねてくださる。それだけで、この夜は十分に価値のあるものになります」
その声は低く、どこか音楽のような抑揚を持っていた。
彼女は対面の椅子に静かに腰を下ろす。二人の間には、言葉にはできない時間と理解が流れていた。
「——私の胸に、時折浮かぶのです。言葉では説明できない、記憶ではない何かが」
マリーはふと視線を落としながら語る。
「この世界に生きているという感覚は確かにあるのに……どこか現実味を感じられない。私が誰で、ここにどうしているのか。すべてが曖昧で」
サンジェルマンは、ワインを一口だけ口に含んだあと、静かに言葉を継いだ。
「あなたが“今”という時代に違和感を覚えるのは当然です…本来あなたはこの時代に似つかわしくない人なのですから…」
マリーは目を伏せたまま、小さく頷いた。
「……やはり、私は……」
「過去に遡ったわけでも、夢を見ているのでもない。あなたはここに“在る”。そして、この時代において、最も大きな運命の交差点の中心に立っている」
彼の言葉には、重さと確信があった。
マリーは、少しの沈黙ののち、ふと微笑を浮かべる。
「それでも、私はまだ……何も思い出せていません。自分がなぜこの立場にあるのかも、果たすべき“役目”が何なのかも」
「それで良いのです」
伯爵は静かに言った。
「あなたが“思い出す”その時までは、ただこの立場を演じ続けること。それが、今のあなたにとって最も重要な務めなのです」
「……役を演じる。王妃として」
「いえ、“王妃という仮面の下にある、本来のあなた”の覚醒の時を、私はただ静かに待っているのです」
マリーの指先が、ふと膝の上で震えた。だが彼女は目を上げ、まっすぐにサンジェルマンを見つめた。
「では伯爵……あなたの目的は?」
その問いに、伯爵は少し笑った。まるで、幼子に問い詰められた親のように、優しく、どこか懐かしむような口調だった。
「時の流れに抗い、歴史の節目を正すこと。あるいは、選ばれし者を導くこと。そのどちらでもあり、どちらでもない……」
「曖昧なお答えですね」
「私という存在が、曖昧でできているのです。あなたも、いずれ気づくでしょう」
マリー・アントワネット——否、“彼女”は静かに椅子から立ち上がった。
「……伯爵、次はいつお会いできますか?」
「必要な時には、必ず現れます。私はそういう役割なのです」
マリーは最後に深く頭を下げた。
「ありがとうございます、伯爵。今夜のお言葉、胸に刻みます」
そして、静かに扉を閉じた。
サンジェルマン伯爵は一人残された部屋の中で、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「あなたの目が、真実を見つめるその日まで……私が傍にいましょう」
蝋燭の灯が静かに揺れていた。
——その光が導く先が、希望なのか破滅なのかを、まだ誰も知らなかった。
マリー・アントワネットは、侍女すら寄せ付けぬまま、一人でその通路を歩いていた。
向かう先は、宮殿の最奥にある小さな応接室。今では誰も足を踏み入れぬその空間には、代々の王族も知る者の少ない秘密の扉があった。
彼女が静かに扉を開けると、すでに部屋には一人の男が待っていた。
漆黒の外套に身を包み、深紅のワインを一杯、ゆったりと揺らしている。歳を重ねた風貌ながらも、どこか年齢を超越した印象があった。
「……遅くなりました…
サンジェルマン伯爵。」
マリー・アントワネットが頭を下げると、伯爵は穏やかに微笑んだ。
「王妃たるあなたが、わざわざ私などを訪ねてくださる。それだけで、この夜は十分に価値のあるものになります」
その声は低く、どこか音楽のような抑揚を持っていた。
彼女は対面の椅子に静かに腰を下ろす。二人の間には、言葉にはできない時間と理解が流れていた。
「——私の胸に、時折浮かぶのです。言葉では説明できない、記憶ではない何かが」
マリーはふと視線を落としながら語る。
「この世界に生きているという感覚は確かにあるのに……どこか現実味を感じられない。私が誰で、ここにどうしているのか。すべてが曖昧で」
サンジェルマンは、ワインを一口だけ口に含んだあと、静かに言葉を継いだ。
「あなたが“今”という時代に違和感を覚えるのは当然です…本来あなたはこの時代に似つかわしくない人なのですから…」
マリーは目を伏せたまま、小さく頷いた。
「……やはり、私は……」
「過去に遡ったわけでも、夢を見ているのでもない。あなたはここに“在る”。そして、この時代において、最も大きな運命の交差点の中心に立っている」
彼の言葉には、重さと確信があった。
マリーは、少しの沈黙ののち、ふと微笑を浮かべる。
「それでも、私はまだ……何も思い出せていません。自分がなぜこの立場にあるのかも、果たすべき“役目”が何なのかも」
「それで良いのです」
伯爵は静かに言った。
「あなたが“思い出す”その時までは、ただこの立場を演じ続けること。それが、今のあなたにとって最も重要な務めなのです」
「……役を演じる。王妃として」
「いえ、“王妃という仮面の下にある、本来のあなた”の覚醒の時を、私はただ静かに待っているのです」
マリーの指先が、ふと膝の上で震えた。だが彼女は目を上げ、まっすぐにサンジェルマンを見つめた。
「では伯爵……あなたの目的は?」
その問いに、伯爵は少し笑った。まるで、幼子に問い詰められた親のように、優しく、どこか懐かしむような口調だった。
「時の流れに抗い、歴史の節目を正すこと。あるいは、選ばれし者を導くこと。そのどちらでもあり、どちらでもない……」
「曖昧なお答えですね」
「私という存在が、曖昧でできているのです。あなたも、いずれ気づくでしょう」
マリー・アントワネット——否、“彼女”は静かに椅子から立ち上がった。
「……伯爵、次はいつお会いできますか?」
「必要な時には、必ず現れます。私はそういう役割なのです」
マリーは最後に深く頭を下げた。
「ありがとうございます、伯爵。今夜のお言葉、胸に刻みます」
そして、静かに扉を閉じた。
サンジェルマン伯爵は一人残された部屋の中で、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「あなたの目が、真実を見つめるその日まで……私が傍にいましょう」
蝋燭の灯が静かに揺れていた。
——その光が導く先が、希望なのか破滅なのかを、まだ誰も知らなかった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ソラノカケラ ⦅Shattered Skies⦆
みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始
台湾側は地の利を生かし善戦するも
人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね
たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される
背に腹を変えられなくなった台湾政府は
傭兵を雇うことを決定
世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった
これは、その中の1人
台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと
舞時景都と
台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと
佐世野榛名のコンビによる
台湾開放戦を描いた物語である
※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる