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第5章
第96話 量子視覚が捉えた未完の記憶
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最上段に足をかけた瞬間、空気が変わった。
まるで目に見えない膜に触れたような圧迫感が、肌を通して全身にまとわりつく。音も気配もないのに、“誰かに見られている”ような気配があった。
ただの静寂ではない。何かが、確かにこの場に“潜んでいる”と感じさせる沈黙だった。
リュークは一歩、奥へと踏み込む。
そこは、地図にも記録にも存在しない階層。
塔の構造ですら、この空間を無視しているかのように、周囲の情報がかすれていた。
中央には、黒い影のようなものが漂っていた。
ズゥ……
というような、耳に届かない重圧が、わずかに空間を満たす。
影は形も境界も曖昧で、見るたびにわずかに姿を変えていく。
「……魔力の反応は……ない。でも、ただの空間じゃない」
ルミエルが声を落として警戒する。
「見ているだけで、形が揺れてる……存在が、固定されてないの?」
リュークは静かに量子視覚を起動した。
視界の中に広がる構造解析が、影の輪郭に触れるたびに、わずかに歪んでいく。
まるで、“見る”という行為そのものが、その存在に影響を与えているかのようだった。
「……固定されていないんじゃない。まだ、“形が決まってない”……?」
その言葉と同時に、影が“腕のような何か”を伸ばした。
バキィ……
という、空間が裂けるような音が一瞬響く。
だが、その形はすぐに崩れ、別の形に変わる。
何かが完成しかけては、また違う形へと崩れていく……その繰り返しだった。
しかも、それは視点の角度ではなく、“見られたという事実”に反応して変化しているようだった。
「……このままじゃ、何をしても当たらない……!」
シャドウファングが影に向かって飛びかかる。
指示は出していない。それでも、彼はリュークのわずかな息の変化を感じ取って動いた。
ガギィッ!
という踏み込みの衝撃音と共に飛び出すが、その身体は霧のようにすり抜け、接触はできなかった。
「……魔獣じゃない。……これ、一体……?」
ルミエルの声に、かすかな震えが混じる。
そのとき、彼女の唇から自然に詩がこぼれた。
──la luz que nunca duerme──
──時を超える、光の残響──
塔が、かすかに震える。
影の奥――その中心から、淡く光が灯った。
それと同時に、揺れていた影の形が一瞬、静止したように見えた。
「その詩……」
リュークが小さく呟く。
「分からない。でも……歌うと、何かが視える気がして……」
ルミエルの目に、淡い“映像”が浮かんだ。
それはノイズ混じりの断片だった。
ズズ……
と視界の奥が揺れ、石造りの部屋、操作盤、そして一人の少年の背中が映し出される。
「……誰にも視られていないなら……記録ごと……」
「存在しなければ……忘れられる……」
その少年は、リュークにどこか似ていた。
けれど、顔も声もあいまいで、映像はすぐに歪んで途切れた。
ギギ……ッ
と耳の奥をこするようなノイズが残る。
「……俺……だったのか……?」
リュークの声がわずかに震える。
記憶にはない。けれど、他人とは思えなかった。
シャドウファングが低く唸る。指示を出さずとも、彼はリュークの隣に静かに歩み寄り、影へと身構えた。
その動きに合わせるように、床がギリ……と音を立てる。
あの影――
それは、過去の“記憶”と深く関わっている。
ただし、それはきちんと残された記録ではない。
見かけただけで途切れ、置き去りにされた、不完全な何か。
「……まだ終わってない。これは……何かの続きだ」
はっきりとは言葉にできなかったが、胸の奥に残るざらつきがそう囁いていた。
ドクン……
と空間が心臓のように一度だけ脈打つ。
――それは、誰にも記されず、存在すら不確かな“記憶の影”。
そして今まさに、“視られたことで”揺れていた。
リュークの量子視覚が、さらに深く――目の前の影の“内側”へと潜っていく。
その視界に映ったのは、無数の細かな情報が絡み合うように浮かぶ、不安定な網のような構造だった。
細く、かすかな線が、何かの形をつくろうとして揺れている。
だが、それはまだ名前を持たない。
“存在しようとしているだけ”の、あいまいな情報のかたまりだった。
形も性質も定まっていない。
ただ、リュークの視線に反応するように、わずかに揺れながら漂っている。
「……もっと視る。こいつを……最後まで」
リュークは目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
量子視覚の出力を限界まで引き上げ、さらに深い層へと意識を沈めていく。
視界の奥、何層にも重なっていた情報が、皮を剥ぐように次々と開かれていく。
その奥へ――視線が、意識が届いていく。
耳の奥で、キィィ……と金属を爪でひっかいたような高音が走る。
同時に、影の奥で何かが軋む音――ズズ……ッと、硬質な質量が圧し寄せてくる感覚。
空間のどこかが歪み、熱を帯びたような空気が肌を刺す。
シャドウファングが一歩前に出ようとしたが、リュークは声を出さずに小さく首を振った。
それを合図に、影狼は足を止め、喉の奥で低く唸る。
牙を見せるでもなく、ただ“見張るように”その場に踏みとどまっていた。
同じころ、ルミエルの唇が、自然と旋律を紡ぎ始めていた。
──la luz que nunca duerme──
──時を超える、光の残響──
──彷徨いし声よ、いま還れ──
静かな詩が、塔の奥深くまで響き渡る。
その声に応じるかのように、空間全体がかすかに震えた。
ギリ……ッ
と床が鳴る。塔の天井がわずかに揺れ、石の隙間から微細な粒子が舞い落ちる。
影の中心に広がっていた情報の網が、ふとしたきっかけのように、光へと引き寄せられていく。
リュークの視界には、いままで混ざり合っていた無数の線が、少しずつひとつの“軸”に沿って揃い始めているのが見えた。
渦を巻くように絡んでいた情報が、詩の旋律に引かれるように、まっすぐな流れへと形を整えていく。
「……この詩、導いてる……何かを……」
リュークがそう呟くと同時に、塔の床に淡い光が走る。
床石の隙間から、じわりと青白い光が滲み出すように文様が現れ、幾何学模様を描きながら静かに広がっていった。
その中心に、ゆらいでいた影の輪郭がゆっくりと形を持ち始める。
――人の姿。
少年のような背格好。けれど顔は曖昧で、誰とも断定できない。
ただ、どこかで見たことがあるような既視感だけが、胸の奥をわずかにざわつかせる。
影が、ようやく“ひとつの姿”として定まり始めていた。
敵はただその場に立ち尽くし、動かない。
攻撃の構えも、言葉もない。ただ静かに、ルミエルの詩に耳を傾けているようだった。
塔の壁面が低く軋み、カン……という金属音のような振動が石の構造を伝って響く。
同時に、壁面に灯った光の模様が、ゆっくりと変化していく。
まるで、“記録”が上書きされていくかのように――
影の身体にも、細く淡い光の線が走った。
それは模様とも、記号ともつかず、どこか人工的な痕跡に似ていた。
皮膚の上に、否、情報の層に刻まれていくかのように、静かに明滅する。
それが、“この存在が何かに記された”痕であることを、誰にでもなく告げていた。
影狼は本能的な警戒を解いてはいなかったが、リュークの意図を感じ取ってぴたりと静止した。
そして、リュークは小さく呟いた。
「……ようやく、“姿”を持ったのか……」
答えはない。
だが、確かに何かが変わった。
この場にあった不確かな“何か”が、ほんの一歩、現実の枠に踏み込んできた。
何かが、ここで“受け入れられた”。
その確かな気配だけが、この沈黙に満ちた空間に、意味を残していた。
次回:封印の祠に続く光
予告:新たな因果が呼び覚まされ、リュークたちを再び祠へと導いていく。
まるで目に見えない膜に触れたような圧迫感が、肌を通して全身にまとわりつく。音も気配もないのに、“誰かに見られている”ような気配があった。
ただの静寂ではない。何かが、確かにこの場に“潜んでいる”と感じさせる沈黙だった。
リュークは一歩、奥へと踏み込む。
そこは、地図にも記録にも存在しない階層。
塔の構造ですら、この空間を無視しているかのように、周囲の情報がかすれていた。
中央には、黒い影のようなものが漂っていた。
ズゥ……
というような、耳に届かない重圧が、わずかに空間を満たす。
影は形も境界も曖昧で、見るたびにわずかに姿を変えていく。
「……魔力の反応は……ない。でも、ただの空間じゃない」
ルミエルが声を落として警戒する。
「見ているだけで、形が揺れてる……存在が、固定されてないの?」
リュークは静かに量子視覚を起動した。
視界の中に広がる構造解析が、影の輪郭に触れるたびに、わずかに歪んでいく。
まるで、“見る”という行為そのものが、その存在に影響を与えているかのようだった。
「……固定されていないんじゃない。まだ、“形が決まってない”……?」
その言葉と同時に、影が“腕のような何か”を伸ばした。
バキィ……
という、空間が裂けるような音が一瞬響く。
だが、その形はすぐに崩れ、別の形に変わる。
何かが完成しかけては、また違う形へと崩れていく……その繰り返しだった。
しかも、それは視点の角度ではなく、“見られたという事実”に反応して変化しているようだった。
「……このままじゃ、何をしても当たらない……!」
シャドウファングが影に向かって飛びかかる。
指示は出していない。それでも、彼はリュークのわずかな息の変化を感じ取って動いた。
ガギィッ!
という踏み込みの衝撃音と共に飛び出すが、その身体は霧のようにすり抜け、接触はできなかった。
「……魔獣じゃない。……これ、一体……?」
ルミエルの声に、かすかな震えが混じる。
そのとき、彼女の唇から自然に詩がこぼれた。
──la luz que nunca duerme──
──時を超える、光の残響──
塔が、かすかに震える。
影の奥――その中心から、淡く光が灯った。
それと同時に、揺れていた影の形が一瞬、静止したように見えた。
「その詩……」
リュークが小さく呟く。
「分からない。でも……歌うと、何かが視える気がして……」
ルミエルの目に、淡い“映像”が浮かんだ。
それはノイズ混じりの断片だった。
ズズ……
と視界の奥が揺れ、石造りの部屋、操作盤、そして一人の少年の背中が映し出される。
「……誰にも視られていないなら……記録ごと……」
「存在しなければ……忘れられる……」
その少年は、リュークにどこか似ていた。
けれど、顔も声もあいまいで、映像はすぐに歪んで途切れた。
ギギ……ッ
と耳の奥をこするようなノイズが残る。
「……俺……だったのか……?」
リュークの声がわずかに震える。
記憶にはない。けれど、他人とは思えなかった。
シャドウファングが低く唸る。指示を出さずとも、彼はリュークの隣に静かに歩み寄り、影へと身構えた。
その動きに合わせるように、床がギリ……と音を立てる。
あの影――
それは、過去の“記憶”と深く関わっている。
ただし、それはきちんと残された記録ではない。
見かけただけで途切れ、置き去りにされた、不完全な何か。
「……まだ終わってない。これは……何かの続きだ」
はっきりとは言葉にできなかったが、胸の奥に残るざらつきがそう囁いていた。
ドクン……
と空間が心臓のように一度だけ脈打つ。
――それは、誰にも記されず、存在すら不確かな“記憶の影”。
そして今まさに、“視られたことで”揺れていた。
リュークの量子視覚が、さらに深く――目の前の影の“内側”へと潜っていく。
その視界に映ったのは、無数の細かな情報が絡み合うように浮かぶ、不安定な網のような構造だった。
細く、かすかな線が、何かの形をつくろうとして揺れている。
だが、それはまだ名前を持たない。
“存在しようとしているだけ”の、あいまいな情報のかたまりだった。
形も性質も定まっていない。
ただ、リュークの視線に反応するように、わずかに揺れながら漂っている。
「……もっと視る。こいつを……最後まで」
リュークは目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
量子視覚の出力を限界まで引き上げ、さらに深い層へと意識を沈めていく。
視界の奥、何層にも重なっていた情報が、皮を剥ぐように次々と開かれていく。
その奥へ――視線が、意識が届いていく。
耳の奥で、キィィ……と金属を爪でひっかいたような高音が走る。
同時に、影の奥で何かが軋む音――ズズ……ッと、硬質な質量が圧し寄せてくる感覚。
空間のどこかが歪み、熱を帯びたような空気が肌を刺す。
シャドウファングが一歩前に出ようとしたが、リュークは声を出さずに小さく首を振った。
それを合図に、影狼は足を止め、喉の奥で低く唸る。
牙を見せるでもなく、ただ“見張るように”その場に踏みとどまっていた。
同じころ、ルミエルの唇が、自然と旋律を紡ぎ始めていた。
──la luz que nunca duerme──
──時を超える、光の残響──
──彷徨いし声よ、いま還れ──
静かな詩が、塔の奥深くまで響き渡る。
その声に応じるかのように、空間全体がかすかに震えた。
ギリ……ッ
と床が鳴る。塔の天井がわずかに揺れ、石の隙間から微細な粒子が舞い落ちる。
影の中心に広がっていた情報の網が、ふとしたきっかけのように、光へと引き寄せられていく。
リュークの視界には、いままで混ざり合っていた無数の線が、少しずつひとつの“軸”に沿って揃い始めているのが見えた。
渦を巻くように絡んでいた情報が、詩の旋律に引かれるように、まっすぐな流れへと形を整えていく。
「……この詩、導いてる……何かを……」
リュークがそう呟くと同時に、塔の床に淡い光が走る。
床石の隙間から、じわりと青白い光が滲み出すように文様が現れ、幾何学模様を描きながら静かに広がっていった。
その中心に、ゆらいでいた影の輪郭がゆっくりと形を持ち始める。
――人の姿。
少年のような背格好。けれど顔は曖昧で、誰とも断定できない。
ただ、どこかで見たことがあるような既視感だけが、胸の奥をわずかにざわつかせる。
影が、ようやく“ひとつの姿”として定まり始めていた。
敵はただその場に立ち尽くし、動かない。
攻撃の構えも、言葉もない。ただ静かに、ルミエルの詩に耳を傾けているようだった。
塔の壁面が低く軋み、カン……という金属音のような振動が石の構造を伝って響く。
同時に、壁面に灯った光の模様が、ゆっくりと変化していく。
まるで、“記録”が上書きされていくかのように――
影の身体にも、細く淡い光の線が走った。
それは模様とも、記号ともつかず、どこか人工的な痕跡に似ていた。
皮膚の上に、否、情報の層に刻まれていくかのように、静かに明滅する。
それが、“この存在が何かに記された”痕であることを、誰にでもなく告げていた。
影狼は本能的な警戒を解いてはいなかったが、リュークの意図を感じ取ってぴたりと静止した。
そして、リュークは小さく呟いた。
「……ようやく、“姿”を持ったのか……」
答えはない。
だが、確かに何かが変わった。
この場にあった不確かな“何か”が、ほんの一歩、現実の枠に踏み込んできた。
何かが、ここで“受け入れられた”。
その確かな気配だけが、この沈黙に満ちた空間に、意味を残していた。
次回:封印の祠に続く光
予告:新たな因果が呼び覚まされ、リュークたちを再び祠へと導いていく。
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