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[1] 世界は、成立している事柄の総体である。
[1.2] アトマの証言
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少し白髪の混じった漆黒のトイプードルであるアトマは、ママ宣言をした瑠衣の居心地の良い腕の中でウトウトとし始めていた。
狂気と死臭が支配するこの密室の中で、そこだけが平和な親子のような空間を形成している。
「……津阿羅くん。この別荘が建てられたのは、確か15年前だったな。そして君たちが、子犬だったアトマを迎え入れたのも同じ時期だ」
そう、この老犬は館の落成記念にと、今は亡き彼らの祖父が購入したものだった。
「そして彼こそが今回の『10年間の空白』の真実を雄弁に語っているんだよ」
「どういう事です?安住警部」
私の話に耳を傾ける津阿羅くん。
少し前の私の推理が腑に落ちたのか、毒気を抜かれて真摯に話を聞こうという態度が見て取れる。
「知っての通り、アトマはニーチェに懐かなかった。ある時期まで」
そう、双子の父で今回遺体となった贄知は大の犬好きだったが逆にアトマは彼を避けていた。
犬というのは、あまり大袈裟に構われるのを嫌う。
だというのにその点が不器用なニーチェは大袈裟に近付いたり大声をあげたりと、私が犬の立場でも勘弁してくれという態度を見せていたのだ。
「それが、あの事件を境にニーチェに懐くようになった」
「……お言葉ですが、アトマの目が見えなくなったのも同じくらいの時期です」
津阿羅くんが私の発言にやんわり反論する。
「見えなくなった事で、警戒しなくなったと考えるべきでは?」
確かに、辻褄は合うように思えるが。
「いいやダメだね、犬の鋭い嗅覚を忘れてるよ津阿羅くん」
目は口ほどに物を言う、という言葉があるが、犬にとっては、視覚情報より『嗅覚』の方が、よほど雄弁に世界を語る。
「そうだね、ユミ」
「ええ、お父さんの言う通りよ」
ここは博学な娘に解説役を譲ろう。
「犬の嗅覚は、人間の100万倍から1億倍と言われているわ。
でも、ただ匂いに敏感なだけじゃない。彼らは人間の汗や呼気に混じる感情の化学物質すら、はっきりと嗅ぎ分けるのよ。特に九条君」
「お、オレ?」
「あんたが撒き散らしてる極限の怒りなんて、この子にとっては最悪の悪臭よ。
目が見えないアトマにとっては、針の山にいるのと同じなんだから。
少しは、そこの脳みそお花畑を見習うべきね」
「……ぐぬぬ」
「???」
ぐうの音も出ない津阿羅くんと、よく分かってなくて和やかな笑みを湛える脳みそお花畑のプードルママ(自称)がそこにいた。
なかなか面白い構図になっているが。
「えーー……コホン。話を戻そう」
しかし喜んでいる暇はない。わざとらしく咳払いをして、私は空気を引き締めた。
「本物のニーチェは、犬との接し方が分からず常に緊張の汗……おかしなホルモンを流していた。だからアトマは警戒して吠えていたんだ」
「じゃあ、10年前から我々を相手してたのって……」
「うん。そこなんだ、ユミ。
それはニーチェ以外にアトマと仲の良い相手か、あるいは冷たい無機質な『家具』だったという事さ」
例えば犬に吠えられようが全く動じない。犬からすれば、そいつからは人間の感情の匂いが全くしないことだろう。
「家具……だから、警戒を解いたと?」
「ああ津阿羅くん、君の弟が言っていた『空っぽ』という言葉も、これで辻褄が合う」
そしてここまでの話を総合すると恐ろしい仮説が立ってしまうのだ。
「つまり、だ。
我々は昨日まで君の父親、あるいは私の親友の『偽物』と一緒にいた。そして何かの目的で本物のこの死体を、ここに運び込んだ」
そうとしか考えられない。
何故死体を今更用意したのか、そもそも偽物とやらは今どこにいるのか
そんなおかしなことだらけの推理ではあるが。
「━━素晴らしい、実に素晴らしい推理ですわ安住様」
そんな女性の声に振り返ると部屋の入り口には、ついさっき現場への立ち入りを津阿羅くんから禁じられたはずのメイドと、車椅子の九条母が立っていたのだった。
━━ Ehrliches Gesicht des Hundes.
”偽りなき犬の瞳“
ショーペンハウアーの『余録と補遺』より
狂気と死臭が支配するこの密室の中で、そこだけが平和な親子のような空間を形成している。
「……津阿羅くん。この別荘が建てられたのは、確か15年前だったな。そして君たちが、子犬だったアトマを迎え入れたのも同じ時期だ」
そう、この老犬は館の落成記念にと、今は亡き彼らの祖父が購入したものだった。
「そして彼こそが今回の『10年間の空白』の真実を雄弁に語っているんだよ」
「どういう事です?安住警部」
私の話に耳を傾ける津阿羅くん。
少し前の私の推理が腑に落ちたのか、毒気を抜かれて真摯に話を聞こうという態度が見て取れる。
「知っての通り、アトマはニーチェに懐かなかった。ある時期まで」
そう、双子の父で今回遺体となった贄知は大の犬好きだったが逆にアトマは彼を避けていた。
犬というのは、あまり大袈裟に構われるのを嫌う。
だというのにその点が不器用なニーチェは大袈裟に近付いたり大声をあげたりと、私が犬の立場でも勘弁してくれという態度を見せていたのだ。
「それが、あの事件を境にニーチェに懐くようになった」
「……お言葉ですが、アトマの目が見えなくなったのも同じくらいの時期です」
津阿羅くんが私の発言にやんわり反論する。
「見えなくなった事で、警戒しなくなったと考えるべきでは?」
確かに、辻褄は合うように思えるが。
「いいやダメだね、犬の鋭い嗅覚を忘れてるよ津阿羅くん」
目は口ほどに物を言う、という言葉があるが、犬にとっては、視覚情報より『嗅覚』の方が、よほど雄弁に世界を語る。
「そうだね、ユミ」
「ええ、お父さんの言う通りよ」
ここは博学な娘に解説役を譲ろう。
「犬の嗅覚は、人間の100万倍から1億倍と言われているわ。
でも、ただ匂いに敏感なだけじゃない。彼らは人間の汗や呼気に混じる感情の化学物質すら、はっきりと嗅ぎ分けるのよ。特に九条君」
「お、オレ?」
「あんたが撒き散らしてる極限の怒りなんて、この子にとっては最悪の悪臭よ。
目が見えないアトマにとっては、針の山にいるのと同じなんだから。
少しは、そこの脳みそお花畑を見習うべきね」
「……ぐぬぬ」
「???」
ぐうの音も出ない津阿羅くんと、よく分かってなくて和やかな笑みを湛える脳みそお花畑のプードルママ(自称)がそこにいた。
なかなか面白い構図になっているが。
「えーー……コホン。話を戻そう」
しかし喜んでいる暇はない。わざとらしく咳払いをして、私は空気を引き締めた。
「本物のニーチェは、犬との接し方が分からず常に緊張の汗……おかしなホルモンを流していた。だからアトマは警戒して吠えていたんだ」
「じゃあ、10年前から我々を相手してたのって……」
「うん。そこなんだ、ユミ。
それはニーチェ以外にアトマと仲の良い相手か、あるいは冷たい無機質な『家具』だったという事さ」
例えば犬に吠えられようが全く動じない。犬からすれば、そいつからは人間の感情の匂いが全くしないことだろう。
「家具……だから、警戒を解いたと?」
「ああ津阿羅くん、君の弟が言っていた『空っぽ』という言葉も、これで辻褄が合う」
そしてここまでの話を総合すると恐ろしい仮説が立ってしまうのだ。
「つまり、だ。
我々は昨日まで君の父親、あるいは私の親友の『偽物』と一緒にいた。そして何かの目的で本物のこの死体を、ここに運び込んだ」
そうとしか考えられない。
何故死体を今更用意したのか、そもそも偽物とやらは今どこにいるのか
そんなおかしなことだらけの推理ではあるが。
「━━素晴らしい、実に素晴らしい推理ですわ安住様」
そんな女性の声に振り返ると部屋の入り口には、ついさっき現場への立ち入りを津阿羅くんから禁じられたはずのメイドと、車椅子の九条母が立っていたのだった。
━━ Ehrliches Gesicht des Hundes.
”偽りなき犬の瞳“
ショーペンハウアーの『余録と補遺』より
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