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六廻目 罪の記憶
第116話 希死念慮
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――それから数週間後、年の瀬も迫った寒い冬の日。浮足立った人々を背に、俺は幼少の頃から歩き慣れた道をトボトボと、ただひたすらに彷徨い歩いていた。
死に場所と時間と方法のすべてを決め、ようやく死を少し遠ざけることができたのだが、そのいつかの為の方法ですら視覚に頼ったものだと気付いた時、俺は正しく絶望した。
希死念慮というものに、本能的に求める突発的なものと理性的に求める計画的なものがあるのなら、これはきっと後者なのだろう。
杖を突いた老人が隣を追い抜いていくが、俺の目にはコンクリートで舗装された道しか目には入らない。これまで唯一の心の支えであり生きる希望でもあった、親友の――いや、弟のサネが旅立った。
もはやこの世界に思い残すことは何も無い。にも関わらず、俺は死を遠ざけるために死を求めて歩いていた。マンションを見つければ視線を動かし階数を数え、川を見れば河床に身の丈が収まるかどうかを確認し、木々を見れば、五〇キロばかりの苦痛を支えてくれる枝であるかの確認をする。
車道を忙しなく行き来する鉄の塊から目を逸らすと、車道に書かれた〝止まれ〟の文字が目に入った。
――どちらでもいい。止まるにしても、進むにしても。今のどちらともいえない仮死状態よりかは遥かにマシだろう。
「…………はぁ…………」
何度目かも分からない白い息を深く吐き出す。灰色の心の奥底に居座る、時間では解決できない色褪せぬ絶望と共に。
熱を失った耳朶を指先で温めながら、行き先も決めないまま再び歩き出す。見知った道を往くのは、心の中でまだ過去に対する執着があったからか。
そうして歩いていると、前方から見慣れた橋が見えてきた。子供の頃に何度も渡った、川に架かる一〇メートルほどしかない短い橋。いつものように渡ろうとした時、視界の端に何かが映る。
――見えたのは小さな公園。いや、公園と言っていいのか疑問に感じるほど小さい。遊具はブランコと滑り台しかなく、余った土地の一画といった方がしっくりくる、そんな空間だった。
俺はそのまま何かに誘われるようその公園の敷居を跨ぎ、すぐ隣を流れる静かな川を無心で眺める。ちょろちょろと流れる川の音と、風に撫でられた裸木の音が心を落ち着かせてくれていた。
年の瀬だからか辺りには誰もいない。だからか、まるでこの世界にただ独り取り残されてしまったかのように錯覚する。
――その時、川に生えた丈のある草の間から一羽の白鳥が現れた。独りだと思っていた世界に唐突に現れた白鳥に心を奪われた俺は、この白鳥は一体何を思い行動しているのか。その一挙手一投足を見逃すまいと、滑空し、草の間を移動する度、その行方を必死に目で追う。
もしかしたら、この鳥こそが俺を救ってくれる存在なのかもしれない。心を預けるに足る存在なのではないかと、知らず知らずの内に期待し、何かを得ようと必死に見守った。
そうして白鳥を追って一歩を踏み出そうとしたその瞬間。ふと何の脈略も無く、まるで何か――そう、例えば世界の意思そのものに〝見よ〟と命じられたかのように、俺は地面に目を遣る。
すると、そこには一匹のバッタがいた。偶然足元を見たからよかったものの、気付かなければ踏み潰してしまっていたであろう小さな存在。
だが、隣にしゃがみ込んでも微動だに反応しない。記憶にある軽快に飛び回る姿とは似ても似つかない様子に、恐る恐る指先でバッタの後ろ脚に触れてみる。
あの尋常でない脚力でもってして、すぐに視界から消え失せると思っていた俺の思惑は見事に外れ、バッタは緩慢な動作で前足を僅かに動かすだけ。能を思わせるその所作を前に、漠然とこのバッタはもうすぐ死んでしまうのだろうと理解した。
草木も生えない場所で、ただじっとその時が来るのを待っている存在に、俺は彼こそがこの世界における唯一の理解者なのだと確信した。
そうして彼の姿を目に焼き付けてから、再び恐る恐る彼の後ろ脚に触れる。
……だが、やはり先ほどと同じように気怠げに前脚を動かすだけ。まだそこに生命があることを喜びつつ、このまま彼が息絶えるのを待っているつもりかと自身に問いかけた瞬間、自然とその場で立ち上がっていた。
……ただ、それでも俺の足は一向に動く気配がない。
どうしてこんなにも心が縛られるのか、その答えはすでに出ていた。俺は彼に自然と自分の一生を重ねていたのだ。孤独に死を待つだけの、不幸にも未だ生命を宿した存在。だからだろう、このまま見捨てて立ち去ることはどうしてもできなかった。
もう一度彼の傍に腰を下ろし、やがて思い至る。たとえあと数分の命だとしても、彼には草木のある場所で、生命の温もりを感じながら死んでほしいと。
そっと、彼と彼が身を任せていた大地との間に小指をすり込ませる。彼がこの指を掴んだのなら移動させよう。掴まなければそれでいい。どちらを選んだとしても、それが彼の人生なのだとこれで納得することが出来る、と。
だが、俺の予想に反して彼はすぐに行動を開始した。それまで緩慢な動きをするばかりだった前脚だけでなく、他の四本の脚も動かして俺の指に縋り付いてきた。その姿に〝蜘蛛の糸〟が脳裏を過ったが、よじ登ってくる脚に昆虫特有の力強さを感じ取ることはできず、六本の脚をもってしても、指の上に這い登ることがようやくといった様子。
掌の上に乗った彼を急いで草木のある場所まで連れて行った俺は、出来る限り振動を与えないよう細心の注意を払って草の間に降ろした。何か食べないかと近くにあった様々な草や葉を差し出すも、じっと何かを待つように、やはりその場から一歩も動こうとしない。
そのまま数分ほど彼の様子を眺めていたのだが、日が暮れてきたこともあり、結局俺は後ろ髪を引かれる思いでその場を後にすることを決めた。
死に場所と時間と方法のすべてを決め、ようやく死を少し遠ざけることができたのだが、そのいつかの為の方法ですら視覚に頼ったものだと気付いた時、俺は正しく絶望した。
希死念慮というものに、本能的に求める突発的なものと理性的に求める計画的なものがあるのなら、これはきっと後者なのだろう。
杖を突いた老人が隣を追い抜いていくが、俺の目にはコンクリートで舗装された道しか目には入らない。これまで唯一の心の支えであり生きる希望でもあった、親友の――いや、弟のサネが旅立った。
もはやこの世界に思い残すことは何も無い。にも関わらず、俺は死を遠ざけるために死を求めて歩いていた。マンションを見つければ視線を動かし階数を数え、川を見れば河床に身の丈が収まるかどうかを確認し、木々を見れば、五〇キロばかりの苦痛を支えてくれる枝であるかの確認をする。
車道を忙しなく行き来する鉄の塊から目を逸らすと、車道に書かれた〝止まれ〟の文字が目に入った。
――どちらでもいい。止まるにしても、進むにしても。今のどちらともいえない仮死状態よりかは遥かにマシだろう。
「…………はぁ…………」
何度目かも分からない白い息を深く吐き出す。灰色の心の奥底に居座る、時間では解決できない色褪せぬ絶望と共に。
熱を失った耳朶を指先で温めながら、行き先も決めないまま再び歩き出す。見知った道を往くのは、心の中でまだ過去に対する執着があったからか。
そうして歩いていると、前方から見慣れた橋が見えてきた。子供の頃に何度も渡った、川に架かる一〇メートルほどしかない短い橋。いつものように渡ろうとした時、視界の端に何かが映る。
――見えたのは小さな公園。いや、公園と言っていいのか疑問に感じるほど小さい。遊具はブランコと滑り台しかなく、余った土地の一画といった方がしっくりくる、そんな空間だった。
俺はそのまま何かに誘われるようその公園の敷居を跨ぎ、すぐ隣を流れる静かな川を無心で眺める。ちょろちょろと流れる川の音と、風に撫でられた裸木の音が心を落ち着かせてくれていた。
年の瀬だからか辺りには誰もいない。だからか、まるでこの世界にただ独り取り残されてしまったかのように錯覚する。
――その時、川に生えた丈のある草の間から一羽の白鳥が現れた。独りだと思っていた世界に唐突に現れた白鳥に心を奪われた俺は、この白鳥は一体何を思い行動しているのか。その一挙手一投足を見逃すまいと、滑空し、草の間を移動する度、その行方を必死に目で追う。
もしかしたら、この鳥こそが俺を救ってくれる存在なのかもしれない。心を預けるに足る存在なのではないかと、知らず知らずの内に期待し、何かを得ようと必死に見守った。
そうして白鳥を追って一歩を踏み出そうとしたその瞬間。ふと何の脈略も無く、まるで何か――そう、例えば世界の意思そのものに〝見よ〟と命じられたかのように、俺は地面に目を遣る。
すると、そこには一匹のバッタがいた。偶然足元を見たからよかったものの、気付かなければ踏み潰してしまっていたであろう小さな存在。
だが、隣にしゃがみ込んでも微動だに反応しない。記憶にある軽快に飛び回る姿とは似ても似つかない様子に、恐る恐る指先でバッタの後ろ脚に触れてみる。
あの尋常でない脚力でもってして、すぐに視界から消え失せると思っていた俺の思惑は見事に外れ、バッタは緩慢な動作で前足を僅かに動かすだけ。能を思わせるその所作を前に、漠然とこのバッタはもうすぐ死んでしまうのだろうと理解した。
草木も生えない場所で、ただじっとその時が来るのを待っている存在に、俺は彼こそがこの世界における唯一の理解者なのだと確信した。
そうして彼の姿を目に焼き付けてから、再び恐る恐る彼の後ろ脚に触れる。
……だが、やはり先ほどと同じように気怠げに前脚を動かすだけ。まだそこに生命があることを喜びつつ、このまま彼が息絶えるのを待っているつもりかと自身に問いかけた瞬間、自然とその場で立ち上がっていた。
……ただ、それでも俺の足は一向に動く気配がない。
どうしてこんなにも心が縛られるのか、その答えはすでに出ていた。俺は彼に自然と自分の一生を重ねていたのだ。孤独に死を待つだけの、不幸にも未だ生命を宿した存在。だからだろう、このまま見捨てて立ち去ることはどうしてもできなかった。
もう一度彼の傍に腰を下ろし、やがて思い至る。たとえあと数分の命だとしても、彼には草木のある場所で、生命の温もりを感じながら死んでほしいと。
そっと、彼と彼が身を任せていた大地との間に小指をすり込ませる。彼がこの指を掴んだのなら移動させよう。掴まなければそれでいい。どちらを選んだとしても、それが彼の人生なのだとこれで納得することが出来る、と。
だが、俺の予想に反して彼はすぐに行動を開始した。それまで緩慢な動きをするばかりだった前脚だけでなく、他の四本の脚も動かして俺の指に縋り付いてきた。その姿に〝蜘蛛の糸〟が脳裏を過ったが、よじ登ってくる脚に昆虫特有の力強さを感じ取ることはできず、六本の脚をもってしても、指の上に這い登ることがようやくといった様子。
掌の上に乗った彼を急いで草木のある場所まで連れて行った俺は、出来る限り振動を与えないよう細心の注意を払って草の間に降ろした。何か食べないかと近くにあった様々な草や葉を差し出すも、じっと何かを待つように、やはりその場から一歩も動こうとしない。
そのまま数分ほど彼の様子を眺めていたのだが、日が暮れてきたこともあり、結局俺は後ろ髪を引かれる思いでその場を後にすることを決めた。
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