4 / 8
負けないで
しおりを挟むどうして千世子をそばに置いているのか。
独り身でもの寂しかったから? 千世子の容姿に惹かれたから? 境遇に興味を持ったから?
理由なんてたくさんあった。でもそれを詳しく探ることに、俺はずっと二の足を踏んでいる。
「千世子が、いい子だからだよ」
身体を洗う用のスポンジを泡立てながら俺は言った。その答えに、千世子の肩はピクリと反応する。こちらを振り返るように右へと向いた横顔。それと一緒に、千世子は右手を差し出した。
「ひみかんじ」
「ん?」
「からだ、洗う」
「うん」
俺は泡立てたスポンジをその手に置いた。小さな手から溢れんばかりの泡を眺める千世子のまつ毛が、キラキラ光る。
あと何度、こうして彼女の髪を洗えるだろう。
そんなことを考えながら浴室を出れば、数分後には下着を身につけた千世子が脱衣所から出てきた。
「服も着て来いって」
「ひみかんじ、あれ歌って」
「あれって、また? 俺、苦手なんだよな」
「ききたい。歌って」
服を着せ、濡れた髪をタオルで丁寧に拭きながら、遠慮がちに口ずさむ。
その歌は某チャリティ番組で長距離マラソンを必死に走る人に贈られる、応援歌。女性の歌でキーも高いし、正直サビ以外よく分からない。
「へたくそ」
「悪かったな。自分で歌ったら?」
「歌うと、涙出る。とわこが泣く」
「とわこ?」
「とわこが走れ言った。だから走った」
聞けば、とわこはよくこの曲を千世子に歌い聴かせてくれたらしい。千世子はとわこを慕い、懐いていた。
「ひみかんじに出会った日、とわこ泣いてた。血だらけで泣いてた。たぶん千世子が歌を歌ったから、泣いた」
「何で血だらけだったか、わかる?」
「水飲んだら、血を吐いた」
あまり触れたくない。知りたくない。でも、知らなきゃ千世子を護れない。
「とわこは千世子のお姉さん?」
「ちがうよ」
「じゃあ、友達?」
「ちがうよ、商品。千世子、とわこ、ももこ、みんな商品。ゴロウに声をかけられたとわこたち、もう何人もお別れした」
「え、とわこって何人も居るの?」
「いるよ」
商品——とわこ、ももこ、そしてゴロウ。頭の中に羅列する名前に、俺は瞬時に蓋をした。これ以上考えれば、間違いなく俺はその先の真実に辿り着く。
「よし。俺が切る。だから髪、短くしよう」
「ひみかんじ、歌へたくそ」
「歌は関係ないでしょ。手先は器用だから」
ビニールを敷き、カッパを着せて準備をする。
シャクっと刃先が重なるたびに、まだ乾き切ってなかった髪が床のビニールに落ちる。その様子を見たくて千世子が頭を動かすから、俺はその度に顔をまっすぐ直した。
「髪、死んだ」
「死んでないよ」
「殺した」
「人聞き悪いこと言うなって」
その後も千世子は何か言っていたような気がしたが、俺は無心で千世子の髪を切り続けた。
切り落とされる髪が増えるたびに、心の騒めきもゆっくりと静まっていくのを感じて。俺は千世子の髪を整えることに、今ある集中力の全てを注いだのだった。
0
あなたにおすすめの小説
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
真実の愛は水晶の中に
立木
恋愛
学園の卒業を祝うパーティーの最中、レイシア・マレーニ侯爵令嬢は第三王子とピンク髪の女、その取り巻きたちによって断罪されようとしていた。
しかし断罪劇は思わぬ方向へ進んでいく。
※「なろう」にも重複投稿しています。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
~春の国~片足の不自由な王妃様
クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。
春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。
街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。
それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。
しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。
花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
悪女の最後の手紙
新川 さとし
恋愛
王国を揺るがす地震が続く中、王子の隣に立っていたのは、婚約者ではなかった。
人々から「悪女」と呼ばれた、ひとりの少女。
彼女は笑い、奪い、好き勝手に振る舞っているように見えた。
婚約者である令嬢は、ただ黙って、その光景を見つめるしかなかった。
理由も知らされないまま、少しずつ立場を奪われ、周囲の視線と噂に耐えながら。
やがて地震は収まり、王国には安堵が訪れる。
――その直後、一通の手紙が届く。
それは、世界の見え方を、静かに反転させる手紙だった。
悪女と呼ばれた少女が、誰にも知られぬまま選び取った「最後の選択」を描いた物語。
表紙の作成と、文章の校正にAIを利用しています。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
不機嫌な侯爵様に、その献身は届かない
翠月 瑠々奈
恋愛
サルコベリア侯爵夫人は、夫の言動に違和感を覚え始める。
始めは夜会での振る舞いからだった。
それがさらに明らかになっていく。
機嫌が悪ければ、それを周りに隠さず察して動いてもらおうとし、愚痴を言ったら同調してもらおうとするのは、まるで子どものよう。
おまけに自分より格下だと思えば強気に出る。
そんな夫から、とある仕事を押し付けられたところ──?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる