【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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 放課後。
 東伍は今日も部活動に顔を出すのを諦め、紙切れ片手に住宅街を歩いていた。
 仕事が溜まっている。行事の準備や生活指導、カリキュラムの見直しに研修。やるべき事は山ほどあるのに、東伍の身体は意に反して歩みを止められない。
 手元の住所と、電柱に書かれた住所とを見比べながら、一つ一つ表札を確認していく。
 
「……あった。ここだ」
 
【KAWAMURA】と、簡易なシールの貼られた表札。真っ白な壁の一軒家。
 引っ越したてのようで、玄関には折り畳まれた段ボールが紐に括られた状態でいくつも立て掛けられている。
 
(確かめなければ。俺は、前に進めない)
 
 意を決して。東伍はインターホンのボタンへと、人差し指を押しつけた。
 
「はい」
 
 機械から発された声は、男性のもの。
 
「私、淑和学院高校で社会科の教員として働いております、水野と申しまして」
「ああ、はいはい。少しお待ちくださいね」
 
 ぷつり、通信が切れる。それから直ぐに、玄関のドアが開いた。
 黒いエプロンを身につけた丸メガネの男性が、柔和な表情で東伍を見る。
 
「お世話になります、泉の父です。泉がなにか?」
「突然にすみません。先日、泉さんから水泳部に入部したいと打診がありまして。私、顧問を務めているもので、少々確認したいことが。今、泉さんはご在宅でしょうか?」
 
 ここへ辿り着く前に考えた、訪問理由。
 多少無理があるとは思ったが、東伍にはこれくらいしか思いつけなかった。
 
「なるほど。わざわざお越しいただいて悪いんですが、泉は今、夕飯の買い物に」
「そうですか。あの、前の学校でも泉さんは水泳部に?」
「ええ。表彰台にも何度かのってます。足を引っ張るようなことはないと思いますが」
「あ、いやいや。そういった意味では。その、以前はどちらの高校に通って——」
「水野、先生?」
 
 背後からの声に東伍が振り返れば、そこにはスーパーの袋を腕にぶら下げた制服姿の泉がいた。
 
「おかえり泉。水泳部に入るんだって?」
「え? ああ、うん」
 
 答えつつ、泉は横目に東伍を睨む。
 
「お父さん。少しここで先生と話すから、食材冷蔵庫にお願いできるかな」
「構わないが、家に上がってもらったらどうだ? もう日も沈みそうだし」
「ううん。ここでいい。直ぐに済むから」
 
 食い気味に父親の提案を拒否しながら、泉は持っていたスーパーの袋を父親に渡した。
 
「お。今日は鍋か。どうです、先生も一緒に」
「お父さん」
 
 泉が制する。その表情におでこを掻いた父親は、東伍に視線を移すと軽く会釈した。
 
「じゃあ、すみません先生」
「いえ。お気遣いなく」
 
 玄関のドアが閉まる。生ぬるい夕風が頬を掠めると同時に、東伍と泉の間には妙な緊張感が漂っていた。
 
「で。なんの用?」
「陽子、なのか」
「なによそれ。わざわざそれを確認しに来たの? 勘弁してよ、私には時間がないのに」
 
 泉は呆れ顔で玄関のドアに向かう。
 
「用はそれだけ? なら帰って。私、食事の後に行かなきゃならないところがあるの。東伍とおしゃべりしている暇ない」
「待って。違うんだ。きみが陽子だというのなら、彼女……川村泉さんの意識は、一体どこにいってしまったんだろうって」
「どういう意味?」
「陽子と、川村泉さんの中身は、交換されたんじゃないかって思ったんだ」
 
 東伍の疑問はこれだった。
 もしも。川村泉の意識が陽子になっているのだとしたら、本物の川村泉の意識は、陽子の身体に宿っているのではないか。
 そうだった場合、陽子の身体になった川村泉の方もまた、混乱しているのではないか。
 
「陽子の身体をした川村泉さんは、いずれ自宅に戻ると思わないか? つまり、この家に。そうなれば、少しは状況が」
「それはないわ。仮に私の身体に彼女の意識が宿っていても、彼女はこの家には帰ってこられない」
「どうして」
「言わなかった? 私、外に出る前は檻みたいな場所に監禁されていたの。あの場所から、簡単に出ることはできない」
「その場所がどこだか、心当たりがあるのか?」
「それは」
 
 言葉に詰まる。
 
「心当たりはある。でも、簡単に外に出られないことは事実なの。可哀想だけど、もし東伍が言ったように、私と彼女の意識が交換されているのだとしたら。泉さんは今、最悪な気分でしょうね」
「だったら、放っては置けないよ」
「どういう意味?」
「彼女は、川村泉さんはうちの生徒なんだ。俺は教員として、彼女を助ける義務がある」
 
 東伍の真剣な表情に、泉の顔をした陽子は思わず吹き出す。
 
「相変わらずよね。そういう正義感。昔も同じような正義感で、私を助けてくれたことがあったっけ」
「そんなことあったかな」
「あったよ。ほら、高校の焼却炉そばで。千紗子と揉めて私が座り込んでたら、いきなりお姫様抱っこしてさ。……あ。もしかしてこのエピソードも本当は覚えてて、カマかけてるんじゃないでしょうね?」
「ち、違うよ。言われて今思い出した。そんなこともあったなって」
「うん」
「確かあの後、学校辞めちゃったもんな。夏川さん。元気にしてるのかな」
「なに、気になるの?」
「いや別に。陽子も仲良かったよなあって思ってさ」
「ふーん」
「なんだよ」
「……鈍感なとこも、相変わらずだなって」
「はい?」
 
 クツクツ笑うその仕草は、まさに陽子そのもので。東伍はやっと事態が身体に馴染んできたのだと自覚する。
 
「なんでもないわよ。っていうか、もういい加減に信じたわよね。私は陽子。小林陽子よ。ややこしいから、学校以外では陽子って呼んでくれる? それで。協力してくれるってことでいいのよね、おじさん?」
「なんだよ、おじさんって」
「クラスメイトの船井凛子ふないりんこさんにそう説明したんでしょ? 私が東伍の姪だって」
「あ」
「ったく、もう。オプションつけるなら説明くらいしといてよ。あの子テンション高いし、話合わせるの大変だったんだから」
「うん。ごめん」
 
 笑い合う、東伍と陽子。久しぶりの懐かしさに、東伍は心からの安堵を現す。
 
「良かった。陽子が無事で」
「半分無事じゃないけどね」
「まあ……あ、これから行くところがあるって行ってたよね。俺も行くよ」
「でも」
「知りたい。なんでこんなことになったのか。そもそも陽子を誘拐したのは誰で、クリスマスイブの日から今日に至るまでの半年、陽子になにがあったのか。その詳細を、まずは説明してくれないかな。俺、今度こそちゃんと聞くから」
「わかったわ。東伍、ここまでは車で?」
「うん」
「なら行きましょう。話は、移動の車中でする」
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