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小瀬メンタルクリニック。そう看板を掲げた施設は名の通り、精神科を主にした病院のようだった。
分厚いコンクリート壁が特徴の建物は窓も少なく、ところどころにヒビが浮き出ていて、どことなく不気味な空気を纏う。
玄関までの階段を数段上がると左側に傘立てがあり、そこには破れたビニール傘が二本、ボタンの外れた状態で無造作に差してあった。
「明かりも消えてるし、誰もいないみたいだね」
ガラス戸におでこを寄せた東伍が言う。看板や受付カウンター、待合場の革のソファが、月明かりに照らされてぼんやりと輪郭を持っていた。
「今日は火曜、休診日だもの」
陽子はキョロキョロ辺りを見回し、大きめな石を見つけると、両手で持ち上げる。
「え、ちょっと! なにする気?」
「仕方がないじゃない、鍵持ってないんだもの」
「それにしたって、その方法はどうなのかな」
「じゃあ他に何か手があるの? 東伍、すこし下がってて」
「あ」
陽子が振り子のように腕に勢いをつけて、持っていた石をガラス戸に叩きつけようとしたその時。東伍は慌てて陽子の肩を掴んで止めた。
「もう! 今度は何よ!」
「そこ見て。ガラス、割れてる」
驚いた陽子が下を向けば、確かに鍵の摘み周辺のガラスが割れていた。砕けたガラス片が地面に散らばっている。
「え。なんで割れてるの」
「そんなのわかるはずないよ」
「中に誰かいるってこと?」
陽子の言葉に、東伍は再びガラスにおでこを寄せて病院内を見た。外から眺めた限り、人気がある様子はない。
陽子が石を地面に置く間、東伍はさらに思い立ち、締まる戸の隙間に指を掛けて力を入れると——なんと、扉はすんなり開いてしまった。
「……開い、ちゃった」
「嘘。どうするの。なんか武器、あ、そこの傘とか持ってく? ボロいけど」
「無茶言うなよ。もし誰かいるんだとしたら、それは陽子を監禁した犯人だろう? 犯罪者相手にボロ傘一本で対抗なんてできない」
「わかった。私がいく。東伍は車で待ってて」
陽子は傘立てから傘をひとつ引き抜くと、くるくると纏めてボタンを止め、左手に握りしめる。
「落ち着いて。少し冷静に」
「無理。私、グズグズ悩むの嫌いなのよ」
小さく息を吐き、陽子は意を決して一歩を踏み出した。
「……どちらさまです?」
背後からの男の声。東伍と陽子が反射で振り向けば、男は懐中電灯の明かりを二人の顔に照らし当てた。
「何してるんですか。あ!」
男はそのまま戸のガラスに電灯を向け、割れているのを発見すると、慌てて駆け寄る。
「いや、ガラスは元々割れていて。あの、私たちはその」
「警察を呼びます。逃げても無駄ですよ、そこに停まっている車のナンバーはもう控えましたから」
東伍が言い訳を口にするも、男は構わずスマートフォンを鞄から取り出した。
東伍の額に汗が滲む。
このまま警察に通報されてしまえば、今日のことはたちまち学校に知れ渡る。ましてこんな時間に、人気のない場所で、一緒にいるのが自分の学校の生徒だと分かれば、最悪職を辞さなければならない事態だと瞬時に頭が働いた。
どうする。どうする。
スマートフォンに照らされる男の顔面を見つめながら、東伍が唇を噛んだその時。
「いいんですか。警察に連絡して困るのは、あなたの方では?」
陽子の物言いに、スマートフォンを操作する男の手が止まる。
「どういう意味だ」
「去年のクリスマスイブ。駅前のコンビニで起きた事を、近くの防犯カメラが記録しているの。それだけ言えば分かるでしょ」
瞬時に瞳孔を開いた男。その状況を見守りつつ、東伍は陽子の発言の意味を考えた。
(こいつが陽子を誘拐した、犯人……)
見立ては三十代半ば。白髪の混じる黒髪に色白の肌、撫で肩で華奢なその男にはクマこそないが、どこか病弱に見えなくもなかった。
腹の底で、怒りが芽を出す。陽子がいなくなってから、不安と侘しさを噛み潰して過ごしてきた東伍にとって、目の前の男は敵以外の何者でもないのだ。
「お前が陽子を」
「待って東伍」
「……とうご?」
東伍の怒りを鎮めるように陽子がいなす。その言葉に、男は一瞬眉を上げた。
「東伍……まさか、水野東伍?」
下から上へと、東伍を見定めながら視線を滑らせる男は、幽霊でも見るような怪訝な表情で一歩下がった。
不審がりつつ、東伍も負けじと男を睨む。男の顔に覚えはなかった。だが相手は東伍を知っている。どうにも気分が悪かった。
「僕は小瀬といいます」
「小瀬……じゃあ、ここはあなたの病院ですか」
「そうです」
「どうして俺の名前を?」
「それは陽子——」
陽子の名前が出た瞬時、東伍は男の言葉を遮って口を挟む。
「やっぱり。あなたが陽子を誘拐したんですね」
「誘拐?」
「とぼけないでください。この病院のどこかに陽子がいるんでしょう」
東伍は傘立てに差してあったもう一本の傘を手に取ると、くるくる纏めて構える。
「案内を。陽子のいる場所まで、俺たちを連れて行ってください」
「待って東伍。彼は小林陽子を誘拐したりしていないわ」
振り向く東伍に、頷く陽子。
街灯にちらつく虫が、妙に騒がしい。
「小瀬先生。あなた昨年の十二月二十四日に、駅前のコンビニ近くで浮浪者と揉めていましたよね」
「……」
一体何の話をしているのか、東伍には理解できなかった。考えを巡らせる小瀬を見て、陽子は東伍に耳打ちする。
「今よ、東伍。中に入って私を探して」
「え?」
「私が彼を引き留める」
「そんな無茶な。きみは今、高校生なんだよ? 置いて行けるわけないよ」
「私ね。昔、精神科にお世話になっていた事がある。ネットで調べてクリニックの名前を見たとき、まさかとは思ったけど。私は彼に会った事があるわ」
だから行って、と陽子。
東伍は迷うも、今は陽子の身体を探すのが先と、はやる気持ちを抑える事ができなかった。
「すぐに戻る。無理はしないでくれよ」
「わかってる」
少し開き気味の戸を全開にし、東伍は院内へと足を踏み入れる。背後から小瀬の戸惑う声が聞こえたが、東伍はそのまま下駄箱を抜けて受付を右に曲がると、非常灯の光る廊下を進んだ。
分厚いコンクリート壁が特徴の建物は窓も少なく、ところどころにヒビが浮き出ていて、どことなく不気味な空気を纏う。
玄関までの階段を数段上がると左側に傘立てがあり、そこには破れたビニール傘が二本、ボタンの外れた状態で無造作に差してあった。
「明かりも消えてるし、誰もいないみたいだね」
ガラス戸におでこを寄せた東伍が言う。看板や受付カウンター、待合場の革のソファが、月明かりに照らされてぼんやりと輪郭を持っていた。
「今日は火曜、休診日だもの」
陽子はキョロキョロ辺りを見回し、大きめな石を見つけると、両手で持ち上げる。
「え、ちょっと! なにする気?」
「仕方がないじゃない、鍵持ってないんだもの」
「それにしたって、その方法はどうなのかな」
「じゃあ他に何か手があるの? 東伍、すこし下がってて」
「あ」
陽子が振り子のように腕に勢いをつけて、持っていた石をガラス戸に叩きつけようとしたその時。東伍は慌てて陽子の肩を掴んで止めた。
「もう! 今度は何よ!」
「そこ見て。ガラス、割れてる」
驚いた陽子が下を向けば、確かに鍵の摘み周辺のガラスが割れていた。砕けたガラス片が地面に散らばっている。
「え。なんで割れてるの」
「そんなのわかるはずないよ」
「中に誰かいるってこと?」
陽子の言葉に、東伍は再びガラスにおでこを寄せて病院内を見た。外から眺めた限り、人気がある様子はない。
陽子が石を地面に置く間、東伍はさらに思い立ち、締まる戸の隙間に指を掛けて力を入れると——なんと、扉はすんなり開いてしまった。
「……開い、ちゃった」
「嘘。どうするの。なんか武器、あ、そこの傘とか持ってく? ボロいけど」
「無茶言うなよ。もし誰かいるんだとしたら、それは陽子を監禁した犯人だろう? 犯罪者相手にボロ傘一本で対抗なんてできない」
「わかった。私がいく。東伍は車で待ってて」
陽子は傘立てから傘をひとつ引き抜くと、くるくると纏めてボタンを止め、左手に握りしめる。
「落ち着いて。少し冷静に」
「無理。私、グズグズ悩むの嫌いなのよ」
小さく息を吐き、陽子は意を決して一歩を踏み出した。
「……どちらさまです?」
背後からの男の声。東伍と陽子が反射で振り向けば、男は懐中電灯の明かりを二人の顔に照らし当てた。
「何してるんですか。あ!」
男はそのまま戸のガラスに電灯を向け、割れているのを発見すると、慌てて駆け寄る。
「いや、ガラスは元々割れていて。あの、私たちはその」
「警察を呼びます。逃げても無駄ですよ、そこに停まっている車のナンバーはもう控えましたから」
東伍が言い訳を口にするも、男は構わずスマートフォンを鞄から取り出した。
東伍の額に汗が滲む。
このまま警察に通報されてしまえば、今日のことはたちまち学校に知れ渡る。ましてこんな時間に、人気のない場所で、一緒にいるのが自分の学校の生徒だと分かれば、最悪職を辞さなければならない事態だと瞬時に頭が働いた。
どうする。どうする。
スマートフォンに照らされる男の顔面を見つめながら、東伍が唇を噛んだその時。
「いいんですか。警察に連絡して困るのは、あなたの方では?」
陽子の物言いに、スマートフォンを操作する男の手が止まる。
「どういう意味だ」
「去年のクリスマスイブ。駅前のコンビニで起きた事を、近くの防犯カメラが記録しているの。それだけ言えば分かるでしょ」
瞬時に瞳孔を開いた男。その状況を見守りつつ、東伍は陽子の発言の意味を考えた。
(こいつが陽子を誘拐した、犯人……)
見立ては三十代半ば。白髪の混じる黒髪に色白の肌、撫で肩で華奢なその男にはクマこそないが、どこか病弱に見えなくもなかった。
腹の底で、怒りが芽を出す。陽子がいなくなってから、不安と侘しさを噛み潰して過ごしてきた東伍にとって、目の前の男は敵以外の何者でもないのだ。
「お前が陽子を」
「待って東伍」
「……とうご?」
東伍の怒りを鎮めるように陽子がいなす。その言葉に、男は一瞬眉を上げた。
「東伍……まさか、水野東伍?」
下から上へと、東伍を見定めながら視線を滑らせる男は、幽霊でも見るような怪訝な表情で一歩下がった。
不審がりつつ、東伍も負けじと男を睨む。男の顔に覚えはなかった。だが相手は東伍を知っている。どうにも気分が悪かった。
「僕は小瀬といいます」
「小瀬……じゃあ、ここはあなたの病院ですか」
「そうです」
「どうして俺の名前を?」
「それは陽子——」
陽子の名前が出た瞬時、東伍は男の言葉を遮って口を挟む。
「やっぱり。あなたが陽子を誘拐したんですね」
「誘拐?」
「とぼけないでください。この病院のどこかに陽子がいるんでしょう」
東伍は傘立てに差してあったもう一本の傘を手に取ると、くるくる纏めて構える。
「案内を。陽子のいる場所まで、俺たちを連れて行ってください」
「待って東伍。彼は小林陽子を誘拐したりしていないわ」
振り向く東伍に、頷く陽子。
街灯にちらつく虫が、妙に騒がしい。
「小瀬先生。あなた昨年の十二月二十四日に、駅前のコンビニ近くで浮浪者と揉めていましたよね」
「……」
一体何の話をしているのか、東伍には理解できなかった。考えを巡らせる小瀬を見て、陽子は東伍に耳打ちする。
「今よ、東伍。中に入って私を探して」
「え?」
「私が彼を引き留める」
「そんな無茶な。きみは今、高校生なんだよ? 置いて行けるわけないよ」
「私ね。昔、精神科にお世話になっていた事がある。ネットで調べてクリニックの名前を見たとき、まさかとは思ったけど。私は彼に会った事があるわ」
だから行って、と陽子。
東伍は迷うも、今は陽子の身体を探すのが先と、はやる気持ちを抑える事ができなかった。
「すぐに戻る。無理はしないでくれよ」
「わかってる」
少し開き気味の戸を全開にし、東伍は院内へと足を踏み入れる。背後から小瀬の戸惑う声が聞こえたが、東伍はそのまま下駄箱を抜けて受付を右に曲がると、非常灯の光る廊下を進んだ。
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