【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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「そうだ。ステーキもいいけどさ、ハンバーグって手もあるよ。包丁でミンチにしなきゃならないから、少し時間がかかるんだけどさ」
「ジンさん」
「あ、それかローストにしてみようか! 一時間もあれば完成する——」
「ジンさん!!」
 
 電子レンジを覗き込む後頭部に向かって、声を張り上げる東伍。それは不安と苛立ちと、恐れを帯びたものだった。
 ジンはゆっくり振り返る。そうして、先ほどとは比べ物にならない位の満面の笑みで答えた。
 
「じゃあ教えてやるよ。あんたは騙されたんだ。まんまと罠にハマって、袋小路に追い詰められた。ここは人生の終末みたいな場所さ。僕以外の人間がこの部屋に訪れるの、自分が初めてだ、なんて思ってる? まさか。この部屋には入ったが最後、出られないって言ったろう? でもまあ、姿形を問わなければ、出られないこともないんだけどさ」
 
 ジンは電子レンジから解凍した肉を取り出すと、これみよがしに両手で握る。
 手のひらから手首、肘を伝って滴るドリップが、ポタポタと床に小さく弾けた。
 
「僕の精神疾患が強迫性障害だけなら、こんな場所にわざわざ閉じ込める必要ないと思わない? それに隔離室の用途は本来、他者を傷つけること或いは自分自身を傷つける行為を阻むためにあるよね。それなのに見てみなよ。ここには、武器が山ほどある」
 
 一歩、また一歩と近づいてくるジンの狂気に、東伍はズリズリと後退する。
 不意にお尻に触れた医療用カートに過剰にビクつけば、トレイに乗った器具やら何やらが床へと散らばった。
 
 東伍はすかさず、メスを拾い上げる。
 
「こ、殺したのか。その、冷凍されているものは、人間だっていうのか」
「ははっ、ちょっと落ち着きなよ。あんた本当にいい奴なんだね」
「質問に答えろ! か、解体したのか?!」
 
 途端、ジンの表情が色を失った。
 
「そうだ、と言ったらどうする? 僕をこの場で殺す? やってもいいけどその場合、屍の処理はあんたがする事になるな」
 
 どんっ、——ジンの手から、肉片が床に落下する。その塊を見下げながら、ジンはこれまでにない低い声で言った。
 
「いつ人が訪れるかわからない。なんなら来ない可能性の方が圧倒的に高い。そんな状況で、死臭漂う遺体を放っておけるのか? 死ぬってのはな、そういうことなんだ。生物はおしなべて、最後は皮と肉と骨。それだけだ。死んで、すぐに灰になれるものならそれが一番いいよな。でも、そうはいかない。生き物は汚い。卑しい。だから僕は外の世界が嫌いなんだ。ずっと、この部屋にいるのが僕の安寧だった」
 
 再び視線を合わせるジン。東伍のメスを握る右手に、力が入る。
 
「あんたが来てくれてよかったよ。僕は臆病だから、自分じゃ死ねない。だから、誰かが来るのをずっとじぃっと、待っていたんだ。さあ、いいよ。ひと思いにサクっと。そうだな、首がいいな。この辺り。あんまり長く苦しむのは、できれば避けたいから」
 
 顎を上げて自身の首元を指差すと、ジンは両手を広げて受け入れの姿勢をとった。
 
 東伍は考える。なんでこんなことになったのだろうと。つい数時間前まで教壇に立ち、生徒相手に教会の歴史にまつわる蘊蓄うんちくなんかを滔々と話していたはずが、ほんの少しの思い誤りで、顧問を務める部活動を放り出してまで、こんな場所に来てしまった。
 
「……俺は、騙されたのか」
 
 東伍は理解した。
 その呟きに、決意を固めて閉じかけていたジンの瞼が反応する。
 
「さっきの質問に答えます。どうして俺が、この場所に恋人がいると思ったか。それは本人に聞いたからです。でも、完全に本人というわけじゃない。誘拐され、俺と再会した陽子は……女子高生に、姿を変えていたんです」
 
 幻想でもいい。信じてもらえなくても構わない。それでも東伍は、異常な状況に自暴自棄を極め、口を動かす。
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