【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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 「……とうご、東伍!」

 声に呼び起こされるように目を覚まして、一番最初に飛び込んできた顔を見るや否や、東伍の神経を流れる伝達物質は暴れた。
 
 栗色のショートヘア。ほんのり吊り目がちな、鋭い目。くっきり高い鼻、薄い唇——
 徐々にクリアになっていく恋人の顔に、東伍の眼球が潤む。
 
「よ、陽子?!! なっ、え……どうやって? ……い、痛ぅっ」
 
 身体を無理に起こすと、ガンっ、と頭に痛みが響いた。
 目の前には陽子と、横には肩を寄せ合って涙を流す、東伍の父と母。
 
「無事で良かった。今、先生を呼ぶから」
「まったく。普段からぼーっとしすぎなのよ、しっかりなさい。結婚だって勝手に決めて、するならするで連絡のひとつでも寄越すでしょう、普通。心配ばっかりかけて」
 
 ただただ安堵で頷く父と、おそらく今するべきでない会話を、思いのまま捲し立ててしまう母。そんな優しさと叱責が入り混じる両親の言葉の意味を理解するまで、東伍は数秒を要する。
 
「……結婚?」
「そうよ。あんた、ここにいる陽子さんと結婚するんでしょ?」
 
 東伍が母から陽子へと視線を移せば、陽子は眉を下げて微笑んだ。
 
「同僚の先生から連絡をもらったの。あなたが行方不明になったと聞いて……ひどく、後悔した。大変な時にそばに居られなくて、ごめんなさい」
「陽子」
 
 弱々しく頭を下げる陽子に問いかけようとして、東伍は言葉を切る。目の前の陽子の姿をまじまじ眺め、それから自分の腕に視線を落とした。
 点滴針の刺された左手を、握って開く。右手も同様に動かし、布団の下の足首も曲げてみた。
 
「どこか違和感があるの?」
「いや。大丈夫」
 
 心配する母の言葉に、東伍は短く答える。
 
「そう。まあ、身体が重いのも無理はないわ。あなたもう、二日も寝たきりだったから」
「今日は、何月何日?」
「五月二十七日よ」
 
(五月十六日に小瀬クリニックに閉じ込められて、脱出した日からは二日が経過。今日が二十七日ということは……ジンさんの時間経過の見立ては正確だったんだ)
 
 だんだんと冴えてきた東伍の頭に浮かんできたのは、ジンの最後の笑顔だ。
 
 あの後。エレベータで地上に出た後、東伍は再び降下して、ジンを迎えに行くつもりだった。
 それが二日も経ってしまった。水も飲めない状況で、あの通路に二日も取り残されたなら。ジンの命は、尽きたに違いない。
 
 東伍が思考を巡らせていると、病室の戸が開いた。
 
「どうです、ご気分は」
 
 五十代半ばほどの男性医師が、若い女性の看護師を一人連れて東伍に近づく。
 
「重度の栄養失調です。右肩と右肘、顎に軽い擦過傷さっかしょうはありますが、うん、今は顔色も良いですし大丈夫でしょう」
「あの。先生、俺」
 
 東伍は再度言葉を詰まらせると、両親と陽子を一瞥し、それから目を瞑る。背中をゆっくりとベッドに委ね、目頭を指で押さえながら眉間に皺を寄せた。
 
「少し、頭が痛くて」
「まだ完全な回復とは言えませんから、無理なさらず。これから検査もありますし、ご両親と奥様には一時、ご退室していただく方がいいかもしれませんね」
 
 医師の言葉に、三人は顔を見合わせ頷く。
 
「東伍。とにかく今はゆっくり休め」
「結婚式の諸々は、こちらである程度話しておくから」
「おい。……ほら、行くぞ」
 
 母の尚早しょうそうな言葉に指摘をして、東伍の父は一足早く部屋を出た。陽子は甲斐甲斐しく母の背中に触れつつ、二人一緒に部屋を後にする。
 看護師が東伍の右手に回り、腕に血圧計を巻きつけたタイミングで、東伍は点滴バッグを確認する医師に声を掛けた。
 
「先生。俺はどこで見つかって、どうやってこの病院に搬送されたんでしょうか」
「え? ああ、たしか警察に通報があったと聞いています。見つかった場所は水野さんの勤め先、淑和学院の水泳部の更衣室だとか」
「更衣室、ですか?」
 
 いぶかしげな表情の東伍に、医師は続ける。
 
「水野さんが数日前から行方不明だったことは、テレビでもニュースになっていまして。警察も不思議がっていたそうですよ。学校の中なんて、何度も探したのにって」
「あの、その、警察に通報した人っていうのは」
「さあ」
「俺が見つかった時、男の人が一緒にいたとか、その人もこの病院に運ばれた、なんてことは」
「搬送されてきたのは水野さん一人だけです」
「そう、ですか」
 
 いくら質問を重ねても、東伍の脳内にかかったもやは晴れるばかりか濃くなっていく一方で、頭痛が増す。
 そんな東伍の様子を見て、医師は看護師に声をかけた。
 
「水野さんの意識が回復したこと、警察の人に連絡は?」
「はい、先ほど。もうこちらに着く頃かと」
 
 看護師の返答に、医師が頷く。
 
「このあと警察の方が事情聴取に来ます。詳細は、そちらで訊いてもらうのがいいと思います。こちらとしては本日の検査が終わり次第、問題がなければ退院して頂こうと思っていますが、よろしいですか」
 
 淡々と職務をこなす医師と看護師を見て、東伍はどこか居た堪れない気持ちになる。
 自分の存在が疎ましがられているような、突き放されているような、そんな妙な予感がしたのだ。
 
 ——そして、その予感は的中してしまう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 五月三十一日 十七時二十五分
 空が、黄昏泣きを続ける。
 
「校長……今、なんて」
「だからね。学校にはもう来ないでほしいんだ。渡した書面通り、来月いっぱいは本校の教員であるにはあるんだが、もう噂も広まってしまっている。メディアが報じて、ことが表沙汰になる前に、こちらとしては手を打ったことを保護者含め、世間に示さなければならないんだ。分かるだろう?」
 
 コの字に設置された長机の端と端、互いに疲弊した校長と東伍は向かい合い、どんよりと重たい空気を纏っていた。
 
「そんな。俺は何も」
「わかっている。きみがそんな、犯罪・・を犯すような人間でないことは、昔担任であった私が一番理解しているつもりだ。きみはいつだって勤勉で、この淑和学院が水泳強豪校として立場を確立出来たのも、きみの功績があったからこそと感謝もしている。しかしな。世間は理解してくれない。今後報道されることがたとえ事実でないのだとしても、その疑惑が晴れないうちは叩き続けるんだ」
 
 東伍は動揺で息を呑む。
 
「我々は耐えなければならない。そして、本校に在籍する生徒たちを守らなければならない。わかってくれ」
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