【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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「まあでもさ、詳細を伏せたことは正解だったんじゃないの? 職場復帰どころか解雇まで言い渡されちゃって、水野っち今背水の陣? 四面楚歌? やばいよねぇ、突然巻き込まれた挙句に誰が敵か味方か、わかんないもんねぇ」
「凛子。楽しむのはやめなさい」
 
 その時やっと、東伍は泉の顔を直視する。その視線に気づき東伍に目を合わせた泉は、真顔ながらも、申し訳程度に眉毛を下げた。
 
 しっとりとした強めのカールの黒髪。幼さを印象付ける、丸みのある額。えくぼ辺りにある黒子ホクロと、それから薄茶色の瞳。
 
 顔貌は同じ。だがその表情と声は、東伍が知る川村泉とはまるで別人のように思えた。
 
「ごめんなさい。あなたをこんな目に合わせるつもりはなかった。これは、見立てを誤った私の責任です。本当に酷いことをしました」
 
 泉は凛子に広げたままの傘を渡すと、太ももに手を揃えて深々と頭を下げる。
 
「きみは……陽子じゃ、ないんだね」
「はい」
「どうしてそんな嘘を?」
「あなたを守るため」
 
 再び上げられた泉の顔は真剣だった。
 
「名を改めます。私の苗字は川村ではなく、鷹司たかつかさ。本名を、鷹司泉たかつかさいずみと申します。川村は私の母の旧姓です」
「鷹司って何処かで……」
「ああ、流石の水野っちも知ってるか。泉はあの鷹司製薬の跡取り娘。正真正銘のお嬢様なんだよ」
 
 渡された傘をたたみながら凛子が言えば、泉が先を続ける。
 
「無謀な方法であることは百も承知でした。それでも、凛子が考えたこの方法が、今の私たちにとっては最善の術だったのです」
「あれ。泉、今あたしのことさらっとディスった? ねえ。そうだよね?」
「船井。ちょっと黙って」
 
 東伍は怒りで立ち上がった。
 
「俺を守るだなんて。俺はあの地下室で殺されそうになったんだ。ガスも電気も止められて、食うものも尽きて……それに、あの場所にはまだ」
丸井理仁まるいりひとが、閉じ込められている?」
 
 泉が割って入ったことに、東伍は唇を噛み締めた。
 
「……きみたちは、何をどこまで知っているんだ」
「どうでしょう。それでも、あなたが知るより遥かに多くの情報を持っているのは事実でしょうね」
「あの地下室にジンさんを閉じ込めたのも、きみなのか?」
「いいえ。丸井理仁を閉じ込めたのは、彼の父親です」
「父親?」
「そうです。理仁りひとの父親、丸井滋まるいしげるは丸井工業という大手プラントエンジニアリング会社の経営者でした。元は天才的な発明家だった滋氏ですが、とある人物との出会いでその人生を狂わされてしまいます」
「その人物って——」
 
 
 Prrrrrrr…………
 
 
 着信音と共に、東伍のスマートフォンがポケットで震える。取り出して画面を確認した東伍は、泉と凛子に目を合わせた。
 
「……陽子だ」
「待って水野っち。今その電話には」
「いいえ。出てください」
 
 泉が言う。
 
「任せます。あなたの思うままに。どちらを信じ、どう道を選択するかは、あなたの自由ですから」
 
 焦る凛子を黙らせると、泉はどうぞ、と左手を出して促す。東伍は恐る恐る、通話ボタンを押した。
 
【もしもし東伍? 良かった、繋がった】
 
 電話口から漏れた陽子の声に、凛子は怪訝な表情を見せる。
 
【ごめん。ずっと連絡をもらっていたのに】
【ううん。でも急に車を飛び出していっちゃうからびっくりした。今どこ? 学校には行ったの?】
【うん。解雇通告をされたよ】
【解雇ってそんな。やっぱり、東伍が悪いようにニュースに出ちゃうってこと?】
【わからない。陽子は? 今どこ?】
【今は実家にいる。東伍のマンションも私の家も、マスコミが張り込んでいてとてもじゃないけど帰れないわ。あなたも昨日は帰っていないんでしょう?】
【うん。ネットカフェに泊まろうとしたんだけど現金がなくて。コード決済のできるビジネスホテルに】
【今もそのホテルにいる? 今から行ってもいいかな】
【え? どうして?】
 
 返事が途切れる。そのタイミングで、凛子がすのこから足を滑らせた。
 目を見開き、口をいの字に開いて謝るジェスチャーをする凛子。
 
【なに。今の音】
【て、テレビのリモコン落としちゃって】
【……東伍、もしかして誰かと一緒なの?】
 
 スマートフォンを耳に当てたまま、東伍は泉と凛子を横目に見た。
 泉は凛子が物音を立てたことにじっとり非難の目を向け、それに対して凛子は未だ謝罪を続ける。
 
 
 “誰も信用するな”
 “どう道を選択するかは、あなたの自由”
 
 
【——ううん、一人だよ。でも今日はごめん。解雇の件、まだうまく呑み込めなくて。もう少し一人で考えたいんだ。明日また連絡してもいいかな】
 
 東伍が一人でいると答えたことで、泉と凛子の視線が同時に東伍へと向いた。
 
【そうよね。気が利かなくてごめんなさい】
【いいんだ、こっちこそごめん】
【わかったわ。明日また、連絡待ってる】
 
 
 通話が切れたことを確認すると、凛子は大股で東伍へと歩み寄り強めに肩を叩いた。
 
「さすが水野っち! うちらを信用するなんてお目が高い!」
「信用? 冗談はやめてくれ。俺はきみたちからの情報が欲しいだけだ。その情報が本当か嘘かも、俺が考えて決める。もう騙されないよ。最初から用心していれば、まさか女子高生二人に騙されたりなんてしないからね」

 東伍の言葉に、二人は顔を見合わせる。それから凛子は腕を組んで言った。
 
「水野っちさ、呑気だよね」
「なんだよそれ」
「うちら、女子高生じゃないよ」
「……は?」
 
 気が付けばいつの間にか。
 空は、泣き止んでいた。
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