【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

文字の大きさ
22 / 55

22

しおりを挟む
『なんで、そう思うんだ』
『別に。なんとなくよ。そもそも、私だってわからないことの方が多いの。いくら私に両親がいなくて身内との関係が希薄だからって、半年近く行方が分からなかったら普通、誰かが気づくと思わない? それがその間、私のフリをしてうまく立ち回った人間がいた。職場へ休職の連絡を入れたり、自宅のゴミを捨てたり郵便受けを整理したり。東伍のこのスマホにも、私からメッセージが来たでしょう?』
 
 陽子は後ろに振り向き、スマートフォンを東伍に手渡す。
 
『充電しておいてあげたわ。そのついでに確認させてもらったの。あ、そうそう。あなた明日学校に行きなさい。当然だけど、職場からの不在着信が山ほど溜まっていたわよ』
 
 小さくため息をついた陽子は、声のトーンを少し下げた。
 
『私たち、なにか大変なことに巻き込まれてる。状況を整理するためにも、あなたからの情報が欲しいのよ。私たちがこんな目に遭わなければならない心当たり、東伍にはない? このままじゃ普通の生活が送れなくなるわ。やっと結婚できる、そう思っていたのに』
 
 陽子は左手の薬指にそっと触れると、後部座席に座る東伍に振り向く。
 
『ねえ東伍。もうこのまま、どこか遠くへ行っちゃう? そうね、イタリア……あ、オーストリアなんてどう? 大聖堂とか、教会とか歌劇場とか、あなたの好きそうな場所がたくさんあるわ。優秀なあなたなら、向こうでもきっと職は見つかる』
『それは無理だよ』
『どうして? あの日に、去年のクリスマスイブに戻ったら私……あなたのプロポーズをきっと受けるわ。あの日に戻りましょう? どこかほら、いい感じのレストランでも予約して。ね?」
『……レストラン?』
 
 東伍の声がよどむ。
 
『陽子。ひとつ訊いてもいいかな』
『ええ』
『生クリームは好き?』
『生クリーム? 何よ急に』
『いいから』
『そうね、別に好きでも嫌いでもないわ。私甘いものは苦手だし』
 
 陽子のその答えを聞いて、東伍はそっと荷物を抱えた。

『俺行くよ』
『え、行くってどこに?』
『確認したいことがあるんだ。また連絡するから』
 
 東伍は素早くドアに手を掛け、引く。だがドアは開かない。
 ガチャガチャとドアを弄りながら、ふと。
 背中に感じた生ぬるい気配に身をこわばらせると、次の瞬間にはもう、それは耳元まで迫っていた。
 
『ダメよ。もう、どコ、ニモ、行カセナイ……ワ』
 
 高く繊細な陽子の声が徐々にひずみ、ひび割れ、太く低く変化する。
 




 
 
 ドンドンドンっっ!!!
 
 更衣室のドアを叩かれたことで、いつの間にか眠りについていた東伍はびくりと身体を反応させて目を覚ました。
 頭を振ると同時に目頭を押さえ、夢の中の不気味な陽子の記憶を払う。
 それからそっと顔を上げれば、ドアの横、すりガラスの窓の向こうに動く影が見えた。
 
「だ、誰」
 
 ぬっと、更衣室内を確認するように寄せられた額。手のひらで無理やりに窓の雨を払い、中の様子を窺おうと更に顔を近づけたその口元には、見覚えのある黒子ほくろ
 
 背中に、悪寒が走る。
 
 東伍は急いで立ち上がり、入り口から距離を取った。そうして対面の壁、もう一つの窓の鍵に手を掛ける。
 
 そっと、摘みを下まで下げて。
 ゆっくり開けた窓に足を掛け、
 身を乗り出そうとしたその時。
 
「水野っち?」
「うわっ!」
 
 鏡合わせのように突然現れた顔面が、東伍の名を呼んだ。
 入り口側の人影に気を取られていたとはいえ、突然現れた知った顔に、東伍は不意を突かれて腰を抜かす。
 
「うわっ、て。水野っち大丈夫? てか、めっちゃ探したんだけど。やっぱりここなんじゃん」
 
 窓の向こうに立つ予期せぬ人物の登場に、東伍は首を傾げた。
 
「ふ、船井?!」
「おじゃましまーす」
「あ、おい!」
 
 船井凛子は外側から窓を乗り越え、更衣室に足を踏み入れるとそのままドアへと向かう。
 ドアにかかった鍵を内側から解除すると、開けたドアから入ってきたのはやはり、東伍が警戒する人物だった。
 
「……川村、泉」
「どうもこんばんは。ずいぶんびしょ濡れですけれど、着衣泳でもなされたの?」
 
 いまだ傘を差したまま、凛とたたずむ泉。凛子はどこから出したのか、棒付きの飴玉を手に東伍を見下ろす。
 そんな二人を交互に見るだけで、東伍は言葉を出せずにいた。
 
「ごめんなさい。冗談を聞く気分じゃないですね」
「泉。水野っちは元々頭硬いから。こんな状況でなくても冗談は通じないよ」
「そうなの?」
「うん。しなやかなのは泳ぎだけー」
 
 コミカルに繰り広げられる泉と凛子の会話に、東伍は眉を顰める。
 
「……船井お前、何してるんだ」
「何って、人助けだよ」
「人助け?」
「まるで異世界転生でもした気分になってるであろう水野っちに、現実と真実を教えてあげようと思ってさ」
 
 飴玉を口で転がしながら揚々と言う凛子。
 
「とりあえず、まずは着替えだね。それから車……あ、水野っちの車は小瀬んとこの駐車場でズッタズタのボッコボコにされちゃったから——あ、冗談だよ? レンタカー借りるか。順番どうする? 小瀬メンタルクリニックが先? それとも丸井工業が先?」
 
 小瀬、丸井。凛子の口から次々に覚えのある名が出たことに、東伍は驚く。
 
「なんで船井がその名を口にするんだ。俺は、小瀬の病院に閉じ込められていたことを警察にも話していないんだぞ」
「なんで話してないの?」
 
 凛子の問いに、東伍は押し黙る。
 理由は言えなかった。
 
 “誰も信用するな”
 
 頭の中に、ジンの声が響く。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

寄生虫の復讐 ~美咲の冷徹な一刺し~

スカッと文庫
ミステリー
「お前みたいな寄生虫はゴミだ」 10年尽くした夫・雅也から突きつけられたのは、離婚届と不倫相手。 彼は知らない。私が家を飛び出した「サカモト・ホールディングス」の令嬢であることを。 そして明日、彼が人生を賭けて挑む調印式の相手が、私の実父であることを。 どん底に叩き落とされたサレ妻による、容赦なき「経済的破滅」の復讐劇。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

【完結】限界離婚

仲 奈華 (nakanaka)
ミステリー
もう限界だ。 「離婚してください」 丸田広一は妻にそう告げた。妻は激怒し、言い争いになる。広一は頭に鈍器で殴られたような衝撃を受け床に倒れ伏せた。振り返るとそこには妻がいた。広一はそのまま意識を失った。 丸田広一の息子の嫁、鈴奈はもう耐える事ができなかった。体調を崩し病院へ行く。医師に告げられた言葉にショックを受け、夫に連絡しようとするが、SNSが既読にならず、電話も繋がらない。もう諦め離婚届だけを置いて実家に帰った。 丸田広一の妻、京香は手足の違和感を感じていた。自分が家族から嫌われている事は知っている。高齢な姑、離婚を仄めかす夫、可愛くない嫁、誰かが私を害そうとしている気がする。渡されていた離婚届に署名をして役所に提出した。もう私は自由の身だ。あの人の所へ向かった。 広一の母、文は途方にくれた。大事な物が無くなっていく。今日は通帳が無くなった。いくら探しても見つからない。まさかとは思うが最近様子が可笑しいあの女が盗んだのかもしれない。衰えた体を動かして、家の中を探し回った。 出張からかえってきた広一の息子、良は家につき愕然とした。信じていた安心できる場所がガラガラと崩れ落ちる。後始末に追われ、いなくなった妻の元へ向かう。妻に頭を下げて別れたくないと懇願した。 平和だった丸田家に襲い掛かる不幸。どんどん倒れる家族。 信じていた家族の形が崩れていく。 倒されたのは誰のせい? 倒れた達磨は再び起き上がる。 丸田家の危機と、それを克服するまでの物語。 丸田 広一…65歳。定年退職したばかり。 丸田 京香…66歳。半年前に退職した。 丸田 良…38歳。営業職。出張が多い。 丸田 鈴奈…33歳。 丸田 勇太…3歳。 丸田 文…82歳。専業主婦。 麗奈…広一が定期的に会っている女。 ※7月13日初回完結 ※7月14日深夜 忘れたはずの思い~エピローグまでを加筆修正して投稿しました。話数も増やしています。 ※7月15日【裏】登場人物紹介追記しました。 2026年1月ジャンルを大衆文学→ミステリーに変更しています。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...