【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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 五月三十日 四時四十分
 東伍が入院して三日目のこの日。まだ陽も出て間もない早朝に、東伍は揺り起こされる。
 
『東伍起きて。病院を出るわ、支度を』
『……陽子? 退院って。なんで急に』
『いいから。荷物は大してないわね? 下に車を停めてある。事務手続きは済んでいるから、すぐにエレベータで一階に』
 
 そこまで口にして、陽子は言葉を止めた。
 
『……ごめんなさい。東伍、エレベータには乗れなくなっちゃったのよね。階段で行きましょう。すぐに着替えて』
『待ってよ。事情を説明してくれないかな。今日はそもそも午後に退院が決まっていて、母さんが迎えに来る話になっていたんだ。それがなんで』
 
 事情を聞けなければ頑なに動かない意思を示す東伍に、陽子は荷物をまとめる作業をしつつ応える。
 
『マスコミよ。警察から話はいっていると思うけど、東伍には今、刑事事件の容疑がかけられているの。あなたの行方不明をマスコミが大々的に取り上げていたこともあって、新たな情報を嗅ぎつけた一部の記者が、あなたの退院に合わせて話を聞こうとおもてで張ってる。そんなことをされたら、世間は東伍を犯罪者だって決めつけるわ。冗談じゃない』
 
 陽子は一通りの荷物をボストンバッグに詰め込むと、ベッドの足元に置いた。
 
『だからマスコミのまだ集まっていない今のうちに、あなたをこっそり退院させようって』
『なんでコソコソする必要があるんだよ、俺は何もやってないのに』
『わかってる。でもね、現状ではあなたを犯人だと断定する証拠がないのと同じく、あなたを犯人じゃないと証明する証拠もないの。手札が悪すぎる。今のままじゃ戦えないわ』
『たたかう?』
 
 東伍の戸惑いの表情に、陽子は肯定の意を込めて頷く。
 
『東伍。これは戦いよ。あの泉って女は完全に狂ってる。東伍を陥れようとする人間を、私は絶対に許さないわ』
『泉って……陽子、川村泉を知っているの? 俺を陥れるってどういう』
『話は後よ。今はとにかくここを出ましょう。私が知っていることは、全て東伍に話すわ』
 
 全て話す——その文言につられて、東伍は着替えを済ませると病室を出る。
 ナースステーションを避けて非常階段を降りれば、救急外来と書かれた看板が見えた。
 
『あの救急車横に、シルバーの軽自動車が停めてある。私が運転するから、東伍は後部座席に』
『わかった』
『警戒して。どこにマスコミがいるかわからないわ』
 
 東伍は頷くも、ざっと見渡す限り人の影はないように思えた。
 そっと足を忍んで車まで辿り着くと、後部座席のドアを開ける。
 
 
 “乗ってはいけない”
 
 
 ふと声が聞こえた。だが辺りにはやはり、誰もいない。
 
『どうしたの東伍』
『あ、いや』
『早く乗って、急がないと。少しの間頭下げておいて』
『わかってる』
 
 乗り込むと、東伍は強めにドアを閉めた。言われた通りに身体を屈め、車が病院の敷地を出る所まで待つ。
 徐行から右折。少しの直進の後、今度は左折。エンジン音と空調の音が響くだけの車内で身体を揺さぶられ、東伍はほんの少し眩暈を覚えた。
 
『もういいわよ、頭上げて』
『うん』
『大丈夫? 顔色悪いけど』
 
 バックミラー越し、東伍に視線を送る陽子。
 
『大丈夫。まだ前みたく食事の量が取れなくて、ちょっと体力が』
『そう。確かに、ずいぶん痩せちゃったわね。まあ元々そんなに太ってはいなかったけど』
 
 微笑む陽子を、今度は東伍がバックミラー越しに見る。
 
『……久しぶりだね、陽子』
『うん。本当に久しぶり』
『無事でよかった』
 
 東伍と陽子は互いの距離感を取り戻すべく様子を見るが、先に耐えきれなくなった陽子が吹き出した。
 
『無事でよかったって、それはこっちのセリフ。東伍、相変わらずね』
『そうかな』
『そうよ。そんなんだから、川村泉に唆されたんだわ』
 
 川村泉。陽子の口からその名前を聞いて、東伍は改めて疑問をぶつける。
 
『去年のクリスマスイブ、一体何があった? 陽子は今までどこにいたんだ」
『どこにいたんだろう。それは私にもわからない。でもその、去年のイブの日。あなたのマンションを出た私は、女に声をかけられたの。道を教えて欲しいって。だから調べてあげようと思って、スマホを操作しようと目を逸らしたら、いきなり黒い袋を頭に被せられた』
 
 視界を奪われた陽子は、そのまま気を失う。
 
『目を覚ました時、私は病室ような場所にいて、そこのベッドに横になってた。部屋の扉には鍵が。でも病室の窓から、車種のたくさん並んだ看板が見えたの、ちょうどほら、あんな感じの』
 
 陽子が指差した前方左側には、言葉通りの看板が立っていた。
 そして同時に東伍は思う。
 
『陽子を誘拐したのは、川村泉?』
『ええ、そうよ』
『監禁されていた場所に、本当に覚えはない?』
『ないわ。なんなの?』
『陽子ってさ、精神科に通っていたこととか、あったりするのかな』
 
 陽子からの返答が途切れた。
 数分道なりに走るとコンビニが現れ、陽子はその駐車場に入ると車を止める。
 
『それ誰から聞いたの?』
『あ、いや』
『ねえ東伍。あなたこそ、どこにいたのか本当に心当たりはないの? どうしてエレベータに恐怖心を抱くようになってしまったの? なぜ私が精神科に通っていたかなんて訊くのよ』
『それは』
『あなたもしかしてこの数日間——
 
 
 誰かと、一緒だった?』
 
 
 頭上から足の裏まで一直線に。
 いやな衝撃が、東伍の身体を突き抜けた。
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