【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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「ねえ、いいじゃん。運転変わってよ」
「ダメです」
「なんでよ」
「凛子さん、免許取ってまだ間もないでしょう」
「大丈夫だよー、ゲームじゃ負けたことないし」
「ゲームのようにドリフトされたりガードレールにサイドを擦られては、車と一緒にわたくしのメンツも潰れます」
「なに、上手いこと言っちゃって」
「鷹司のガレージから勝手に車を持ち出すなんて。すぐに返しに行きますよ、代車はわたくしが用意してますから」
「……おもんなぁ。泉、なんで恭ちゃんに連絡するかなあ」
「少し運転しただけで、私でも難しい車だと判断しました。恭一さんの手を借りるのが得策だと」
「泉、運転得意じゃん。向こう・・・では高級外車乗り回してたって」
「乗り回してなんていません。それに、イタリアと日本とでは勝手が違うのです」
 
 凛子がブスくれて後部座席のシートに背を預ければ、それは高級ソファのようにギュニっと沈む。
 妙に慣れた空気に馴染めないまま、東伍はハンドルを握り前を見据える紳士に顔を向けた。
 
「あ、あの。あなたは泉さんの父親では、ないんですよね」
「おっしゃる通りで。わたくし川村恭一かわむらきょういちと申します。長年、鷹司家に籍を置かせて頂いている使用人でございまして、現在は泉さんと凛子さんの身の回りのお世話を」
「それって、船井も鷹司家の人間ってことですか」
 
 バックミラー越しにちらりと視線をやれば、凛子は否定を込めて首を振る。
 
「実は私の苗字も船井じゃないんだよね。船井は父親の旧姓で、本名は川村凛子かわむらりんこ。ややこしいから、今後は下の名前で呼んでくれる?」
「そうですね。凛子だけでなく、よろしければ私のことも泉、と下の名でお願いします」
 
 泉が便乗すれば、東伍はハッとした表情を浮かべた。
 
「あ、気づいた? いま水野っちの隣で運転している恭ちゃん、あたしの父親。川村家は代々鷹司家の使用人を担う家系で、そこの次女、つまりあたしの母親と、婿入りって形で結婚した恭ちゃんは、苗字を船井から川村に改めたんだよね」
 
 先程までの不機嫌から一変、凛子は得意げな様子で話を続ける。
 
「恭ちゃん、こう見えて有能でさ。うちらの世話はもちろん、鷹司家の現当主で泉の父親でもある鷹司直幸たかつかさなおゆきの秘書も兼任してるんだよ。まあ、直幸さんは数年前から体調を崩して、しばらく寝込んじゃってるんだけど」
「凛子さん。少しは言葉を選びなさい。仮にもあなたは泉さんの従姉妹にあたるのですよ? 鷹司家に恥じぬ振る舞いをと、いつも」
「あー、わかったわかった」
 
 凛子は恭一の説教が長くなる前にと遮る。
 
「まあ詰まるところを言うと、泉の母親とあたしの母親は姉妹ってこと。だから泉とあたしは従姉妹ね。理解オーケー?」
「ああ」
「そんでうちら二人の母親は、もうこの世にはいない、と」
「え……」
  
 東伍が言葉に詰まると、泉が代わりに話を繋いだ。
 
「凛子。説明するには少し話を飛ばしすぎです。水野さん……いや、私も名を呼ぶようにお願いしたのですから、こちらもあなたを東伍さん、とお呼びしますね。もうすぐ車は鷹司家に着きますから、詳細はそちらで。小瀬メンタルクリニックや丸井工業跡地には、話が済んでから向かうことに致しましょう」
 
 
 
 
 
 五月三十一日 二十二時四十分
 
(で、デカすぎる……壁が高すぎて、何も見えない)
 
 東伍は助手席から、フロントガラスの向こうを見上げた。
 シンメトリーに湾曲するコンクリートの外壁、その中央に車をつけた恭一は、手にしたリモコンで何やら操作をする。すると重厚な門がみるみる左右にはけて、格子の先に薄ら見えていた広大な土地があらわになった。
 黒塗りのランボルギーニは、まるで洗車機の中を通るように一定の徐行で門を潜る。
 夢の国の入り口を連想させる石造の道を進むと、高級車の並ぶガレージが見えた。
 
「凛子さんと泉さん、水野様は、こちらで車を降りてください。それからお話をなさるには、直幸様のいる本邸よりわたくしたち使用人の宿舎の方が都合が良いでしょう。泉さん、水野様をご案内して頂けますか」
「もちろんです。恭一さん、今日は手間をとらせてしまって本当にごめんなさい。助かりました」
「とんでもございません。こうなったのはいつものように、凛子さんの暴走が招いたこと。泉さんはなにも、お気になさらず。わたくしも車を停めたらすぐに参ります」
「……ふん」
 
 凛子は不機嫌を表しつつ、ドアを開けて車を降りる。後から降りた泉が、東伍の乗る助手席のドアを開ければ、東伍は頭を下げながら恐縮して車を降りた。
 
「夜で足元が暗いですから、気をつけて着いてきてください。まあ、宿舎はすでに見えていますし、迷うことはないと思いますけれど」
「既に見えているって……もしかして、あのお城みたいな白い、窓の付いてるあれじゃ」
「お城? どこです?」
「いやだから、あの。……もういいや」
 
 泉が本気で城を探すので、東伍は諦めてため息をつく。
 
「ほら泉、水野っち。早く早く」
 
 先を行く凛子。その後ろをスタスタと歩く泉の後ろ姿は、背筋が伸びて凛として、バレリーナのようだと東伍は思った。
 決して、本物の陽子の歩き方がだらしないと言うわけではない。だがこの時の後ろ姿もまた、陽子を演じていたであろうあの時の泉とはまるで別人で、東伍は違和感を覚えざるを得なかった。
 
 泉が自分を陽子だと言った、あの嘘。あれがただの嘘だと、東伍は未だ呑み込めずにいる。
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