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「分裂、消滅、再生……」
文字ではあっけらかんと表記されている分、その現実離れした内容への理解を、東伍の脳は拒んでいた。
その様子を汲み取ったのか、泉は水を差される前にと、畳み掛けるように言葉を続ける。
「pasmontの適合者、これは私のことで間違い無いでしょう。気になるのは、その隣りのpasdelnaの適合者が一人いるという事実。適合者がいるということは、そのゲノムは開発者の思い通りの働きを、検体で成し得たことになります」
泉は少し間を開けると、覚悟と決意を含んだ低い声で、切り出す。
「私はこのpasdelna適合者を見つけて、そのゲノムを利用し、私の体に人工的に作られた他人格を消滅させたいのです。その為に残りの鍵を手に入れて、新たな研究データを——」
ダンっ!!
一つも口をつけていない紅茶のカップ、その並々注がれた液体は、東伍がテーブルを叩いた衝撃でソーサーに溢れ出た。
少なくなったカップの中身の揺れが収まる数秒間、東伍は泉に鋭い視線を向ける。
「悪いんだけど、まるで説明になっていないよ。多重人格とか鷹司家とか、鍵とかゲノム研究とか、俺はそんな話を聞きにきたんじゃない。鷹司泉……きみの中に陽子の人格が出現し、その陽子が俺の命を狙う人間を淑和学院から探し出すように依頼したこと。そしてたまたま、その対象者である俺が昔にきみを海で助けたことがある人間だったことで、船井……じゃなくて凛子さんは、きみを淑和学園に呼んだ、そこまでは理解するよ納得はしていないけど仕方なくね! だとしても! どうして俺が、小瀬メンタルクリニックの地下に閉じ込められなければならない!!」
興奮を鎮めるようにゆっくり肩で息を繰り返した東伍は、ぎゅっと目を瞑ると乱暴に顔面を手で擦った。
「俺は……ジンさんを誘拐監禁した罪を疑われていて、学校もクビに。陽子との結婚だって、どうなるか」
「結婚?!」
そう声を上げたのは凛子だった。
「水野っち、結婚するの? 陽子と?」
「ああ。いやでも、きみの中にいる人格とじゃない。本物の小林陽子と俺は結婚を」
「そんなこと分かってるよ! ねえ、それって最近決めた?」
「最近っていうか、去年のイブにプロポーズしようとして、そしたら陽子が行方不明に」
瞬きを数回繰り返す凛子に、泉が疑問を投げかけようと口を開こうとするも、その動作に被せるようにして凛子は立ち上がる。
「と、とりあえずさ! 今日はもう色々ありすぎて疲れたっしょ、水野っち。ここ部屋はたくさんあるから、今日はこれくらいにして少し休もうよ。あたしも流石に体力限界だわ」
「そんな、まだ話は終わってない」
「大丈夫だって。また明日。少し眠って頭スッキリさせないと、水野っちも大分イライラし始めてるし。恭ちゃん、部屋の案内よろしく。あたしもいつもの個室を借りるから。じゃあね」
承知しました、と恭一が言えば、凛子は手を振りながらそそくさとリビングを出ていってしまった。
「泉さんも、部屋はいつもの場所でよろしいですか?」
「え? あ、はい。そうします」
「かしこまりました。後ほど着替えや必要なものをお届けいたします。では水野さま、こちらへ」
突然幕が降りた話し合い。東伍は泉と目を合わせようと視線を送るも、それは噛み合うことはなく。
その不可解な終わり方に疑問を抱いたのは、東伍だけではないようだった。
「……はあ。眠れるわけがないよ」
恭一によって半ば強引に客室へと案内された東伍は、惰性でシャワーを浴びると仕方なくベッドに突っ伏した。
くるりと身体を転がし、縦皺の細かく入った白い天井を見上げては右を向き、左を向き、ピンと張った真新しいシーツが身体の重さでヨレても尚、寝心地最高なそのベッドで、東伍はため息と心臓の鼓動だけを一身に感じていた。
順風満帆だった人生。このまま教員として日々を過ごし、いつか結婚を経て子どもに恵まれ、小さな葛藤と満足を繰り返す生活が待っている、そう信じて疑わなかった。
プロポーズなんて大層なものじゃない。ただ東伍は、陽子が望むロマンチックな理想を叶えてあげたかった。部屋に蝋燭を灯し、ちょっと贅沢な料理とプレゼントを用意して、二人で食卓を囲む。
そもそも東伍と陽子が交際を始めたのは高校生の頃。長い春といえば聞こえは悪いが、陽子は東伍との関係性において特に変化を求めなかったし、結婚というターニングポイントを設けることにこだわりもない印象だった。
それが去年、陽子は急に結婚に前向きな姿勢を見せ始める。夏頃には、陽子は東伍のマンションでの同棲を提案したり、秋口には東伍の両親に会わせて欲しいと言ってみたり。
思えばそれは、泉が例の箱に入った鍵の用途にたどり着いた時期にも重なるのでは、と東伍は思考を巡らせた。
陽子は料理が苦手だった。その陽子がビーフストロガノフを作ることは元より、仕上げの生クリームにこだわるのも変な話だ。
あのイブの日。陽子のスマートフォンには誰かからの着信があったような気もする。
病院から東伍を連れ出した陽子の様子は、よく知る陽子の雰囲気とは別人だったような気も。
「ああもうっ!」
東伍は寝そべった状態で、ダンゴムシのように身体を丸めながら頭を掻きむしった。
考えれば考えるほど、胸の奥で痛みと不快感と息苦しさが増していく。
その痛みは徐々に、胸から腹へ。
文字ではあっけらかんと表記されている分、その現実離れした内容への理解を、東伍の脳は拒んでいた。
その様子を汲み取ったのか、泉は水を差される前にと、畳み掛けるように言葉を続ける。
「pasmontの適合者、これは私のことで間違い無いでしょう。気になるのは、その隣りのpasdelnaの適合者が一人いるという事実。適合者がいるということは、そのゲノムは開発者の思い通りの働きを、検体で成し得たことになります」
泉は少し間を開けると、覚悟と決意を含んだ低い声で、切り出す。
「私はこのpasdelna適合者を見つけて、そのゲノムを利用し、私の体に人工的に作られた他人格を消滅させたいのです。その為に残りの鍵を手に入れて、新たな研究データを——」
ダンっ!!
一つも口をつけていない紅茶のカップ、その並々注がれた液体は、東伍がテーブルを叩いた衝撃でソーサーに溢れ出た。
少なくなったカップの中身の揺れが収まる数秒間、東伍は泉に鋭い視線を向ける。
「悪いんだけど、まるで説明になっていないよ。多重人格とか鷹司家とか、鍵とかゲノム研究とか、俺はそんな話を聞きにきたんじゃない。鷹司泉……きみの中に陽子の人格が出現し、その陽子が俺の命を狙う人間を淑和学院から探し出すように依頼したこと。そしてたまたま、その対象者である俺が昔にきみを海で助けたことがある人間だったことで、船井……じゃなくて凛子さんは、きみを淑和学園に呼んだ、そこまでは理解するよ納得はしていないけど仕方なくね! だとしても! どうして俺が、小瀬メンタルクリニックの地下に閉じ込められなければならない!!」
興奮を鎮めるようにゆっくり肩で息を繰り返した東伍は、ぎゅっと目を瞑ると乱暴に顔面を手で擦った。
「俺は……ジンさんを誘拐監禁した罪を疑われていて、学校もクビに。陽子との結婚だって、どうなるか」
「結婚?!」
そう声を上げたのは凛子だった。
「水野っち、結婚するの? 陽子と?」
「ああ。いやでも、きみの中にいる人格とじゃない。本物の小林陽子と俺は結婚を」
「そんなこと分かってるよ! ねえ、それって最近決めた?」
「最近っていうか、去年のイブにプロポーズしようとして、そしたら陽子が行方不明に」
瞬きを数回繰り返す凛子に、泉が疑問を投げかけようと口を開こうとするも、その動作に被せるようにして凛子は立ち上がる。
「と、とりあえずさ! 今日はもう色々ありすぎて疲れたっしょ、水野っち。ここ部屋はたくさんあるから、今日はこれくらいにして少し休もうよ。あたしも流石に体力限界だわ」
「そんな、まだ話は終わってない」
「大丈夫だって。また明日。少し眠って頭スッキリさせないと、水野っちも大分イライラし始めてるし。恭ちゃん、部屋の案内よろしく。あたしもいつもの個室を借りるから。じゃあね」
承知しました、と恭一が言えば、凛子は手を振りながらそそくさとリビングを出ていってしまった。
「泉さんも、部屋はいつもの場所でよろしいですか?」
「え? あ、はい。そうします」
「かしこまりました。後ほど着替えや必要なものをお届けいたします。では水野さま、こちらへ」
突然幕が降りた話し合い。東伍は泉と目を合わせようと視線を送るも、それは噛み合うことはなく。
その不可解な終わり方に疑問を抱いたのは、東伍だけではないようだった。
「……はあ。眠れるわけがないよ」
恭一によって半ば強引に客室へと案内された東伍は、惰性でシャワーを浴びると仕方なくベッドに突っ伏した。
くるりと身体を転がし、縦皺の細かく入った白い天井を見上げては右を向き、左を向き、ピンと張った真新しいシーツが身体の重さでヨレても尚、寝心地最高なそのベッドで、東伍はため息と心臓の鼓動だけを一身に感じていた。
順風満帆だった人生。このまま教員として日々を過ごし、いつか結婚を経て子どもに恵まれ、小さな葛藤と満足を繰り返す生活が待っている、そう信じて疑わなかった。
プロポーズなんて大層なものじゃない。ただ東伍は、陽子が望むロマンチックな理想を叶えてあげたかった。部屋に蝋燭を灯し、ちょっと贅沢な料理とプレゼントを用意して、二人で食卓を囲む。
そもそも東伍と陽子が交際を始めたのは高校生の頃。長い春といえば聞こえは悪いが、陽子は東伍との関係性において特に変化を求めなかったし、結婚というターニングポイントを設けることにこだわりもない印象だった。
それが去年、陽子は急に結婚に前向きな姿勢を見せ始める。夏頃には、陽子は東伍のマンションでの同棲を提案したり、秋口には東伍の両親に会わせて欲しいと言ってみたり。
思えばそれは、泉が例の箱に入った鍵の用途にたどり着いた時期にも重なるのでは、と東伍は思考を巡らせた。
陽子は料理が苦手だった。その陽子がビーフストロガノフを作ることは元より、仕上げの生クリームにこだわるのも変な話だ。
あのイブの日。陽子のスマートフォンには誰かからの着信があったような気もする。
病院から東伍を連れ出した陽子の様子は、よく知る陽子の雰囲気とは別人だったような気も。
「ああもうっ!」
東伍は寝そべった状態で、ダンゴムシのように身体を丸めながら頭を掻きむしった。
考えれば考えるほど、胸の奥で痛みと不快感と息苦しさが増していく。
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