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CASE:5
生ふ
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「芹さんよかったの? 彼をあのまま帰して。またすぐに戻ってくるんじゃない?」
館、マスタールーム。そのデスクに珈琲の入ったカップとソーサーを置きながら、女性は柔らかい声色で尋ねた。
「問題ありません。佐々木淳……彼が野中海里を見つけ出すことは未来永劫不可能。時間はたっぷりあります」
未来永劫不可能。その意味を察して、女性は悲しげに目を伏せた。
「いずれは館に呼ぶべき存在でしょうが、まだ早い。環境を整えるには準備が必要なのです。あなたも随分、苦労なされたでしょう? もうすっかり、そちらの印象の方が定着してしまいましたが」
女性は自身の腰回りを撫でながら、給仕服のエプロンの皺を伸ばす。
「50にもなったおばさんに痩せろだなんて、人間の身体の仕組みを知らない証拠よ。この姿、あの人が見たら驚くわね。きっと」
そう小さく笑う佐和子を横目に、芹は珈琲に口をつけた。
「どうです、ここでの生活には慣れましたか」
「そうね。人との交流はないけれど、あれだけ立派なお庭があるし、退屈しないわ」
「それは良かった。実はあなたがこの館にくる少し前に、ちょうど庭師の男性が亡くなってしまって。ですから、助かりました」
芹は続けて、口をつけたカップのふちを左手で拭う。佐和子はその一連の動作を目で追いながら、自身の手の甲をそっと撫でた。
「まさかこの館の給仕が皆、あなたの契約者だったなんてね。それぞれ事情を抱えているんでしょうけど、私たち給仕は互いの身の上話をしてはいけないルール。おかげで会話はほぼ無いわ。人間、大体の雑談が身の上話だもの」
「それは、窮屈な思いをさせまして」
「いやね。心にも無いこと言って」
ふたりは一瞬目を合わせるも、芹はすぐにデスクに乗った赤茶色の表紙に視線を落とした。
「これでやっと、ひと段落つきました。権堂薫著書“万華鏡の館”とやらも、佐々木淳が置いていったもので全て回収できましたし、新たな火種も着実に育ちつつある。あとは前回同様、機が熟すのを待つのみです」
「ええ。次こそは、彼を呼んでくれることを期待しているわ。私はその為に、残りの人生の全てをあなたに差し出したの。あの男をこの手に掛ける日が、待ち遠しい」
佐和子は瞳の奥で、脳裏にこびりついた相澤光政のニヤつく顔面を捕らえている。その表情に、芹は目を細めた。
「大柳様。焦りは禁物です。契約を破れば復讐の機会を失うだけでなく、この先あなたは人生を無くした状態でひとり、生きていかねばならなくなる。ちょうど野中海里が失った人生で自らのアリバイを証明できないように、あなたも自らの存在を立証できなくなります」
「わかっているわ」
「ならば、よいのですが」
再びカップを手にした芹。だが口まで持っていくその動作は少々、ぎこちない。
「大丈夫? 手、震えているけれど」
「ええ。少し疲れが出ただけです。すみませんが、井無田を呼んできて頂けますか。今の時間は食堂にいるはずですから」
わかりました、と頭を下げる佐和子。
そうして足早に食堂に向かえば、確かに井無田の姿がそこにあった。
「あの、芹さんがあなたを呼ぶようにって。なんだか具合が悪いみたい。温かいスープでも持っていきましょうか?」
「結構。ここは預かりますので、あなたは持ち場に戻ってください」
「いや、でも」
「なにか?」
「芹さんのアレ。あれはどう見ても——」
その時。佐和子の痩せた華奢な肩を、ジムで鍛えた井無田の屈強な手が掴み取る。
その握る力がだんだんと強くなっていくことに、佐和子はこれまでに感じたことのない恐怖を覚えた。
「持ち場に、お戻りください」
「……わかりました」
途端に軽くなる肩。井無田は佐和子から手を離すと、そそくさと食堂を出て行く。
佐和子は自分で自分の肩を抱きながら、ざわついた心を落ち着かせるようにひとつ、呟いた。
「井無田……あなたにシルシはないのね」
館、マスタールーム。そのデスクに珈琲の入ったカップとソーサーを置きながら、女性は柔らかい声色で尋ねた。
「問題ありません。佐々木淳……彼が野中海里を見つけ出すことは未来永劫不可能。時間はたっぷりあります」
未来永劫不可能。その意味を察して、女性は悲しげに目を伏せた。
「いずれは館に呼ぶべき存在でしょうが、まだ早い。環境を整えるには準備が必要なのです。あなたも随分、苦労なされたでしょう? もうすっかり、そちらの印象の方が定着してしまいましたが」
女性は自身の腰回りを撫でながら、給仕服のエプロンの皺を伸ばす。
「50にもなったおばさんに痩せろだなんて、人間の身体の仕組みを知らない証拠よ。この姿、あの人が見たら驚くわね。きっと」
そう小さく笑う佐和子を横目に、芹は珈琲に口をつけた。
「どうです、ここでの生活には慣れましたか」
「そうね。人との交流はないけれど、あれだけ立派なお庭があるし、退屈しないわ」
「それは良かった。実はあなたがこの館にくる少し前に、ちょうど庭師の男性が亡くなってしまって。ですから、助かりました」
芹は続けて、口をつけたカップのふちを左手で拭う。佐和子はその一連の動作を目で追いながら、自身の手の甲をそっと撫でた。
「まさかこの館の給仕が皆、あなたの契約者だったなんてね。それぞれ事情を抱えているんでしょうけど、私たち給仕は互いの身の上話をしてはいけないルール。おかげで会話はほぼ無いわ。人間、大体の雑談が身の上話だもの」
「それは、窮屈な思いをさせまして」
「いやね。心にも無いこと言って」
ふたりは一瞬目を合わせるも、芹はすぐにデスクに乗った赤茶色の表紙に視線を落とした。
「これでやっと、ひと段落つきました。権堂薫著書“万華鏡の館”とやらも、佐々木淳が置いていったもので全て回収できましたし、新たな火種も着実に育ちつつある。あとは前回同様、機が熟すのを待つのみです」
「ええ。次こそは、彼を呼んでくれることを期待しているわ。私はその為に、残りの人生の全てをあなたに差し出したの。あの男をこの手に掛ける日が、待ち遠しい」
佐和子は瞳の奥で、脳裏にこびりついた相澤光政のニヤつく顔面を捕らえている。その表情に、芹は目を細めた。
「大柳様。焦りは禁物です。契約を破れば復讐の機会を失うだけでなく、この先あなたは人生を無くした状態でひとり、生きていかねばならなくなる。ちょうど野中海里が失った人生で自らのアリバイを証明できないように、あなたも自らの存在を立証できなくなります」
「わかっているわ」
「ならば、よいのですが」
再びカップを手にした芹。だが口まで持っていくその動作は少々、ぎこちない。
「大丈夫? 手、震えているけれど」
「ええ。少し疲れが出ただけです。すみませんが、井無田を呼んできて頂けますか。今の時間は食堂にいるはずですから」
わかりました、と頭を下げる佐和子。
そうして足早に食堂に向かえば、確かに井無田の姿がそこにあった。
「あの、芹さんがあなたを呼ぶようにって。なんだか具合が悪いみたい。温かいスープでも持っていきましょうか?」
「結構。ここは預かりますので、あなたは持ち場に戻ってください」
「いや、でも」
「なにか?」
「芹さんのアレ。あれはどう見ても——」
その時。佐和子の痩せた華奢な肩を、ジムで鍛えた井無田の屈強な手が掴み取る。
その握る力がだんだんと強くなっていくことに、佐和子はこれまでに感じたことのない恐怖を覚えた。
「持ち場に、お戻りください」
「……わかりました」
途端に軽くなる肩。井無田は佐和子から手を離すと、そそくさと食堂を出て行く。
佐和子は自分で自分の肩を抱きながら、ざわついた心を落ち着かせるようにひとつ、呟いた。
「井無田……あなたにシルシはないのね」
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