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第三章:黄昏の騎士
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婚約破棄の噂は、翼が生えたかのように瞬く間に王都アステルダムを駆け巡った。「悪役令嬢ルベリア、ついに王子に見限られる!」「聖女セラフィナ様こそ真の王太子妃、愛の勝利!」といった扇情的な見出しが、街角で売られるゴシップ紙の紙面を賑わせた。クロイツェル公爵家は王家からの強い圧力で外交や主要な国政から一時的に締め出され、ルベリア自身は、領地へ戻ることも許されず、王都の外れにある、今は廃墟同然となっている古い聖ルミナ修道院に幽閉されることとなった。表向きは「反省と悔悟のための自発的な隠棲」とされたが、実質的な追放だった。
かつては多くの修道女たちが敬虔な祈りを捧げ、巡礼者たちで賑わったであろうその場所も、今では数名の年老いたシスターが細々と管理するのみで、訪れる者もいない。石造りの建物は蔦に覆われ、庭は雑草が生い茂り、風が吹くたびに壊れかけた窓枠が寂しげな音を立てた。ルベリアに与えられたのは、北向きの陽の当たらない、石造りの冷たい小部屋と、パンと水、そして時折野菜のスープといった粗末な食事だけだった。華やかなドレスも、輝く宝石も、愛読していた書物さえも取り上げられ、残されたのは着の身着のままの簡素な服と、夜会の日、ドレスのポケットにこっそり忍ばせていた小さな薬草の包みだけだった。それは、彼女が温室で調合していた、心の痛みを和らげる秘薬の材料の一部だった。
「これが、私の結末なのね……。悪役令嬢の、当然の報いということかしら」
鉄格子の嵌まった小さな窓から見えるのは、荒れ果てた中庭と、どこまでも続く鉛色の空。絶望が、冷たい霧のようにじわじわと彼女の心を蝕んでいく。父や母はどうしているだろうか。家の者たちは無事だろうか。そんな心配ばかりが頭をよぎった。
そんな絶望的な日々が数週間続いたある日、修道院の古びた木の門を叩く重々しい音が響いた。老シスターが訝しげに応対すると、そこに立っていたのは、黒曜石のような艶やかな髪を持ち、夕焼け空を思わせる深い赤銅色の瞳を持つ長身の騎士だった。その男は、カイエン・アーベントロートと名乗った。アーベントロート家は、王国の北東、険しい山脈地帯に広大な領地を持つ辺境伯であり、代々国の盾として異民族の侵入を防いできた武門の家柄だ。カイエン自身は、若くして爵位を継いだが、普段は王都の喧騒を嫌い、自身の領地で質実剛健な生活を送っていると噂されていた。社交界にも滅多に顔を出さないため、その存在はどこか謎に包まれていた。
「ルベリア・フォン・クロイツェル嬢に、面会の許しを願いたい」
カイエンの低い声は、静かで落ち着いていたが、有無を言わせぬ不思議な威厳があった。シスターは戸惑いながらも、彼が持参した国王からの特別な面会許可証(それは、彼が王家に対して過去に立てた大きな功績に対する褒賞の一つとして得たものだった)を確認し、ルベリアにその旨を伝えた。
ルベリアは心底驚いた。こんな自分に会いに来る者などいるはずがない。アルフレッドやセラフィナが、さらに自分を貶めるための新たな罠を仕掛けてきたのかもしれない。しかし、この出口の見えない退屈と絶望の日々の中で、ほんの少しの好奇心と、万が一の淡い期待が芽生えたのも事実だった。
面会室として使われている、埃っぽい礼拝堂の一角に現れたカイエンは、高価なものではないが上質な黒の旅装束に身を包んでいた。その鍛え上げられた体躯と、無駄のない立ち姿には、辺境の厳しい自然の中で生きる者の強靭さが滲み出ていた。彼はルベリアを一瞥すると、その赤銅色の瞳を真っ直ぐに彼女に向け、静かに口を開いた。
「ルベリア嬢、初めまして。カイエン・アーベントロートと申します。突然の訪問、お許しいただきたい。このような状況でお会いすることになり、心苦しく思う」
「……アーベントロート辺境伯。噂に名高い方が、何の御用ですの?今のわたくしに、あなた様のような方が関わるメリットなど、何一つございませんでしょう。それとも、わたくしの惨めな姿を笑いにいらしたのかしら?」
ルベリアは警戒心を露わにし、皮肉を込めて言った。これ以上傷つけられるのはごめんだった。
カイエンは微かに口元を緩めた。それは嘲笑ではなく、どこか温かみと、そしてわずかな苦痛を湛えた複雑な表情だった。
「メリット、ですか。確かに、今のあなたに関わることは、王家や多くの貴族の反感を買う危険な行為かもしれませんな。しかし、私はあなたに純粋な興味があるのです。王都で囁かれる『悪役令嬢』の噂と、私が独自に調べ上げたあなたの本当の姿には、あまりにも大きな隔たりがあるように感じましたので」
ルベリアは息を飲んだ。この男は、一体何を知っているというのか。彼の言葉は、彼女の心の壁を静かに叩いた。
「あなたの温室で育てている数々の薬草のこと、夜にしか咲かないと言われる幻の月の花のこと。そして何よりも、あなたがその薬草の知識を使い、身分を隠して王都の貧しい地区の民へ、無償で薬を施していたことも」
それは、ルベリアが誰にも知られないように、たった一人の信頼できる老侍女の手を借りて、細々と続けていたことだった。父の教えで始めた薬草の研究。その知識を使い、豪華なドレスを脱ぎ捨て、質素な服に着替えて顔を隠し、病に苦しむ人々を助けていたのだ。それが、彼女にとって唯一の「善行」であり、偽りの仮面の下で息苦しさを感じていた彼女の、心の救いでもあった。
「なぜ、それを……。誰にも話したことはありませんわ」
「私の目は、見せかけの姿や表面的な噂には騙されませんので。人の本質は、その行いに現れるものです」
カイエンの赤銅色の瞳が、真っ直ぐにルベリアの魂を見据える。その瞳には、アルフレッドや他の誰からも向けられたことのない、深い理解と、慈しみに似た優しさが宿っていた。まるで、長年探し続けていた何かを見つけたかのような、強い光があった。
「ルベリア嬢。あなたは、本当に『悪役』なのでしょうか?それとも、そう演じるしかなかった悲しい姫君なのでしょうか?」
その言葉は、まるで魔法のように、ルベリアの心の奥深くに突き刺さった。長年、何重にも固く閉ざしていた仮面が、音を立てて砕け散っていくのを感じた。気づけば、彼女の紫水晶の瞳からは、こらえきれない大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。それは、婚約破棄の屈辱や悲しさだけではない、初めて誰かに本当の自分を理解してもらえたことへの、魂の奥からの安堵の涙だった。彼女は子供のように嗚咽し、カイエンはその姿を静かに見守っていた。
かつては多くの修道女たちが敬虔な祈りを捧げ、巡礼者たちで賑わったであろうその場所も、今では数名の年老いたシスターが細々と管理するのみで、訪れる者もいない。石造りの建物は蔦に覆われ、庭は雑草が生い茂り、風が吹くたびに壊れかけた窓枠が寂しげな音を立てた。ルベリアに与えられたのは、北向きの陽の当たらない、石造りの冷たい小部屋と、パンと水、そして時折野菜のスープといった粗末な食事だけだった。華やかなドレスも、輝く宝石も、愛読していた書物さえも取り上げられ、残されたのは着の身着のままの簡素な服と、夜会の日、ドレスのポケットにこっそり忍ばせていた小さな薬草の包みだけだった。それは、彼女が温室で調合していた、心の痛みを和らげる秘薬の材料の一部だった。
「これが、私の結末なのね……。悪役令嬢の、当然の報いということかしら」
鉄格子の嵌まった小さな窓から見えるのは、荒れ果てた中庭と、どこまでも続く鉛色の空。絶望が、冷たい霧のようにじわじわと彼女の心を蝕んでいく。父や母はどうしているだろうか。家の者たちは無事だろうか。そんな心配ばかりが頭をよぎった。
そんな絶望的な日々が数週間続いたある日、修道院の古びた木の門を叩く重々しい音が響いた。老シスターが訝しげに応対すると、そこに立っていたのは、黒曜石のような艶やかな髪を持ち、夕焼け空を思わせる深い赤銅色の瞳を持つ長身の騎士だった。その男は、カイエン・アーベントロートと名乗った。アーベントロート家は、王国の北東、険しい山脈地帯に広大な領地を持つ辺境伯であり、代々国の盾として異民族の侵入を防いできた武門の家柄だ。カイエン自身は、若くして爵位を継いだが、普段は王都の喧騒を嫌い、自身の領地で質実剛健な生活を送っていると噂されていた。社交界にも滅多に顔を出さないため、その存在はどこか謎に包まれていた。
「ルベリア・フォン・クロイツェル嬢に、面会の許しを願いたい」
カイエンの低い声は、静かで落ち着いていたが、有無を言わせぬ不思議な威厳があった。シスターは戸惑いながらも、彼が持参した国王からの特別な面会許可証(それは、彼が王家に対して過去に立てた大きな功績に対する褒賞の一つとして得たものだった)を確認し、ルベリアにその旨を伝えた。
ルベリアは心底驚いた。こんな自分に会いに来る者などいるはずがない。アルフレッドやセラフィナが、さらに自分を貶めるための新たな罠を仕掛けてきたのかもしれない。しかし、この出口の見えない退屈と絶望の日々の中で、ほんの少しの好奇心と、万が一の淡い期待が芽生えたのも事実だった。
面会室として使われている、埃っぽい礼拝堂の一角に現れたカイエンは、高価なものではないが上質な黒の旅装束に身を包んでいた。その鍛え上げられた体躯と、無駄のない立ち姿には、辺境の厳しい自然の中で生きる者の強靭さが滲み出ていた。彼はルベリアを一瞥すると、その赤銅色の瞳を真っ直ぐに彼女に向け、静かに口を開いた。
「ルベリア嬢、初めまして。カイエン・アーベントロートと申します。突然の訪問、お許しいただきたい。このような状況でお会いすることになり、心苦しく思う」
「……アーベントロート辺境伯。噂に名高い方が、何の御用ですの?今のわたくしに、あなた様のような方が関わるメリットなど、何一つございませんでしょう。それとも、わたくしの惨めな姿を笑いにいらしたのかしら?」
ルベリアは警戒心を露わにし、皮肉を込めて言った。これ以上傷つけられるのはごめんだった。
カイエンは微かに口元を緩めた。それは嘲笑ではなく、どこか温かみと、そしてわずかな苦痛を湛えた複雑な表情だった。
「メリット、ですか。確かに、今のあなたに関わることは、王家や多くの貴族の反感を買う危険な行為かもしれませんな。しかし、私はあなたに純粋な興味があるのです。王都で囁かれる『悪役令嬢』の噂と、私が独自に調べ上げたあなたの本当の姿には、あまりにも大きな隔たりがあるように感じましたので」
ルベリアは息を飲んだ。この男は、一体何を知っているというのか。彼の言葉は、彼女の心の壁を静かに叩いた。
「あなたの温室で育てている数々の薬草のこと、夜にしか咲かないと言われる幻の月の花のこと。そして何よりも、あなたがその薬草の知識を使い、身分を隠して王都の貧しい地区の民へ、無償で薬を施していたことも」
それは、ルベリアが誰にも知られないように、たった一人の信頼できる老侍女の手を借りて、細々と続けていたことだった。父の教えで始めた薬草の研究。その知識を使い、豪華なドレスを脱ぎ捨て、質素な服に着替えて顔を隠し、病に苦しむ人々を助けていたのだ。それが、彼女にとって唯一の「善行」であり、偽りの仮面の下で息苦しさを感じていた彼女の、心の救いでもあった。
「なぜ、それを……。誰にも話したことはありませんわ」
「私の目は、見せかけの姿や表面的な噂には騙されませんので。人の本質は、その行いに現れるものです」
カイエンの赤銅色の瞳が、真っ直ぐにルベリアの魂を見据える。その瞳には、アルフレッドや他の誰からも向けられたことのない、深い理解と、慈しみに似た優しさが宿っていた。まるで、長年探し続けていた何かを見つけたかのような、強い光があった。
「ルベリア嬢。あなたは、本当に『悪役』なのでしょうか?それとも、そう演じるしかなかった悲しい姫君なのでしょうか?」
その言葉は、まるで魔法のように、ルベリアの心の奥深くに突き刺さった。長年、何重にも固く閉ざしていた仮面が、音を立てて砕け散っていくのを感じた。気づけば、彼女の紫水晶の瞳からは、こらえきれない大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。それは、婚約破棄の屈辱や悲しさだけではない、初めて誰かに本当の自分を理解してもらえたことへの、魂の奥からの安堵の涙だった。彼女は子供のように嗚咽し、カイエンはその姿を静かに見守っていた。
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