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第2章

見えるもの、つかめぬもの(3)

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「……え、」

 思わず、途方に暮れた声が出る。
 人間、人、間。人間って何かなと来たか。大したことじゃないって言ってたのにその哲学的で深い問いはなんなんだ!? 死角からのアッパーに私は混乱していた。

「人間……」

 星野の視線を感じながらも、私はその単語を反芻はんすうするのがやっとで、言葉が見つからない。
 しばらく唸っていると、申し訳なさそうな表情の星野が口を開いた。

「人間になってみて何日か経つけど、人間ってなんなんだろうって思ったんだ。そんなに難しい質問だったかな……?」
「難しいよ……」

 げんなりしながら答える。それから、一つ呼吸をした。

「私も人間だし、真理も人間だし、学校にいる人みんな人間……っていうのじゃ、だめ? 犬とかとの違いはわかるでしょ?」

 すると星野は、小さく首をひねる。

「外見の特徴から人間だと認知は出来るけれど、それだと僕も人間だということになってしまわない? そうじゃなくて、僕と人間の違いは、何なのか訊きたくて」
「…………うーん」

 私は唸り声をあげて考え込む。星野と人間との違い、ときたか。

「人間特有の特徴としては、言葉をつかう、道具を発明する、文明をもつ、自ら服をまとう、手指が発達していて器用、とか、そんな感じかなあ」

 とりあえずどこかで習った内容を引っ張り出しながら、挙げていく。けれどそれは、星野が全てもっているものだ。彼と人間との違い、という問いの答えにはならない。

「うーん……種としてはヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族ヒト属のホモ・サピエンスと言って、地球上で進化した生物。だから星野は違う。……私には、これくらいしか言えない、かな」

 告げた答えは、我ながら驚くほどに定義的で、味気ない。けれどどう頑張っても、それ以上気の利いた答えを用意できそうもなかった。
 多分星野が求めている答えではないだろう。自分で答えておきながらそんなことを感じて、ちらりと星野を覗き込むと、意外にも、それなりに納得した様子の彼の顔があった。

「なるほど。松澤さんはそう考えるんだね」

 うんうん、と頷きながら、星野はそう言う。けれど逆に、私が納得出来ていなかった。
 私の考え。私の考えなのだろうか。言われてみると、何か違う気がした。

「……」

 けれど他に、何か言えるわけでもない。釈然としない気持ちを抱えながら、私は黙り込んだ。
 星野はさらに質問を続ける。

「じゃあさ、『生きている』というのは? どういうものなのかな。僕のいたところにはなかった概念だから、教えて欲しくて」
「……うーん」

 また、厄介な質問が来た。私はしばし黙考して、それからいつか生物の授業で先生が言っていたことを思い出した。

「例えば……代謝を行っていて、子孫を残したり増殖したりする能力があって、恒常性こうじょうせいを維持できる……とか、そんな感じだったかな」

 恒常性、とは、外界の環境が変わってもある程度内界の環境を維持できる能力のことだ。恒常性の破綻を死と定義することもあったはず。
 ……また、物理的な話になってしまった。星野が聞きたいのは、そういうことではないだろうに。

「……ごめん、こういうことしか言えない」

 申し訳なくなって思わず謝る。星野はぎょっとした顔をした。

「な、なんで謝るの? 僕は答えが聞けたのに、謝ってもらうことなんてないよ」
「……うん」

 星野の言葉に、嘘は見られない。多分私がいたたまれなくなっているのは、自分で自分の答えに不満があるから、だろう。
 間違った答えではないはずだ。ただちょっと、定義的になってしまっただけで。けれど、自分自身にも大きく関係があることをそう結論付けてしまうのは、なんだか寂しいように感じた。理由は、わからないけれど。
 唐突に、『夢がない』という言葉が浮かんで、何故かしっくり来た。そうか、夢が、足りないのか。
 例えば真理なら、生きることを『幸せを見つけること』だとか言うのだろうか。そういうことが、夢があることというのだろうか。
 生きる、って、なんだろう。ただ呼吸をしてここに在ることでは、駄目なのだろうか。
 ──きっと、駄目なんだろう。だから私の鞄の中には、まだ白紙の進路希望票があるわけで。
 生きることに素敵な定義を見つけられるような『夢』なんて、どこかに置いてきてしまった。生きる事は、古くなっていくことだ。そんなふうに思った。身体も、心も。少しずつ錆び付いていって、段々動くことも、呼吸することも、何もかもが昔より難しくなっていくんだ。

「……松澤さんも、よくわかってないんだね」

 黙り込んだ私をしばらく眺めて、星野はぽつりと呟いた。
 はっと顔を上げる。彼は何故か、少しほっとしたような顔をしていた。

「よかった。当たり前なことが僕だけわからないんじゃないかと心配してたんだけど、松澤さんもわかってないんだね。なんかちょっと、ほっとした」
「……うん。わからないや。あんまり考えないもん。人間とか、生きるとか」
「僕と違って自分のことなのにね。面白いなあ」

 楽しそうに、星野は笑い飛ばす。まるで、わからないことが大したことないというように。
 ……いや、大したことなんて、ないんだろう。人間は、完璧ではないのだから、わからないことだらけなんだろう。
 そう考えたら、少しだけ心が軽くなった、気がした。

「……私には、人間が何かなんてわからないからさ、」

 少し考えて、口を開く。
 星野が顔を上げる。私たちの視線が、しばし、交差した。

「星野が人間じゃない、とも言いきれないよ」

 ちょっとだけ迷いながら、けれど結局告げる。
 今、こうして、同じ教室で一緒に日直をやって、そして私に見えていなかったものを見せてくれる。
 そんな星野が、絶対に人間ではないと言うのは、なんだか寂しいことのように感じたのだ。

「……じゃあもしかして、僕ももう、『人間』なのかな」

 星野は一瞬驚いたような顔をして、それから楽しそうに、少し悪戯っぽく、そう言う。

「私にとっては、そうかも」

 だから私も、悪戯っぽく告げた。
 そして二人して、可笑しくなって笑いを漏らす。
 なんだかとっても、気分がよかった。
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