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第4章
遠ざかる宇宙の壁(3)
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「叶多」
届くはずもないのに、名前を呼ぶ。もし聞こえたら、彼は思い直してくれるだろうか?
雲一つない、絵の具を溶かしたような青空が、叶多の瞳の色のようだと思った。あんなふうに、混じりけのない水色で──
「水色?」
ふと、引っ掛かりを覚えて、思わず声に出して呟いた。叶多の瞳の色は、あんなに明るかっただろうか?
おか、しい。何かが違う。何かが違うのに、どうだったのか、思い出せない。叶多の瞳がどんな色を宿していたか、どんな虹彩に私を映していたのか、思い出せるはずなのに、思い出せない。
落ち着いて、そんなはずはない。私は逸る鼓動をなんとか落ち着かせて、大きく深呼吸した。思い出せ、叶多と過ごした時間のこと。
やっぱり一番多くを過ごしたのは、夜空の下でだろう。星見峠だったり、花火大会だったり、街の上からだったり。
──そうだ、叶多の瞳は、夜空のような深い藍色だった。まるで星空を溶かしたかのように深くて、けれど流星のように瞬いていて。その瞳に、私は惹かれたんだろう。
ようやく思い出せて、それがとてもしっくりきて、私はようやく安心した。そうだ、それが、私の知ってる叶多の姿だ。
そして、ほっとすると同時に恐ろしくもなった。どうして、叶多の瞳が水色だなんて思ったんだろう。昨日まで当たり前のように見ていて、忘れるはずなんてないのに。
まさか──私の中からも、叶多という存在が、消えかけている?
叶多の存在が、学校のみんなの記憶から、学校の中から、綺麗さっぱりなくなっていたように、私にそれが起こらないという確証が、あるわけではない。
そう、思い至った瞬間、恐ろしくなった。私の中から、叶多が消える? 私も、真理やみんなと同じように、叶多のことを何もかも、忘れてしまうの?
すっと、血の気が引く。叶多のことを忘れてしまう事は、耐えられなかった。もう二度と会えないことより、何より、叶多にもらったいくつもの大切な記憶がなくなってしまうことが、恐ろしかった。だって、忘れてしまうという事は、私が大切なものをもっていたということさえも、気付かなくなってしまうということで。
星野、叶多。宇宙から突然やってきた隕石で、私の血をもとに人間の体を得て、突然クラスメイトになった、不思議な人。まっすぐな瞳で、私がいつしか置いてきてしまっていた色々なものを、気付かせてくれた人。
そう、だ。そのはず、だ。何か、忘れている事はないだろうか? さっきみたいに、間違っている事は無いだろうか?
わからない、わからないだけに、こわかった。知らないうちに叶多の記憶が消えてしまうような気がして、怖かった。昨日まで当たり前のように思い出せたことを、今、思い出そうとしなければ思い出せないことが、恐ろしくて仕方がなかった。
思い出せる。今はまだ、ちゃんと思い出せる。
──けれどいつか、叶多という人がいたことすらも忘れてしまうのだろうか?
「嫌だよ、叶多……っ」
その言葉を吐いても、勇気づけるように手を握ってくれる人は、どこにもいなかった。
一週間経った。毎日、叶多のことを思い出すことが日課になった。思い出せる限りを、ノートに書き付けることもしたけれど、書いても書いても、端から消えてしまっていった。叶多という存在を残すことが、どうしても出来なかった。だから私は、毎日必死に、叶多を覚えているかを確認していた。
一日目、瞳の色が咄嗟に思い出せなかった。
二日目、どんな声をしていたかを、思い出せなくなった。少ししたらようやく蘇って、ほっとして座り込んでしまった。
三日目、叶多の名字を思い出せなくなった。出席番号がどのくらいだったか、わからなかった。落ち着いたら、ロマンチックな名前と真理が言っていたことを思い出して、やっと星野叶多と浮かんできた。
四日目、自転車を見ても、それで叶多と一緒に空を飛んだことを思い出せなかった。最後の日、夜空を散歩したことを思い出して、芋づる式に浮かんできた。
五日目、また、声がわからなくなった。夜になっても、どうしてもわからなかった。今も、なんとなく聞いていて快かった事は覚えているけれど、確証がもてない。
六日目、叶多の住んでいた家が、どこにあったかわからなかった。私の家に行く手前なのはわかるけれど、どの家かさっぱりわからなくなってしまっていた。
七日目、今日。模試の帰り道、逃げ出した私を迎えに来てくれた叶多が何を言ってくれたのか、思い出せない。
どうせ消えてしまうとわかっていても、ガリガリとノートに書き付ける作業を続ける。暗記は書いて覚えるタイプなので、こうしていれば覚えていられる気がした。
実際は、それでも忘れてしまうのだけど。
「……忘れたくないよ」
ぽつり、私の声は誰にも届かずに空中に消える。忘れたく、なかった。日に日に叶多に関する記憶が薄れていく。私の中から、叶多が消えていく。
誰もいない部屋で、膝を抱えて頭を埋めた。涙が出そうだったけど、泣いたら一緒に記憶まで流れてしまいそうで、耐えた。受け止めてくれる叶多がいないから、泣けない。
忘れないよう、思い出す。それでも記憶は、消えていく。
助けてくれる人は、もうこの星のどこにもいない。
゜
*
*
【ハッブルの法則】
1929年、エドウィン・ハッブルとミルトン・ヒューメイソンによって発表された、宇宙が膨張していることを示す法則。ある天体が地球から遠ざかる速さとその距離が正比例の関係にあることを表す。138億年前、宇宙がビッグバンによって誕生したその時から現在まで、それは広がり続けているという。
届くはずもないのに、名前を呼ぶ。もし聞こえたら、彼は思い直してくれるだろうか?
雲一つない、絵の具を溶かしたような青空が、叶多の瞳の色のようだと思った。あんなふうに、混じりけのない水色で──
「水色?」
ふと、引っ掛かりを覚えて、思わず声に出して呟いた。叶多の瞳の色は、あんなに明るかっただろうか?
おか、しい。何かが違う。何かが違うのに、どうだったのか、思い出せない。叶多の瞳がどんな色を宿していたか、どんな虹彩に私を映していたのか、思い出せるはずなのに、思い出せない。
落ち着いて、そんなはずはない。私は逸る鼓動をなんとか落ち着かせて、大きく深呼吸した。思い出せ、叶多と過ごした時間のこと。
やっぱり一番多くを過ごしたのは、夜空の下でだろう。星見峠だったり、花火大会だったり、街の上からだったり。
──そうだ、叶多の瞳は、夜空のような深い藍色だった。まるで星空を溶かしたかのように深くて、けれど流星のように瞬いていて。その瞳に、私は惹かれたんだろう。
ようやく思い出せて、それがとてもしっくりきて、私はようやく安心した。そうだ、それが、私の知ってる叶多の姿だ。
そして、ほっとすると同時に恐ろしくもなった。どうして、叶多の瞳が水色だなんて思ったんだろう。昨日まで当たり前のように見ていて、忘れるはずなんてないのに。
まさか──私の中からも、叶多という存在が、消えかけている?
叶多の存在が、学校のみんなの記憶から、学校の中から、綺麗さっぱりなくなっていたように、私にそれが起こらないという確証が、あるわけではない。
そう、思い至った瞬間、恐ろしくなった。私の中から、叶多が消える? 私も、真理やみんなと同じように、叶多のことを何もかも、忘れてしまうの?
すっと、血の気が引く。叶多のことを忘れてしまう事は、耐えられなかった。もう二度と会えないことより、何より、叶多にもらったいくつもの大切な記憶がなくなってしまうことが、恐ろしかった。だって、忘れてしまうという事は、私が大切なものをもっていたということさえも、気付かなくなってしまうということで。
星野、叶多。宇宙から突然やってきた隕石で、私の血をもとに人間の体を得て、突然クラスメイトになった、不思議な人。まっすぐな瞳で、私がいつしか置いてきてしまっていた色々なものを、気付かせてくれた人。
そう、だ。そのはず、だ。何か、忘れている事はないだろうか? さっきみたいに、間違っている事は無いだろうか?
わからない、わからないだけに、こわかった。知らないうちに叶多の記憶が消えてしまうような気がして、怖かった。昨日まで当たり前のように思い出せたことを、今、思い出そうとしなければ思い出せないことが、恐ろしくて仕方がなかった。
思い出せる。今はまだ、ちゃんと思い出せる。
──けれどいつか、叶多という人がいたことすらも忘れてしまうのだろうか?
「嫌だよ、叶多……っ」
その言葉を吐いても、勇気づけるように手を握ってくれる人は、どこにもいなかった。
一週間経った。毎日、叶多のことを思い出すことが日課になった。思い出せる限りを、ノートに書き付けることもしたけれど、書いても書いても、端から消えてしまっていった。叶多という存在を残すことが、どうしても出来なかった。だから私は、毎日必死に、叶多を覚えているかを確認していた。
一日目、瞳の色が咄嗟に思い出せなかった。
二日目、どんな声をしていたかを、思い出せなくなった。少ししたらようやく蘇って、ほっとして座り込んでしまった。
三日目、叶多の名字を思い出せなくなった。出席番号がどのくらいだったか、わからなかった。落ち着いたら、ロマンチックな名前と真理が言っていたことを思い出して、やっと星野叶多と浮かんできた。
四日目、自転車を見ても、それで叶多と一緒に空を飛んだことを思い出せなかった。最後の日、夜空を散歩したことを思い出して、芋づる式に浮かんできた。
五日目、また、声がわからなくなった。夜になっても、どうしてもわからなかった。今も、なんとなく聞いていて快かった事は覚えているけれど、確証がもてない。
六日目、叶多の住んでいた家が、どこにあったかわからなかった。私の家に行く手前なのはわかるけれど、どの家かさっぱりわからなくなってしまっていた。
七日目、今日。模試の帰り道、逃げ出した私を迎えに来てくれた叶多が何を言ってくれたのか、思い出せない。
どうせ消えてしまうとわかっていても、ガリガリとノートに書き付ける作業を続ける。暗記は書いて覚えるタイプなので、こうしていれば覚えていられる気がした。
実際は、それでも忘れてしまうのだけど。
「……忘れたくないよ」
ぽつり、私の声は誰にも届かずに空中に消える。忘れたく、なかった。日に日に叶多に関する記憶が薄れていく。私の中から、叶多が消えていく。
誰もいない部屋で、膝を抱えて頭を埋めた。涙が出そうだったけど、泣いたら一緒に記憶まで流れてしまいそうで、耐えた。受け止めてくれる叶多がいないから、泣けない。
忘れないよう、思い出す。それでも記憶は、消えていく。
助けてくれる人は、もうこの星のどこにもいない。
゜
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【ハッブルの法則】
1929年、エドウィン・ハッブルとミルトン・ヒューメイソンによって発表された、宇宙が膨張していることを示す法則。ある天体が地球から遠ざかる速さとその距離が正比例の関係にあることを表す。138億年前、宇宙がビッグバンによって誕生したその時から現在まで、それは広がり続けているという。
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