王国の飛行騎士

神田柊子

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夜の森

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 小柄な影が夜の森を駆けていた。
 三日降り続いた雨でぬかるんだ地面。下生えの笹をかき分ける道とも言えない道。張り出した根っこに何度も足を取られた。
 それでもサリヤは走って――逃げていた。
「逃げなさい! どこでもいいから行きなさい!」
 置いてきた母の声が耳の奥でずっとこだましている。
 母は背中を切りつけられていた。安否を思うと足が止まりそうになるから今は考えない。
 冷たい雨と温かい涙がサリヤの顔を濡らしていた。
 突然、視界が開けた。森を抜ける。足元が滑ったサリヤは髪を掴まれて引き戻された。
 ごうごうという大きな音は川だ。
 少し先は地面がなく、真っ暗な谷が口を開けている。風が下から吹き上げた。
「痛っ!」
 泥の中にへたりこむと、髪を引っ張られた。
 サリヤの髪を掴んでいるのは黒いぴたりとした上下に身を包んだ男だった。真上から覗き込むようにこちらを見下ろしている。
 逃げていたのだから当然追いかけられているだろうとは思っていた。しかし今まで全く気配がなかったのだ。まだ距離があるとサリヤは思っていた。それが突然音もなく現れたのだから、サリヤは心底恐ろしく思った。
「へぇ」
 細身の男は顔を布で覆っており、目元だけが見えていた。その目が三日月のように弧を描く。
「なるほどね」
 男はサリヤの首に手を伸ばす。
「カッラ王子は、女か」
 それを聞いた瞬間、サリヤは体を捻った。隠し持っていた短剣で髪を切って、男の手を逃れる。
 この短剣で立ち向かおうとは思わなかった。王子として剣術も習ったが、サリヤに才能はなかった。
 ここで逃げられたとしても遅かれ早かれ殺される。
 どちらにしても殺されるなら、亡骸を残してはいけない。
 谷に身を躍らせると、一瞬のちにサリヤは濁流に飲み込まれた。
 ――どこでもいいから生きなさい!
 母はそう言ったのかもしれないと、意識を失う寸前にサリヤはふと思った。

「あーあ。落ちちゃったなぁ。失敗失敗」
 崖の上に残された男は呑気な声を上げて、川を見下ろした。
 長雨のせいでいつもよりも水量が多いのだろう。小さな体はあっけなく流されていく。
「あ、沈んだ」
 依頼内容は暗殺と遺体の処分だ。生死不明のままでは完遂したとは言えない。
 国境と決められているこの川の向こうはベールルーベ王国だった。そちらには森の中で暮らす民もいる。助けられる可能性も考えると追いかけるしかない。
 手の中の長い髪を一瞥し、男は「めんどくせぇなぁ」と悪態をついた。
 雨に濡れた髪は、闇夜の中でも黒く艶やかな輝きを湛えていた。
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