上 下
44 / 77

プリンシパル

しおりを挟む
 昼食を済ませて訪れたのは劇場。

「ここは『ブリッツ座』ッス。世界で最初に建てられた劇場で、あのナイトリー卿も好んで観劇してることでも有名ッス」

 と言われてもピンと来ない。
 この世界では有名人だのだろう。

「今日はベルソー・ド・オーンジュの公演があるッス。いや~運がいいッス」

 人気の劇団を目当てに多くの人が集まっていた。

「ベルソー・ド・オーンジュ……? そんなにスゴイんですか?」

「その劇団なら僕も知ってるよ。人生で一度は観るべきだってよく話してたよクr……」

 オリヴァーが言いかけた人の名は彼女しかいない。

「楽しみだね。早く入ろう!」

 オリヴァーは下手な誤魔化し方だったが、幼馴染の深い業と死をすぐに受け入れろというのも酷なのかもしれない。

 私とイワンは特に触れることなく、そそくさと劇場内に入る。

(オリヴァーの中にいるクロエさんは優しいままなのかな……)

 

 そんな心のつかえは、劇場の豪奢な内装で吹き飛んだ。

 何百人も収容できる大ホールでは、老若男女の観客が今か今かとざわついている。
 舞台を余すところなく見渡せる特等席には、とりわけ洗練された衣装を身にまとった貴族がいる。

「あの赤いドレスを着てるのは、ナリスバーグの大統領夫人ッス。今日はアイゼンヴァルツ大統領も来るかもしれないッス」

 国の重要人物まで訪れるとは、相当の注目度だ。

 バレエ鑑賞など初めてで何となくの雰囲気で分かった気でいるものだと思っていたが、入口近くで配布しているパンフレットのおかげでストーリーには付いていけそうだ。

 本日の演目「恵みの雨」は、ベルソー・ド・オーンジュで一番有名なものらしい。

 劇場内が暗くなると観客は静かになり、舞台の幕が上がる。

 
 ストーリーは人々の穏やかで豊かな暮らしから始まる。
 この村周辺は砂漠地帯だが、オアシスにより自然との共生に成功している。

 群舞の真ん中で踊っているのはジーナとテミール。

 ジーナがテミールを愛しているように、テミールもジーナを愛していた。

 全身で表現する2人の愛は、大輪のバラのように観客の心を掴む。

 幸せな暮らしは長くは続かず、この辺りから踊りは混乱や苦悩の表情を見せる。
 雨が降らなくなりオアシスが枯れてしまったのだ。

 村人は話し合い、原因は豊穣の神プラトニコの怒りだと結論付ける。
 試練を乗り越えるべくもがき苦しんだ村人たちの先にいたのは、美しく踊るジーナだった。

 ジーナはプラトニコに捧げる生贄に選ばれてしまう。

 必死に抵抗するジーナとテミール。
 あの広い舞台の端から端まで踊ることで、手を取り合い村人から逃れようとする激しさが伝わる。

 ダイナミックな演技は何時間にも感じられた。
 遂に2人は疲れ果て、村人により引き剥がされてしまう。

 ジーナに迫り来る最期。
 孤独と絶望に打ちひしがれたジーナは、孤独に踊り続ける。

 そこに美しいものを美しいと称えてたあの頃の優しい村人たちはいなかった。

 儀式が始まろうとしたその時、テミールがジーナを連れ去った。

 2人は駆ける。
 誰の手も届かない場所を目指し、走り続ける。

 ようやくたどり着いた安息の地。
 何もない砂漠だが、ジーナにはテミールがいる!
 それだけで世界は色付いた。

 しかしハッピーエンドで終わることはできなかった。

 テミールが脱水症状で倒れてしまった。
 これまで力強い演技で安心感を与えてくれたテミールの弱々しい動きに、観客の誰もが死を覚悟しただろう。
 ……ジーナ以外は。

 ジーナだけはテミールを救う術を知っていた。
 彼女が今ここで生贄になり、雨を降らせることだ。

 ジーナは公演内で最も美しく希望に満ち溢れた踊りで、神に祈りを捧げる。

 やがてそれは儚げになり、ジーナが天に昇り地上に降り注ぐ雨となったことが理解できる。

 テミールの命はジーナの命によって救われた。
 人間の形を失ったジーナがテミールを今でも愛しているかは、フィナーレを見れば誰でも同じ考えを持つだろう。

 彼女は今日もどこかで踊り続け、雨となって恵みをもたらしている。


 幕が下りて、クロエの言葉を思い出した。

――――人生は思うがままに踊ってこそ高潔で尊いものになるのよ!! わたくしたちは皆、強欲でいつも何かを追いかけてるの。本当に悪いのは舞台で踊る自分を恥じること。失敗を恐れて踊りを止めてしまうことです!!

 クロエと同じ演目を観たのだとしたら、私はクロエのようにはなれないしなりたくもないと思った。

 ジーナは孤独に苛まれた時もテミールを想い、決して一人では生きていけないことを証明した。
 
 自分の欲望を満たすために他人の排除することの浅ましさ。

 
 ジーナ役を務めたプリンシパルは、最後に全出演者と共にスタンディングオベーションを受けた。

 彼女が強欲に縛られて踊っていたならば、こんなに涙する観客はいなかっただろう。
 何より自分のためにしか踊ることのできない弱さを恥じたことだろう。

 クロエは失敗を恐れず踊り続けたのではなくて、失敗するまで踊るしかなかった。

 一緒にスタンディングオベーションを受けてくれる人がいなかったから。
 ハッピーエンドもバッドエンドも、幕を下ろしてくれる人が必要なのだ。


 
 芸術に触れセンチメンタルになった傍らで、イワンとオリヴァーは談笑している。

「いやぁ~凄かったッス! どうやったらあんな筋肉が付くのか不思議ッス」

「途中ホール全体が暗くなって眠くなっちゃったよ」

 …………。

 余韻に浸るのはほどほどにして、劇場を出ることにした。
しおりを挟む

処理中です...