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海上の長い夜②

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「僕はパラスリリーの平凡な家庭で生まれた。母さんも父さんも商会に香水を売って生計を立てていた。僕が9歳の時、父さんは貿易の手伝いをするため海に出た」

 どことなく今の状況を連想させる。

「父さんがおかしくなったのはそれからだった。何かにつけてパラスリリーを田舎臭いと馬鹿にし、母さんに暴力を振るうようになった。汚れきった『心』では薬を作ることなんてできない。段々2人は喧嘩することが多くなって、ある日激しく口論していた」

 まさか……。

「母さんの叫び声が聞こえて、またすぐに聞こえなくなった」

 オリヴァーは小刻みに震えている。

「母は頭から血が流れた状態で、息はしていなかった。その日から僕は『罪人の子供』になった。誰かに後ろ指を指されたわけじゃない。でも僕は自分が忌々しい存在だと嫌悪した」

 映画のワンシーンでも目を背けたくなるような光景だ。

 心身がまだ未熟な少年オリヴァーには、もっと受け入れがたい現実だっただろう。

 安易な言葉では慰められない。


「それと同時に、僕は外の世界を憎んだ。優しかった父さんをあんな風にしたのは外の世界だと思えば、パラスリリーで生きる理由を見つけられたんだ」

「だから私がナリスバーグに行くのを反対したんですね」

 問いかけに対する沈黙を肯定として捉える。

「あの頃から時間が止まったまま成長できなかった。サクラが出航を決意した時、また悲劇が繰り返されると思った」

 オリヴァーは無理やり笑顔を作る。

「馬鹿だよなぁ。僕はサクラを信じないで、忘れたい過去に縋ったんだよ。でも2日間ずっと考えて気付いた。僕は世界を広げなきゃならない。家族3人で暮らしたあの家から出て行く時が来たんだ」

 手をギュッと握られる。

 ビクッと体を仰け反ろうとするが、オリヴァーの緑色の目から逃げられない。

「気付かせてくれたのは、僕を引っ張り出してくれたのは君だよ。サクラが遠く離れてしまうと思ったら、いてもたってもいられなかった。樽の中に入ったのなんて初めてだよ」

 トラウマや葛藤を言葉にしてスッキリしたのか、いつもの飄々としたオリヴァーに戻ってきた。

 しかし私はそれを喜んでいる場合ではない。

「オ、オリヴァー、手を…………」

 ずっと握られた手はすでに汗ばんでいる。

 全身がドクドクと脈打ち、大嵐に遭遇したかのように船が揺れている感覚。
 今、私は留まることなく恋に落ち続ける最中にいる。

 
 オリヴァーは懇願に応じるどころか、むしろ握る力を強くした。

「僕はサクラを守りたい。約束するよ」

(これって告白の返事!?)

 正常な思考回路を失い、自分に都合の良い解釈だけが浮かんでくる。
 そしてそれは私の顔をますます紅潮させた。

「そ、そうですね!! 私は、もっ、元々、変なところから来た人間なので、ナリスバーグに行っても変わりませんし!! リ、リチャードさんに良いほっ、報告ができるように、が、頑張りますっ!!」

 一瞬力が緩んだ隙を逃さず、バッと立ち上がる。
 外の空気を吸って冷静になりたい。

 そのまま立ち去ろうとするが、オリヴァーの話はまだ終わっていなかった。
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