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2章 Secret Origins
【十】どちらに注目するかだ
しおりを挟むジェーン・エルロンドの実家は滅んだ。
悲しいことだ。屋敷は、また作れるだろう。
だが、あそこまで正気を失った男が当主であり続けるなら、
この先も苦労は絶えない。
ホテルのテラスから、ぐるりと周囲を見渡す。
「きれいな夕日だな」
これまで、ジェーンが生きる世界や国は、
ほとんど彼女を通してしか知ることができなかった。
だが、こうして僕が僕として長く世界に晒されていると、
聖女がこの国にどれほどの変化をもたらしたのかが、はっきりとわかる。
王都を囲む放射状の稲畑。
茜色の光を吸い込み、
風に揺れる穂が黄金色に波打っている。
目を奪われるほど、美しい。
この国が、どんな場所なのか。
それは一目で理解できた。
かつての国は、土地が痩せ、
大地の恵みは微々たるものだった。
だからエルロンド家をはじめとする力ある者たちは、
他国から奪い、奪うことで生き延びてきた。
だが、それももう必要ない。
聖女による食料改革は、
この文明で初めて「飢えない時代」を現実のものにしつつある。
時代は変わった。ジェーンが、それを成し遂げた。
ここは、大変革の後に残された世界なのだ。
景色を味わっていると、
少し前から控えていたメイド長が口を開いた。
「ここからの眺めは、ご満足いただけましたか」
同じ夕焼けを共有しているつもりでいたが、
どうやら感傷に浸っていたのは僕だけらしい。
「明日には、シオンと合流できます」
悪いことの後には、
たいてい良い知らせがやってくる。
長く席を外していたシスマが、
シオン・ゲラウ=ファランドと接触してくれていた。
彼の詳細は知らない。
だが先日の戦いでの働きと、
彼が率いる自警団の質の高さは見ている。
それにしても、王族相手を呼び捨てとは。
彼女と彼の関係は、思っているより近いのかもしれない。
「僕から迎えに行こうか?」
「いえ。貴方達のもとへ、
クレオ様の情報を持って来ると」
それはありがたい。
「彼女は国の最高権力者ですが、
日々の政務は開始から十五分で終えています。
その後は国内を転々としているため、
現在地は把握できません」
「虱潰しに探すのは、さすがに怖いな。
それなら待とう」
正直に言えば、自警団との関わりには警戒心がある。
彼らは概して常識が通用しない。
交渉事なら、僕よりジェーンの方が適任だ。
彼女自身も、
常識の枠に収まる人間ではないのだから。
「それで……ジェーン様は?」
ジェーンは、今も返事をしない。
呼びかけても、沈黙が返るだけだ。
「あれから、ずっと起きていない。
……僕がいながら、すまない」
「いいえ。こうなることは、ある程度予想していました。
邸宅が壊れることも……想定外ではありませんでした」
それなら、先に言ってほしかった。
普通、実の両親があそこまで壊れているとは想像しない。
僕がいなければ、
ジェーンは父親に殺されていた可能性すらある。
「貴方様がいれば、大丈夫だと思ったのです。
公爵の剛剣が、
貴方様の力に勝るとも考えられませんでしたから。
誤算だったのは──
ジェーン様が、あれほど深く傷ついたことです」
それは、僕にとっても意外だった。
幼い頃、父に背を向けられた時でさえ、
彼女は感傷を見せなかった。
だから今回も、
親だろうと容赦なく切り捨てると思っていた。
「貴方様がいるから、
弱ってもいいと思えたのでしょう」
……そうだとしたら、
それは嬉しく、少し誇らしい。
シスマの目元も、どこか穏やかだった。
「ジェーン様のおかげで、
私達は運命から解放されました」
「どういう意味だい?」
珍しい、彼女自身の話だった。
「私達は、エルロンド家の懐刀として育てられました。
他国に潜入し、要人を殺し、情報を持ち帰る。
それが日常で、疑問すら抱きませんでした。
長く生きられないことも、理解していました」
「それが、ジェーンの改革で変わった」
「はい。
父君が正気を失い、
私達の処分を忘れたことで、
役目ごと放り出されました。
生き残った者は多くありませんが……
今日死ぬことを考えなくていい日常には、
不思議な価値があります」
「君と同じ立場だった人たちは?」
「多くは屋敷や農場で働いています。
一部は、別の場所で同じ技術を使っています。
つまり──平和を生きています」
娘本人に、
「貴女のおかげでお父君が狂い、人生が良くなりました」
などと口にできるはずもない。
シスマは深く頭を下げた。
「ジェーン様を、お願いいたします」
「君のことも守る。
君は、ジェーンの家族だから」
そう告げた瞬間、
逆光の中で彼女は微笑み、
次の瞬間にはテラスの手すりを越えていた。
音はしない。
下を覗いても、そこに姿はない。
……自警団というのは、
廊下や階段を使わないのが流儀なのだろうか。
「君のことを想ってる人がいる。
それがわかっただけでも、よかったよ」
ジェーンに語りかけるが、返事はない。
眠っているのか、聞いているのか。
僕には判断がつかない。
長く表に出て、ようやく理解した。
主導権を持つ人格は、
他の人格の状態をほとんど把握できない。
それでも──
これはジェーンの人生だ。
喜びも、痛みも、彼女の財産であるべきだ。
今の僕は、
彼女の人生を借りて立っているにすぎない。
だからこそ、守る。
事態が片付くまで、前に立つ。
彼女は、休めばいい。
久しぶりに、人々の営みに耳を澄ませる。
超聴力について、よく聞かれる。
嫌な音ばかりが、
洪水のように押し寄せるのではないかと。
答えは単純だ。
何に意識を向けるか──それだけだ。
ギター弾きはギターを聴き、
ベーシストは低音を拾う。
僕は、人の笑い声を選ぶ。
今日は、例外だ。
少しだけ、世界に耳を預ける。
人々の生活が、
静かに、確かに、流れていくのを──
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