狼王と、紫紺の残響

奇々煙

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第一章 檻の中の残照

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 それは衝突ではない。重なりでも、破壊でもない。

 先に在ったものが、後から来たものを拒まなかった。

 

 ――獣性を抑制し、理性を固定せんとする。

 

 国を保つための、古い論理。

 継承のための構文。

 

 王家契約は展開される。

 

 それはすでに、構文の内部に潜在していた。

 

 血の痕跡。

 名を持たない誓約。

 儀式を経ず、言葉を持たず。

 それでもなお、契約として完成している。

 

 王家契約はそれを解析しようと試みた。

 

 供物条件、照合。不一致。矛盾無し。



 時刻、不明。

 場所、不明。

 原因、不明。

 意図、不明。



 血液温度、変調を感知。



 呼吸、二。

 鼓動、一。



 契約境界、未定義の重複発生。



 ――融合。



***

 断頭台への石段は、思っていたよりも冷たくはなかった。覚悟を定めた意識が、人間的な感覚を切り離してしまったのかもしれない。

 それでよい。

 エイルはとっくに自身を手放していた。既に死ぬ覚悟が整っている心の中は、驚くほど落ち着いている。鎖に繋がれた両手と汚れた素足を見下ろしながら、十三の段を上る。
 魔力封じの印が刻まれた枷。丁寧とは言えない仕事だが効果は十分。今のエイルには指先ひとつ動かす術はない。

 ――これは皮肉か。いや、自業自得だ。

 エイルは国を守るために罪を犯した。その結果、国に殺される。
 筋は通っている。
 王都の空は暗い色の雲で覆われていた。だが、雨は降らない。こんな日は、処刑に向いているらしい。
 石段を上りきる。静かだった。囁きも、罵声もなかった。集まった民の数は多かったが、彼らに熱はない。エイル自身も、いくつもの目に晒されていることに関心はなかった。
 彼が纏っている生成りの長衣は、ひどく簡素で、装飾という装飾は一つもない。背には、長い黒髪が流れていた。肩甲骨のあたりでゆるくまとめられているものの、ところどころがほどけ、細い首筋に影を落としていた。
 エイルの顔立ちを見た民は皆、端正だが、どこか儚い印象を抱かせた。そして、 傍らに立つ近衛の目を奪ったのは――その瞳の色だった。深い紫。宝石めいた色合いが、感情をほとんど映し出さぬまま、静かに処刑台を眺めている。

 そのとき不意に、胸に熱さを感じたエイルは、視線を巡らせた。台の向かい側に設けられている王の席は空だ。なのにそこに誰かが『居る』という感覚がした。

 いないのに、居る。

 見られていないのに、視られている。

 理由はわからない。わかったとて、もはやそれに何の意味もない。
 エイルは執行官の前に立った。狼獣人である執行官は顔を上げなかった。手にした紙片へと視線を落としたまま、口を開く。日付、時刻、方法、そして立会人の名前が読み上げられる。名は呼ばれなかった。
 短い沈黙のあと、場に、執行官の声が響く。

「執行を開始せよ」

 それが自分の消える合図だということを、エイルが理解したのは、周囲の空気が動き出したあとだった。
 近づく硬い足音。金属が触れ合う音。台の木が軋む音。それらを意識することもなく聞き流しながら、エイルは膝を折る。
 だがそのとき、一人の兵士が台の上に駆け上がり、執行官に耳打ちをした。腕を掲げようとしていた執行官は、動きを止める。直後、処刑台を囲むようにして立っていた兵たちを割り、灰白の法衣を纏ったヒトの一団が近づいてきた。皆、襟元と袖口に金の装飾が施された直線的な長衣を身に着けている。

 ――神官団。

 先頭に立っていた男の明瞭な声が、保たれていた静けさを裂いた。

「執行は保留とする」
「オルデリク閣下、一体――」

 突如現れた観測司の横暴ともとれる宣告に、周囲はざわめく。

「この者は、契約における例外である可能性がある」

 誰の顔も見ずに、オルデリクが言った。尚も問おうとする執行官を手で制すると、後ろに控えていた神官に視線を送る。無言の指示を察した神官が台上にやってきても、エイルはただ跪いていた。
 エイルは知っていた。延命されたとて、生を与えられるわけではない。

 ――自分の存在が、宙に浮いただけだと。



***

 背後で、扉が閉じられた。鍵が落とされる重い音を聞きながら、わずかに息を吐く。エイルは、つい数刻前まで過ごしていた、王城地下にある独房に戻らされた。四面が石壁で囲まれた、何もない部屋。無論、光もない。
 硬い石の上に腰を下ろし、闇を見つめる。刑が保留にされた理由は、告げられなかった。告げられないということが、実にこの国らしい判断だ、とエイルは思った。
 拘束具は外されていたが、自由はない。先ほどまでとの違いは、処刑を待つ状態から、判断を待つ状態に移行しただけ。自分はまだ生きている。ただそれだけだ。

 空だった王の席。――あの方は、何を見ていたのだろう。

 神官に連れていかれた謁見の間でのことを思い出す。エイルは王の姿を見ていない。顔を上げることも許されなかったからだ。命ずる声は聴いたはずだが、どんな声だったかはもう忘れてしまっていた。

 ただ、そこでも名を呼ばれなかったことだけは、覚えていた。



*** 

 ヴァルディア王国の王都カレディア、その東部に、黒曜城は位置する。街を見守るように建つその城は、絶えず魔石による灯りに照らしだされ、夜が訪れてもその存在感を示していた。高くそびえたつ城壁。そこに設けられた門扉には、国の象徴である狼が描かれた紋章が刻まれている。
 王城、執務室。その部屋の窓が映し出す景色は、漆黒で塗りつぶされていた。人払いをしてから随分と経っていることに気づいたヴァルクは、二本の指を擦り合わせて魔力を飛ばし、燭台に灯火を宿した。獣人特有のしっかりとした鼻梁が、琥珀色に照らされた顔へと影を落とす。
 人の出入りも限られている為、王の執務室はそう広くなかった。ヴァルクの意向による、華美な装飾のない、無駄を削ぎ落とした部屋。だが私室よりも長い時間を過ごす場所でもある。レインハルトの手によって、王が過ごしやすい環境が整えられていた。
 自分が治める国のほんの一部を見下ろしながら、ヴァルクは考える。
 処刑の執行を止めたのは、自分の判断ではない。正確には止める判断が成立しなかったのだが……。秩序を保つため、判断は妥当だった。神殿に管理されている記録、そしてこの国の法にも則っている。

 それでも、あの瞬間――――。

 斬首という選択肢が、突然目の前で輪郭を失った。それが何故なのか、理由はわからない。わからないということが問題だ。
 王は、理由なく判断してはならぬ。
 胸の奥にわずかな違和感が残っていた。痛みでもなければ、恐怖でもない。
 王としての判断が遅れた。
 それが最もあってはならない事態だと、ヴァルクは認識していた。考えを断ち切った彼は、やがて窓から離れ、前室で待機している近衛に声を掛けた。

「レインハルトを呼べ」

 側近を呼び出すよう指示したヴァルクは、そのまま部屋を出た。
 理由を知る必要がある――。

 王である以上、放置するわけにはいかない。
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