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第二章 境界線の逃亡者
(2)
しおりを挟むオルデリクとの面談後、しばらく経ってから、エイルの左手首には細い銀の腕輪が嵌められた。
制御輪と呼ばれるそれは、王の名のもとに、レインハルトの手によって装着された。無数の術式が細かく刻み込まれており、観測具である媒体とエイルの魔力とが繋げられている。そして、観測対象であるエイルの魔力量、魔力反応は、媒体を通して常に神殿に監視、記録される。
一定量以上の魔力を使おうとすると制御輪によって抑制されるが、抗えないわけではない。魔力を封じられるというよりは、抑え込まれている状態で、完全な遮断ではない。枷はないが、自由も無い。
エイルは自分が管理対象である事実を受け入れていた。
中庭、回廊、応接室、小さな祈祷室、そして書庫。区画内の限られた範囲ではあるが、部屋から出られるようになったエイルは、朝の神殿との面談後、定期的に書庫へ足を向けるようになった。
そこは、いつも古ぼけた紙と埃の匂いが漂っている。背の高い書架が並び、窓は小さく、日中でも薄暗い。使われなくなった知識が、音もなく積み上げられた場所。城の書庫から下ってきたのであろう本の種類は雑多で、内容が充実しているとは言いがたかったが、時を持て余しているエイルにとっては十分だった。
読み終えた年代記を元の場所に返した後、いつものように目的もなく書架を眺めて歩く。神殿の記録、観測報告、古い魔術理論、薬学――どれも今の自分には関係がない。指先で本の背を辿りながら、ゆったりと足を運ぶ。
そのとき、ひときわ色褪せた背表紙が、エイルの目に留まった。
他の本に半ば隠れるようにして押し込まれていたその本を、指に力を込めて慎重に引き出す。手に取ってみると、想像よりも随分と軽かった。黄色の布が張られた表紙はくすみ、角が丸く擦れている。濃い茶の色材で書かれた題字は滲んでいた。
「実りを待つということ」
エイルは本の題名を読み上げた。表紙を開いた瞬間、乾いた土のような匂いが立ちのぼる。内容は拍子抜けするほど素朴で、耕し方、種の蒔き時、天候への対処方法、季節の巡りが淡々と書かれている。魔術も、契約も、神殿も出てこない。エイルはその本を手に書庫を出た。
中庭に出たエイルは、日の光の明るさに目を細めた。エイルは、天気の良い日はできるだけ外に出て、日の光に当たるようにしていた。いつ光を浴びられなくなるか、分からないからだ。
庭内でいちばん大きな樹幹の根元に座ると、エイルは再び本を開いた。魔術師という地位につく前、ただのエイルだった頃、同じ題名の本を持っていたことがある。エイルはその本を、最後まで読むことなく失ってしまっていた。
どこまで読んでいただろう。懐かしい記憶を手繰り寄せながら、木活字で刷られた紙を捲っていく。見覚えのある頁を読み流していたエイルの指が、ふと、彷徨った。余白に書き込まれていた文字に、目が引き寄せられる。
『雨によわい』
『やわらかい土にすること』
エイルは言葉を失った。幼い筆跡を撫でる指先が、震える。
「私の、字だ……」
紫の瞳が、激しく揺れた。
――そんなはずは、ない。
失ったはずの過去が、ここにあるはずなど。
更に頁を捲っていくと、枯れた花がすべり落ちてきた。過去のエイルが、栞代わりに挟んだ花だった。かつて自分が持っていたものだと確信したエイルは、枯れた花を挟み直し、本を閉じる。
どうして此処に?
さざ波だった心が次第に、胸の奥が静まり返る。なぜだか分からないが、心のなかに渦巻いていたひとつの疑念が、晴れたような気がした。
制御輪を身につけるようになってから、エイルは身体の不調が和らいでいることに気づいた。
はっきりと自覚したのは、湯浴みから戻った時だった。湯浴み後は決まって眩暈を起こし、数刻伏せっていた。この数日は、少しの間休んだだけで、立ち上がることができるようになっている。良くなっているとまでは云えないが、不調が緩慢になっている。
恐らく制御輪が自分の魔力に干渉していることが要因だろう、とエイルは考えた。だからといって、状況は何ひとつ変わっていないということも、知っている。
エイルは、机の上に置いた一冊の本を見つめた。読み書きを学び始めるのが遅かったエイルは、少しでも文字に慣れようと、育ての親の蔵書を手当たり次第に読んでいた。『実りを待つということ』はそんな時期に読んでいた本だった。本の表紙を静かに撫でる。
土を耕し、種を撒き、育て、実りを待つ。そしてまた土へと還る。
本に記述されていることは、簡単なようで難しく、単純なようで奥深い。あの頃の自分に思いを馳せながら、エイルはゆっくりと読み進めていった。
***
王の来訪は突然だった。
いつものように大樹の根元に腰掛けていたエイルは、左手首の制御輪が熱を帯びるのを感じた。結界を揺らし、侵入してくる強大な個体の気配。本から顔を上げると、建物を抜け、迷いのない足取りでこちらへと向かって来る人影があった。
くせがかった銀の髪が陽光を弾き、高い襟がその喉元を厳格に隠している。鞣した皮と銀の半装甲を纏い、黒に近い群青の外套を翻す姿は、のどかな中庭の風景からそこだけが切り取られたかのように異質だった。
灰色の布を被り、腰帯を巻いただけの服で過ごしているエイルは、その姿を眺めながら、重そうだ、と思った。だが、前に立った相手の金の瞳を見て、獣人だということを悟ったエイルは、他愛のない考えを打ち消した。獣人にとっては、金属の重さなど些末なことだろう。
此処に来る獣人はレインハルトしかいない。彼を除いて、この場所へ来る可能性があるのは――
「陛下」
エイルは膝をつき、頭を垂れようとした。
「立て」
無駄のない言葉を受けて立ち上がったエイルは、王の顔を見上げた。銀の眉の下、金色の眼差しがエイルの輪郭をなぞるように動く。
「名を」
「エイル=カエルム=ノクスにございます」
エイルは表情を変えずに、王からの問いに答えていった。育ての親の名、神殿在籍時の役職、罪状の内容――。
王が報告を受けていないはずがない。このようなことを聞くために、先触れもなしに、護衛もつけず、面談に来たというのだろうか。エイルが訝しんでいると、王が言った。
「この国をどう思う」
先程、エイルを名乗らせた時と変わらぬ口調で王が問うた。
「……所見を述べる立場には、ございません」
「歪だと思うか」
刹那、王の瞳がわずかに揺らいだ気がした。見間違いだろうと断じたエイルは、少しの沈黙の後、答えた。
「例え歪であったとて、ひいては国を存続させるため、国民を守るため。些細なことかと」
エイルの回答を聞いた王は顎を軽く撫でた。その手には外套と同じ群青の色の手袋が嵌められている。エイルを捉えたその視線は、一度も逸らされなかった。
「変わったことは?」
「なにも」
エイルはほんのわずかに目を伏せた。王はそれを見逃さなかったが、追求することはなかった。
「よいだろう――何かあれば、レインハルトに言え」
漸くエイルから目を離した王は、外套を翻して去っていった。エイルは元の場所へ腰を下ろす。胸の奥には、かすかな違和感が残っていた。
エイルが現王の姿を見たのは初めてだった。禁術を行うに当たって、王という存在を認識しないようにしていたため、容姿や評判についての情報も全て、意図的に遮断していた。
実際に向き合った王は、驚くほど静かだった。声を荒げることもなく、言葉は必要最低限で、感情をむやみに表へ出さない。じっとこちらを見ているだけで、何かを暴こうとする素振りもなかった。
むしろ、自分の方が落ち着かなかった。
王の前に立つのは初めてではない。魔術師として神殿に出入りしていた頃、王族の一人や二人、遠くから目にしたことはある。だが今日の面談は、それとはまるで違っていた。距離が、近すぎたのだ。
金の瞳。獣人特有の熱を帯びた視線。
あの眼差しに晒されているあいだ、エイルは自分の呼吸が浅くなっていることに気づいていた。恐怖とは少し違う。緊張とも言い切れない。ただ、落ち着かなかった。
「……考えすぎだ」
自室に戻るなり、エイルは小さく息を吐いた。
王は王。
自分は罪人。
その関係に余分な意味などない。そう割り切るほうが、よほど簡単なはずだ。だが、閉じた瞼の裏に浮かんだのは、やはりあの金色だった
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