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第二章 境界線の逃亡者
(1)
しおりを挟む観測区画は神殿の外縁に位置する。その主目的は、魔術師の収容および隔離にある。
区画を囲う塀に、威圧的な高さはない。大仰な門扉も存在しない。だが、監視の目が欠落しているわけではない。一帯には、外部との物理的および魔術的な干渉を遮断する結界が定着している。王命を奉じた近衛兵による巡回は昼夜を問わず、建物内の随所に施された護符と刻印が、収容者の魔術行使を完全に抑制する。この閉鎖空間から、生身の人間が脱出する方法は存在しない。
現在、その静寂のなかに収容されているのは、エイルのみであった。
王城の敷地内とはいえ、決して表立った場所ではない。その性質上、自ずと目立たない隅へと配置されていた。毎日朝刻に行われる面談のためにやって来る神官を除き、定期的にやって来る者はいない。時折、清掃人や侍従が訪れるが、基本的には建物内にも外にも人気はない。外には近衛がいるが、内部には見張り人の姿もなかった。
***
観測区画に移されてから数日が経過した頃、エイルは部屋の外へと連れ出された。近衛副長の後につき、中庭を横切る通路を歩く。レインハルトは護衛の兵もつけておらず、一人だった。エイルへの枷もない。
エイルは中庭を見渡した。木には緑が芽吹き、花圃の花はつぼみをほころばせつつある。歩みを進める彼の頬を、温かな風が撫でていく。エイルは空気を吸い込んでみた。肺が満ちることはないが、それでも気分はいくらか晴れた。
いくつかの建物を抜けたところで、レインハルトが歩みを止めた。
神殿だ。彼は通りがかった神官に通行証を渡す。それを受け取った神官は、レインハルトの後ろに立っていたエイルを見た。目礼されたエイルは軽く頷き返す。胸元に紋章がないことから、雑務をこなす執行司のようだ。エイルにとっては見知らぬ顔だった。神官は通行証を手にして、建物の中へと消えた。
神殿には祭壇や装飾品はない。設計の思想は、純粋な機能性のみに帰結している。屋外にも無駄はなく、一本の樹も植えられてはいない。
レインハルトは神殿区画内、西側に聳える塔を眺めた。塔の上部には巨大な鐘が備わっている。無言で佇む二人の元へ、先程の神官が戻ってきた。
「観測司の部屋へ」
それだけを告げて、足早に去っていく。レインハルトが指をかけると、その重厚な扉は無音で開いた。ふたりが境界を越えて中に入ると、扉は背後で自ずと閉じた。神殿は内部にも内装という概念は存在せず、ただ無機質な空間が連続していた。
観測司の部屋に入ると、窓際に立っていたオルデリクは手にした書類から顔を上げた。促され、エイルのみがその境界を越える。オルデリクが机に座るのを確認し、エイルはその向かいに置かれた木の肘掛け椅子へと身を預けた。視界に入る壁面は、隙間なく書棚に埋め尽くされている。
「貴殿がこの部屋に来るのは、久方ぶりだな」
「左様ですね。ここを去る直前でした」
生きてここに戻ってくるとは思わなかったが、との認識を心中に留め置いて、エイルは答えた。
「――ここを去るときにはもう決めていたのか」
肯定の意を、微かな顎の動きで示す。エイルにとって、神殿は籍を置いていた場所ではあったが、馴染み深いものではなかった。
「私情によるものか」
「違います」
禁術のことだと察しているエイルは即答した。オルデリクはエイルを見つめた。この高位魔術師の評価は、冷静で有能。私情を挟むことなどない。彼は手元の文書を手繰り寄せると、エイルへ手渡した。受け取ったエイルは、さらりとした上質紙に目を走らせる。
そこには、彼が携わった事案のひとつが記録されていた――
――王都近郊で発生した魔力汚染。
それは拡散の速度から見て、夜明けまでに市街へ達すると判断された。対応に与えられた時間は短く、現実的な選択肢はひとつしかなかった。魔力を一点に集束させ、地脈ごと封殺するというもの。術式は完成していた。そして、――代償も明確だった。集束点の近傍に存在する生命体は、術の成立に耐えられない。
魔術師団は沈黙し、計算結果だけを提示した。
神殿は承認を出した。王宮、宰相府からも異論の申し立てはなかった。
エイルは術式盤の前に立ち、最後の確認を行った。数値に誤りはない。収束角度、位相、封鎖後の反動、すべてが計算通りだった。
ただ――集束点に指定された区域に、避難が間に合わなかった者が一人いることも、報告書には記されている。その人物の存在は、先発の魔術師が解除不可の結界を張った後に確認された。
名前、年齢、職、そして家族の構成までもが、無機質な文字列として記されている。エイルはその紙を一度だけ網膜に焼き付け、端を揃えて折り畳んだ。儀式の準備が整い、補助魔術師たちが距離を取る。
結界の向こう側に、座り込んでいるその人物が見える。混乱はしていたが、暴れてはいない。視線が彷徨い、先頭に立っていたエイルと目が合った。
エイルは目を逸らさなかった。
思考が揺らぐこともない。
術式は発動条件を満たしており、時間は残されていない。詠唱は簡潔だった。余計な言葉を削ぎ落とし、機能だけを持つ文言。
やがて、魔力が収束し、地が沈黙する。汚染はそこで止まり、都市は救われた。終わった後、その場の誰かが小さく息を吐いた。そして、神官が言う。
『最小限で済みましたね』
エイルは頷かなかった。否定もしなかった。術式盤を片付けながら、彼は自らが屠った人物の名を脳裏に刻んだ。
――報告書に記された、ただの文字列。
判断は正しかった。他に選択肢はなかった。此度の選択を否定することは、救われた人々の数を否定することになる。エイルに後悔は、ない。それでも、忘れてはならないと思った。
我々の手から零れ落ちたもの。それが確かに存在したという事実を。
報告書を読み終えたエイルは、心の中でその名を呼んだ。彼が顔を上げたことを確認したオルデリクは、口を開く。
「貴殿はこの事案だけでなく、他多数の事案にも携わり、完璧な結果を出してきた。魔術精度は傑出、計算も早くて正確。現在の神殿で、貴殿ほど術に精通している魔術師の数は片手にも満たぬ」
オルデリクは平坦な声で続ける。
「何ゆえ、禁忌を犯した」
エイルが神殿へ籍を置いた時には既に、オルデリクは観測司の地位に就いていた。神殿内の観測系統職の階級は、魔術師のそれとは異なる。観測系統は、王家の契約の管理、記録を職務とする。魔術師は術を必要とする実地に出向き、調査、対処するのが主な職だ。職掌を違えていたため、基本的に二人が交わることはなかった。ゆえに、オルデリクとエイルはごく稀に顔を合わせることはあれど、話をすることはなかった。初めてまともに話したのは、エイルが此処を去る前の、形式的な聴取の時のみだ。
「条件を、満たしていました」
神殿塔の方角から重厚な音が響いてくる。神殿が鐘を鳴らし、王都は刻を知る。
エイルは声に出さず、鐘の音を数えた。エイルが五回まで数えたとき、オルデリクは、抽斗から白紙を取り出し、筆を執った。
「観測は正常。王家契約に破綻はなく、供物反応も検出なし」
オルデリクは書き終わったそれに印章を押しつけると、エイルへと手渡した。
「観測区画内に限り、部屋から出ることを許可する。対象は禁止区域への立入是非の判断が可能と見做す」
対象であるところのエイルに異議はなかった。オルデリクは、エイルが頷いたことを確認すると、扉を指差した。
退室したエイルは、扉の側に立っていたレインハルトへと書状を手渡す。彼はエイルの処遇に関する内容に軽く目を通すと、折り畳んで懐に仕舞った。二人は来たときと同様に、沈黙を保って監視区画へと戻った。
部屋に戻ったエイルは、扉を閉じ切るのを待たずに床へと座り込んだ。寝台に向かう気力もなく、そのまま横になる。硬く冷たい石の床は、エイルの体温を容赦なく奪っていく。久々に出歩いたことによる泥のような疲労感に襲われながら、エイルは自身を嗤った。
――まるで生きた屍だ。
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