30 / 78
二十九話
しおりを挟むベルティーユは困惑した様子で此方を見ていた。レアンドルは苦笑する他ない。
「本心では、ずっと君に触れたかったんだ。だがどうしても触れる事が出来なかった……。俺の手は薄汚れている。その手で君に触れたら、清浄無垢な君を穢してしまうと思うと怖かった」
ベルティーユがブルマリアスに来た当初、彼女はまだあどけなさが残る少女だった。十四歳の妹のブランシェを敵国に人質として引き渡す事すら躊躇いを感じていたのに、その妹より更に二歳下のベルティーユと対面した時は胸が痛んだ。だが彼女は子供ながらに毅然とした振る舞いで笑顔で挨拶をした。本当は怖かった筈だ。人質交換には幾つかの制約が設けられてはいたが、それでも死と隣り合わせに違いはない。もしブルマリアスがブランシェを見捨てた場合、もしリヴィエがベルティーユを見捨てた場合、もしブランシェが病などで亡くなった場合……様々な事態が予想出来る。十二歳ともなれば自分の置かれている立場や状況は十分理解しているだろう。だが理解が出来ても覚悟が出来る程大人ではない筈だ。敵国の王太子の立場である自分が抱く様な感情ではないが、正直不憫でならなかった。
だがそんな中で救いだったのが弟二人がベルティーユを可愛がっていた事だ。リヴィエに対して良い感情など抱いている筈がないにも関わらず、初めから二人は……特にクロヴィスは彼女を溺愛していた。
この頃ブルマリアスは、リヴィエと和平協議に入り一時休戦となっていたが、自国は相変わらず他国との戦は絶える事はなく、レアンドルは城をよく空けていた。ただこの時既に衣食住の全てを別邸で済ませていた事も一つの要因ではである。
そんな中で離宮などレアンドルには無縁な場所ではあったが、彼女がどうしているか気になりたまに密かに様子を窺いに訪れていた。
何時も中庭側から彼女の部屋の窓を見ていたが、たまにクロヴィス達に連れられた彼女と廊下などで出会す事もあった。そんな時は決まって彼女は「王太子殿下、ご機嫌よう」そう笑顔で挨拶をしてくれたが、レアンドルは無言のまま一瞥してその場を後した。
我ながら無愛想だとは思っていたが、リヴィエの姫である彼女に合わせる顔などない。何故ならこれまで自分は数え切れない程リヴィエの人間を殺して来た。敵国の兵士を殺すなど至極当然であり正義だと信じて疑っていなかったが、それでもあの無垢な笑顔を見せられたら、罪悪感に苛まれる。彼女に出会うまでは罪の意識など抱いた事すらなかったのに妙な気分だった。
「始めは妹を見守る様な、そんな気持ちだったんだ。それが自分でも気付かない内に目的が変わっていた。君の姿を一目で良いから見たくて態々離宮まで足を運んでいた。戦や仕事で疲弊した時、君の笑顔を見ると心や身体が不思議と軽くなったんだ」
気付いていないだろうが、彼女が思っているよりもずっとレアンドルは離宮に通っていた。一目遠くから眺めるだけで構わなかった。弟達とまるで本当の兄妹の様に仲睦まじく過ごしている姿を見ているだけで良かった。そして気付いていた、弟の彼女への想いにも。リヴィエとの和平条約が結ばれた後、クロヴィスはベルティーユを妻に迎えるつもりなのだろう……漠然とそんな風に思っていた。クロヴィスは本当にベルティーユを溺愛し大切にしていた。だから彼女が幸せになれるならそれで良いと思っていた、なのにーーまさかあんな結末が訪れるとは想像だにしなかった。そしてまた今のこの状況も同じだ。未だ彼女が自分の妾だとは信じられない。といった所で、実際は彼女を保護する為に妾として引き取っただけだが。なので彼女が話す妾の役割など果たす必要など本来はない。端から手を付けるつもりはないのだから。全てが終わったら、彼女を故郷に帰してやるつもりだ。
それなのに、本心ではベルティーユに触れたくて仕方がない。以前は遠くから見ているだけで満足していた筈なのに、今は気を抜くと彼女へと手を伸ばしてしまいそうになる。彼女が屋敷に来てから後少しで一年になるが、正直その間に彼女を想いながら何度自慰をしたか分からない。穢したくないのに、時々無性に彼女を自分の手で穢して自分だけのものにしたいとさえ思う。重症だと自覚はしている。正直クロヴィスの事を言えた義理ではない。
流石に全てを伝える事はしないが、触れなかった理由や時折り彼女を見に離宮を訪れていた事を簡潔に話し自嘲した。
「この事は、君には心労を掛けたくなくて言うつもりはなかったんだ……というのは建前で、俺は何処かで期待していた。言わなければ何時かこうやって触れられる日が来るかも知れない、君を手放さずに済むかも知れないと。こう見えて約束は何が何でも守るタチなんだ。呆れるだろう?」
逆を返せば約束さえしていなければ自分の思いのままに出来る、我ながら実に浅ましいとは自覚はしている。
レアンドルの言葉に彼女は戸惑いながらも、首を横に何度となく振る。こんな些細な仕草すら可愛くて仕方がない。
「だがその所為で君を傷付けてしまった、すまなかった」
「レアンドル様は、悪くありません……」
本当に彼女は穢れを知らない純白の花の様だ。レアンドルの邪な想いなど疑いもしないだろう。
「それとベルティーユ、誤解をしている様だから言っておくが、俺とアンナは君が思っている様な間柄ではない」
「え……」
彼女は余程驚いたのだろう、蒼眼の大きな瞳を丸くして口を半開きして此方を見た。
「ですがレアンドル様とアンナは愛し合っていて……私、夜中にレアンドル様の寝室にアンナが入っていく所を見たんです! だからそれもあって私は……」
アンナを問い質した事と先程の彼女の物言いからして分かってはいたが、やはり完全に誤解をしている。まあ自業自得なのだが。
「今回の件が片付いたら改めて説明をすると約束をする。だが信じて欲しい……誓って俺とアンナは恋仲などではない。ただの主人と使用人の関係、それだけだ」
「そうなんですね……。レアンドル様がそこまで仰るのなら、信じます」
「ありがとう」
シーラを監視させる為に信頼出来るフォートリエ家からアンナを借りて来たが、失態だった。今回の事でレアンドルは猛省した。それにキースの事もある。明日にでもフォートリエ家へと出向く必要があるだろう。
「それにしても、恋路の邪魔だからと出て行こうとするなど随分と律儀だな。妻がいても妾を何人も囲う者も少なくないというのに」
「……そうなんですけど、それだけではなくて」
「?」
「私身勝手なんです。レアンドル様もクロヴィス様の様に変わってしまうかも知れないと思ったら、怖かった……。レアンドル様から憎まれたり、嫌われるなんて耐えられない……それに、レアンドル様を好きな気持ちのまま貴方の元から去りたかったんです」
ベルティーユからの言葉にレアンドルは一瞬思考が停止する。自分の耳すら疑った。
"レアンドル様を好きな気持ちのまま"
(それは、もしかして……俺の事、か? いやそれしかないだろう!)
余りの事に頭の中で思わず自分で言って自分で突っ込んでしまった。莫迦過ぎる……。
「ベルティーユ……その、今君は俺の事が、好き……だと、言ったのか……?」
動揺し過ぎて歯切れが悪くなる。
もし違ったら流石に格好が悪過ぎるので、訊くのに躊躇いはあったが、こんな事訊かずにはいられなかった。
だが彼女は、一瞬身体を震わせるとあからさまに顔を背け俯いてしまった。長い沈黙が流れる。レアンドルの心臓は早鐘の様に脈打ち、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
最悪だ……また失態してしまった……ーー。
やはり聞き間違えだったのか……いや確認をした事自体がまずかったのか…………分からない。
これでもレアンドルも二十五歳の立派な成人男性であり、女性の経験はそう多くはないがそれなりにはある。愛想はないが、女性の扱いは悪くないと自負していた。だがベルティーユが予測不能過ぎてもはやどうにも出来ない、お手上げ状態だった。
「……はい」
長い沈黙の後、ベルティーユは落胆しているレアンドルにおずおずと向き合うと、頬を赤く染め上目遣いの潤んだ瞳でそう返事をした。その瞬間、レアンドルの頭の中からは先程までの紳士的な考えは全て吹き飛んだ。
20
あなたにおすすめの小説
大人になったオフェーリア。
ぽんぽこ狸
恋愛
婚約者のジラルドのそばには王女であるベアトリーチェがおり、彼女は慈愛に満ちた表情で下腹部を撫でている。
生まれてくる子供の為にも婚約解消をとオフェーリアは言われるが、納得がいかない。
けれどもそれどころではないだろう、こうなってしまった以上は、婚約解消はやむなしだ。
それ以上に重要なことは、ジラルドの実家であるレピード公爵家とオフェーリアの実家はたくさんの共同事業を行っていて、今それがおじゃんになれば、オフェーリアには補えないほどの損失を生むことになる。
その点についてすぐに確認すると、そういう所がジラルドに見離される原因になったのだとベアトリーチェは怒鳴りだしてオフェーリアに掴みかかってきた。
その尋常では無い様子に泣き寝入りすることになったオフェーリアだったが、父と母が設定したお見合いで彼女の騎士をしていたヴァレントと出会い、とある復讐の方法を思いついたのだった。
私の意地悪な旦那様
柴咲もも
恋愛
わたくし、ヴィルジニア・ヴァレンティーノはこの冬結婚したばかり。旦那様はとても紳士で、初夜には優しく愛してくれました。けれど、プロポーズのときのあの言葉がどうにも気になって仕方がないのです。
――《嗜虐趣味》って、なんですの?
※お嬢様な新妻が性的嗜好に問題ありのイケメン夫に新年早々色々されちゃうお話
※ムーンライトノベルズからの転載です
代理で子を産む彼女の願いごと
しゃーりん
恋愛
クロードの婚約者は公爵令嬢セラフィーネである。
この結婚は王命のようなものであったが、なかなかセラフィーネと会う機会がないまま結婚した。
初夜、彼女のことを知りたいと会話を試みるが欲望に負けてしまう。
翌朝知った事実は取り返しがつかず、クロードの頭を悩ませるがもう遅い。
クロードが抱いたのは妻のセラフィーネではなくフィリーナという女性だった。
フィリーナは自分の願いごとを叶えるために代理で子を産むことになったそうだ。
願いごとが叶う時期を待つフィリーナとその願いごとが知りたいクロードのお話です。
月夜に散る白百合は、君を想う
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢であるアメリアは、王太子殿下の護衛騎士を務める若き公爵、レオンハルトとの政略結婚により、幸せな結婚生活を送っていた。
彼は無口で家を空けることも多かったが、共に過ごす時間はアメリアにとってかけがえのないものだった。
しかし、ある日突然、夫に愛人がいるという噂が彼女の耳に入る。偶然街で目にした、夫と親しげに寄り添う女性の姿に、アメリアは絶望する。信じていた愛が偽りだったと思い込み、彼女は家を飛び出すことを決意する。
一方、レオンハルトには、アメリアに言えない秘密があった。彼の不自然な行動には、王国の未来を左右する重大な使命が関わっていたのだ。妻を守るため、愛する者を危険に晒さないため、彼は自らの心を偽り、冷徹な仮面を被り続けていた。
家出したアメリアは、身分を隠してとある街の孤児院で働き始める。そこでの新たな出会いと生活は、彼女の心を少しずつ癒していく。
しかし、運命は二人を再び引き合わせる。アメリアを探し、奔走するレオンハルト。誤解とすれ違いの中で、二人の愛の真実が試される。
偽りの愛人、王宮の陰謀、そして明かされる公爵の秘密。果たして二人は再び心を通わせ、真実の愛を取り戻すことができるのだろうか。
【完結】夢見たものは…
伽羅
恋愛
公爵令嬢であるリリアーナは王太子アロイスが好きだったが、彼は恋愛関係にあった伯爵令嬢ルイーズを選んだ。
アロイスを諦めきれないまま、家の為に何処かに嫁がされるのを覚悟していたが、何故か父親はそれをしなかった。
そんな父親を訝しく思っていたが、アロイスの結婚から三年後、父親がある行動に出た。
「みそっかす銀狐(シルバーフォックス)、家族を探す旅に出る」で出てきたガヴェニャック王国の国王の側妃リリアーナの話を掘り下げてみました。
ハッピーエンドではありません。
冷徹公爵の誤解された花嫁
柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。
冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。
一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。
【完結】愛する人はあの人の代わりに私を抱く
紬あおい
恋愛
年上の優しい婚約者は、叶わなかった過去の恋人の代わりに私を抱く。気付かない振りが我慢の限界を超えた時、私は………そして、愛する婚約者や家族達は………悔いのない人生を送れましたか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる