TSUBASA〰リングで羽ばたく少女たち〰

TAKU

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第2章 砕かれた自信

TSUBASA〰リングで羽ばたく少女たち〰

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 いつの間にか眠ってしまったのだろう。
 愛美は、目覚ましのアラーム音に叩き起こされベッドに上体を起こした。
 頭の奥がずーんと重く、まぶたも下がり気味。
 緊張していたのだろう。
 いつもならば、どれだけ大音量の目覚ましをかけても完全無視で眠り続ける筋金入りの低血圧である愛美だったが、今朝はなんとか目が覚めた。覚めたというより、寝たのか寝てないのかわからない感じだ。
 疲れもあり、深い眠りについたはずだったのに、浅い眠りでウトウトしていたらアラームが鳴った感覚。
 実際には眠ってはいるのだが、脳が休息を取り切れていないのだ。
 重い頭を抱えたまま、部屋に備え付けの洗面台で歯を磨き、冷たい水で顔を洗って気を引き締める。
 そう。今日から生まれ変わるためのトレーニングを再開するのだ。
 時計を見ると、もう早朝ランニングの集合時間ギリギリだ。
 急いでトレーニングウェアに着替え、部屋を飛び出していく。小走りに道場前にいくと、そこにはKIZUNA勢、SPWA勢の主だったメンバーが集合していた。
 SPWA勢も早朝ランニングなど、皆でできる練習メニューなどは日本式で参加している。
 諸外国のレスラーの場合、個々を重んじるため、練習も個人メニューですることがほとんどである。もともと海外ではプロレスラーは練習をジムで行うため、日本式の道場という感覚は理解できないものなのだが、SPWAの母体であるハート一家は、日本の道場方式でプロレスラー養成機間を開いていたため、SPWA勢はKIZUNAでの練習にもすんなり順応していた。ただ、朝が早いのには、一部、閉口していたのは事実である。
 片道約4キロの早朝ランニングは、かなりのハイペースだった。
 トップでゴールした中原千早希は40分少々。他の選手も50分ちょっとでKIZUNA道場まで戻ってきていた。
 それから遅れること約20分、愛美は息も絶え絶えの状態でゴールした。
 いちばん小さな津上美紗でさえ、すでに道場内で仕上げのストレッチをはじめているというのに。
 汗だくの愛美は頭からバケツの水を被ってクールダウンする。
 自分がここまで体力が落ちていたのかと、悔しさで涙が浮かんできた。
 ここ2ヶ月ほど、ほとんどトレーニングをしていないツケがどれほど大きいかを嫌でも実感させられる。流れる汗と一緒に滲んだ涙をタオルで拭う。
 すでに高村あかねを始めとする一部の選手は、道場を後にしている。
 これから高村あかねと、当番である中原千早希、デビュー前の新人である椚木純のふたりが、朝食作りに入るのである。
 選手会長である坂倉宏子とメリッサ・スティンボートが、へたり込んでいる愛美に手を差し伸べる。
 ふたりとも、愛美のペースに合わせて走ってきたのだ。
 現在の愛美の状態を正確に分析し、ジェニー・セイントが戻ってくる前にある程度のメニュー作成をするのが目的だった。
 WWPL、A☆Fでは平気な顔でこなしていた距離なのに、体力の最後の一滴まで搾りだし、ほぼグロッキーに近い状態だ。
 起きあがっているのが辛くなった愛美は、道場の床で大の字となり、胃液を逆流させながら苦しそうな嗚咽を漏らしてしまう。
「初日から飛ばしても意味ないよ。中原ちゃんたちと同じペースで走るなんて無謀なんだからさ。あのペースなんて、私もゴメンだし」
 愛美をいたわりながら坂倉が、水分補給用の特性ジュースの入ったボトルを差し出す。
 実際、愛美は無理をしていた。
 周囲に遅れまいとハイペースで走り、リズムを崩してスタミナをかなりロスしていたのだ。自分のペースで走っていれば、ここまでの醜態をさらすことなどなかったのだ。
「ま‥‥まだ、大丈夫‥‥です‥‥」
 上半身を起こし、まだ出来ることをアピールしようとするが、目まいを起こしへたり込んでしまう。
「無理しちゃダメだって」
 オレンジ、リンゴ、ニンジン、ハチミツなどをミックスした高村あかね特性ジュースを坂倉が愛美に飲ませる。
 ランニング前に同じジュースを飲み、軽めの運動用のエネルギーは補給していたのだが、それはあっという間に消費してしまっていた。
 それに前日の精神的疲労と睡眠不足が重なり、愛美はエネルギー不足から軽い脱水症状とめまいを起こしてしまっていた。
 心臓が早鐘の様に脈打ち、汗がとめどなく流れ落ち、酸素を求めて喘ぐ。酸素スプレーから酸素を補給し、少しずつ吸収され始めた水分と糖分が体内を駆け巡り始め、ようやく心臓も落ち着きを見せ始める。
「ランニングは自分のペースでいいって。はっきり言うけど、中原ちゃんみたいなペースでランニングするのはマラソン選手位だから。それに椚木ちゃんも、元々女子サッカーで90分フルタイム走りまわってたスタミナモンスターなんだから、上位2人は気にすることないよ」
「すみません‥‥」
 人それぞれという坂倉の言うことも分かる。
 しかし、だからと言って、それを認めることは愛美にはできなかった。
「あの‥‥大丈夫っスか?」
 ランニング後のストレッチで身体をほぐしていた美紗が、心配そうに声をかける。
「え‥‥あ、大丈夫です‥‥」
「わたしも、ついこの間までランニング終わるとへたり込んでたんで。もう少し横になってたほうが‥‥」
 美紗の心遣いも、今の愛美には少しだけ皮肉や嫌味に感じられる。
 美紗自身、瞬発力はあるがスタミナに難がある。
 そのため長距離を走るのは大の苦手だった。
 最近は自分のペースを維持することだけに重点を置いているため、前ほどむちゃはしなくなったが、毎朝のランニングの後でひっくり返るのをついこの間まで繰り返していたのだ。実際、今日も美紗がゴールしたのは最下位から2番目、愛美のすぐ前だった。
 意地を張って起き上がろうとするが、膝から崩れて横になってしまう。眩しい朝日が道場に射し込むなか、愛美はタオルで顔を覆いながら横になり、悔し涙を流していた‥‥。
 やっと起き上がれるようになり、坂倉とメリッサに付き添われるように愛美は、道場に設置されているシャワールームで汗を流した。
 恥ずかしさでそのまま逃げ出したいとも思ったが、ここで逃げてもなにも始まらない。イチからやり直すためにやってきたのだ。
 そう考え直し、冷水シャワーを頭から被る。
 汗だくで火照った身体に、冷たい水が心地よかった。
 シャワーを出ると、朝食まで部屋で休むことになった。
 朝食当番を手伝おうと思ったのだが、さっきの今なんだからと、坂倉に説得され自室に戻されたのだ。
 時計を見ると午前7時になるところだった。
 ベッドにドサッと横になり、白い天井を見上げるが、落ち着かない。
 居候の身で、これでいいのかと考えると、やはり手伝いに行った方がいいのかもと思う。しかし、行ったとしてもなにができるとも思えない。
 部屋にはテレビもなにもないので、ただベッドに転がっているしかない。
 実際、ランニングの疲れは残っていたので、横になっているほうが楽だった。
 しばらくゴロゴロしていると、だんだんと睡魔が襲ってくる。
 ダメだ、ダメだと思うが、まぶたが下がってくるのを止められない。
 いつしか、愛美はトロトロと心地よいまどろみに包まれていた‥‥。

 トン、トン、トン。
 部屋のドアを誰かがノックしている音が遠くに聞こえる。
 まだ眠い。  
「‥‥‥っ‥‥ぅん‥‥」
 トン、トンとまたドアがノックされるが、愛美はベッドの上で寝返りをうつと、縮こまるようにして、まどろみのなかに戻ろうとする。
 愛美の頭のなかでは、ちゃんと起き上がり誰が訪ねてきたんだろうと思案している自分の姿が、客観的に斜め上の神の視点で見えていた。
 自分の姿を自分で見ているのに、そのことに愛美はまったく違和感を覚えていない。
 もちろん、愛美が見ているのは完全な夢である。
 普段、かなり寝起きが悪くちょっとやそっとでは起きない愛美である。
 今朝の早朝トレーニングには緊張していて、完全に脳が眠っていないため起きることができたのだ。
 だが、今はハードなランニングを終えた安心感と、寝不足に加え、体力、気力を消費して疲れきっていたため、短時間とはいえいつも以上に熟睡していた。それに比例して、もちろん低血圧による寝起きの悪さもアップしている。夢を見たまま、まったく起きる気配はなかった。
 ノックが鳴り続けているのに、思案ばかりしてまったくドアを開けようとしない。
 そんな自分を見下ろしている自分が、ようやく疑問を覚えた時、フッとベッドで寝転がっている愛美のまぶたが薄く開いた。
『あれ‥‥。私なんで寝てるんだろ、起きてたはずなのに‥‥。それより、ここどこ‥‥?』
 ぼーっとして頭がまったく働かない。
 周囲を見回して見えるのはまったく見覚えのない白い壁と天井。
 眠い。なにも考えられない。
 まぶたがまた落ちてくる。
 トン、トン、トン!
 さっきよりも、大きな音でドアがノックされる。
 その音にハッと意識が揺り起こされ、現実に愛美はベッドの上に身体を起こした。
 時計を見ると午前9時。
 その瞬間、愛美の頭の中で、今の自分の置かれた状況がパズルのようにはめ込まれ、記憶と意識がハッキリと繋がった。
 思いっきり眠り込んしまったらしい。
「やばッ‥‥」
 もういちど誰かがドアをノック。
「は、はい!」
 寝ぼけまなこで、急いでドアを開けると、そこには、船木亜矢が立っていた。
「あの、朝ご飯なんですけど‥‥、大丈夫ですか? もしかして、気分が悪いとか‥‥」
「す、すみません! ついうとうとして‥‥」
 大慌てで頭を下げる愛美。その髪はくしゃくしゃで後ろ頭では寝癖で跳ね回っている。
 1時間ほどとはいえ熟睡できたため、気分はすこぶるいい。
 ランニングを終えた直後は胃がムカムカとして気持ち悪く、とても食べ物など喉を通らないと思っていたが、かなり楽になったのだろう。今はものすごくお腹が空いていた。
「気分はどうですか?」
「大丈夫です。すみません、ご迷惑をかけて‥‥」
 ランニング程度で体力を使い果たし、胃液を吐いて悶絶したのだ。それも皆の前で。
「迷惑なんて‥‥。あの、もし迷惑だと思っているなら、愛美さんのペースでやればいいんです」
 亜矢のその言葉が、愛美の胸に刺さる。
 負けたくない、負けるはずがない。
 そんな小さなプライドで、なまっていた身体で無理をしての醜態。
 亜矢たちからしたら、愛美の自業自得と言ってしまえばそれだけのことなのだ。
 だが、真摯にアドバイスしてくれる。その言葉が胸に痛い。
「すみません‥‥」
 その時、キュルルと音を立てて愛美のお腹が鳴った。
 瞬間的に血が上り、愛美の頬が真っ赤に染まる。
「す、すみません! 私‥‥」
 愛美からしたら恥ずかしいが、亜矢から見れば元気になった証拠でもある。
「その様子ならもう大丈夫ですね。エネルギー補給しに行きましょうか」
 笑顔を浮かべながら言う亜矢。愛美は本気で穴があったら入りたいと思った。
「しっかり食べておかないと。午後からもっときついトレーニングになるはずですから」
 なにげなく聞き流しそうになった愛美だったが、亜矢のその言葉に引っかかる。
「あの船木さん‥‥。もっときついって‥‥」
「ウチのトレーニングって腕立て何回すれば終わりとか、そういう回数ノルマはないんです。効率を重視したトレーニングと違って回数ノルマで次のトレーニングに移るとかそういうのがないから、スタミナとかその辺がものすごくキツイいんです。肉体的にも精神的にも」
 亜矢の言葉に『今時、根性論?』と愛美が思う。
 その考えはトレーニングに参加するなかで氷解していくのだが、その時は、それが愛美の偽らざる感想だった。
 食堂では、もうほとんどの者が食事を終えていた。
 テーブルの上には、朝からボリュームのあるメニューが揃っている。
 これから人知を超えたトレーニングが待ち構えているのだ。消費する前にエネルギーはたっぷりと補給しておかなければならない。
 今朝のメニューはアジの開きに和風オムレツのキノコあんかけ、昨夜の豚味噌キムチ鍋のスープを流用した、豚バラ肉の他にジャガイモ、白菜、キャベツ、タマネギ、春菊などなど野菜がたっぷりと入った具だくさんの豚キムチ汁がメイン。サイドメニューは、沢庵漬けにひじきの煮付け、ほうれん草のおひたし、冷やっこ。プラス牛乳飲み放題。
 普段なら『なんだこの量、朝ごはん?』と思うほどのボリュームなのだが、今朝ばかりはそう思うことはなかった。
 あつあつのご飯がドンブリに盛られて出された時には、愛美の食べる準備は万全だった。
 朝から少しヘビーかもと思っていたが、ピリ辛のキムチ汁が食欲をそそってご飯が進む。
 食事を終えて、お茶を飲んで一息。
 なんだかんだとどんぶり飯を3杯、キムチ汁を同じく3杯と、愛美は見ている者が気持ちいいほどガッチリと食べていた。
 後片付けくらいはと、洗い物を手伝って自室に戻って休憩。
 食事の後に、今は使っていないからと高村から譲ってもらった小型のテレビをボーっと眺めていた。
 1時間半ほど休んでから、トレーニングウェアに着替え、道場に向かう。
 設立当初から比べると、所属人数が倍ほどに増えたKIZUNA。コーチ陣も、顧問であるジェニー・セイントを筆頭に、その2番弟子にして、現在は現役をセミリタイアしてコーチ職を中心にしているメリッサ・スティンボートと、SPWAの鬼コーチとしてその辣腕を振るっているレイチェル・ハートが、KIZUNA道場でプロフェッショナルレスリングを叩き込んでいる。
 その他にも、柔術、キックボクシング、サンボなどさまざまなジャンルのエキスパートが道場での指導に当たっている。
 道場でレイチェルに愛美が命じられたのは、これまでやっていたトレーニングをまずやれと、いうことだった。
 言われるままに、腕立て、腹筋、スクワットなどをこなしていく。
 小1時間後。WWPLでこなしていたノルマを終えたことを報告すると、基礎を続けるようにと、レイチェルに言われる。『なぜ』と聞いてもレイチェルはなにも答えない。ただやれと繰り返すばかりだった。
 ムッとしながらも再度、愛美は同じノルマをこなしていった。
 2回目を終え、レイチェルにそう報告すると、また、基礎をしろと言われた。
「続けなさい」
 その瞬間、愛美は切れた。
「なんで、そんなことしなくちゃいけないんですか!」
「2度は言わない。嫌ならやめるのね」
 激昂する愛美を、冷ややかな瞳でレイチェルは一瞥すると、そう言ってリングでスパーリングをしている中原たちの元へと行ってしまった。
 道場の隅にひとり残される愛美。よそ者だからこんな扱いなのかと、ふつふつと怒りが湧いてくる。
 なんのために自分はここまで来たのか、と。
 少なくとも、こんな事をするためじゃないはずだ。
 だんだんと怒りは悔しさに変わり、滲む涙を手の甲で拭う。
「‥‥くっ‥‥」
 それでも、もういちど同じノルマを繰り返す。
 腕が、足がパンパンに張り、筋肉が悲鳴を上げる。
 効率を重視してきたこれまでの愛美のトレーニングからは、考えられない負荷が全身にかかっている。
 もう、何回腕立てを、腹筋をやったのだろう。
 いつのまにか回数を数えることを愛美は止めていた。
 歯を食いしばりながら基礎トレーニングを続ける。
 何百回、いや何千回? 愛美は無心になって、全身を苛め続けた。
 まだ3月だというのに、全身を滝のように流れる汗が、足元に水溜りを作る。
 汗が目に入り、まぶたを開けられないほど痛い。
 ノルマ5回目に入り、腕立てを半分まで行ったとき、愛美は上半身を持ち上げることができなくなった。
 唸りながら必死で腕を伸ばそうともがくが、身体が言うことをきかない。
 そのまま汗の水溜りに突っ伏してしまう。
 手足の筋肉が痙攣を起こし自由に動かせない。
「くっ‥‥」
 荒い息をつきながら必死で起き上がる。
 水溜りになって、手を付いた床を濡らす、自分の汗に不思議な感覚を覚える。
 トレーニングで汗を流すのは当然なのだが、こんなにも無心になって必死の汗を流したのはいつ以来だろう。途中で感じた怒りも悔しさも、熱い汗と一緒に流れ落ちていったかのように、今の愛美のなかから消えていた。
 気がつけばもう日が暮れはじめている。
 忍び寄る冷気が汗を冷し、愛美の体温を奪っていく。
「どう? 動けなくなるまで腕立てやった感想は」
 タオルを愛美に放り投げながら、中原が声をかける。
「‥‥感想もなにもないです。私はレスリングを教えてもらいに来たのに‥‥」
「じゃ、やめたら」
 少しむくれ気味の愛美の言葉を遮るように、中原が言う。
「そんな‥‥」
「やるか、やめるか。どっちを選ぶもあんたの自由ってこと。あたしらの誰も強制はしないから。ただ、やるんなら覚悟決めてやんな」
 そう言うと、中原は愛美を残して道場を後にする。
「やるもやめるも私の自由‥‥」
 中原の言葉の真意が掴めず、愛美は困惑していた。

 ぎっくり腰の治療から、ジェニー・セイントが軽井沢の治療院からKIZUNAへと戻ってきたのは、愛美がKIZUNA道場でトレーニングを開始してから1週間後のことだった。
 その間、愛美は、腕立てや腹筋などを延々と繰り返すという基礎トレーニングばかりの毎日を過ごしていた。
 コーチであるレイチェル・ハートにどれだけ願い出ても、それ以外のことは一切認めてもらえなかった。
 他のトレーニングをするにも、相手をしてくれる者もいないからスパーリングもできない。
 思い余って葛城南総帥に直訴もしたが、コーチ陣の指示に従えと言われるばかり。
 それが嫌ならいつでもやめていいと言われ、愛美は引き下がるしかなかった。
 ムカついて、悔しくて。
 それでも、愛美はここで逃げ出すわけにはいかないと、歯を食いしばって基礎トレ地獄を続けていた。
 そんななか、気づいた事があった。
 メインイベンタークラスの選手たちでさえ、基礎トレーニングが回数ではないことに。ヘビー級のトップである荒谷紅美や高村あかねが、トレーニング途中でバケツに胃液を戻している姿を何度も目撃した。
 誰であれ倒れるまで基礎トレーニングを続けている。
 今や、メインに上がることもある中原千早希、船木亜矢でさえ胃液を吐いて悶絶するまで腕立て、腹筋、スクワットを続けるのだ。
 その後、身体を休めてから、各々が必要な専門トレーニングに入っていく。
 どうしてそんな効率の悪い練習をしているのか、疑問を感じても誰も答えを教えてくれず、愛美はただ、黙々と言いつけられたものをこなすしかなかった。
 やっと、翌日に疲労と筋肉痛を残さなくなった頃。
 ジェニー・セイントが天野真琴と共に軽井沢から帰ってきた。
 その夜は挨拶をするだけで終わった対面だったが、やっと念願のランカシャーレスリングを教われると意気揚々と、その夜、愛美は眠りについた。
 しかし、翌日も言いつけられたのは、いつもと同じく基礎トレーニングだった。
 瞬間的にカッときたが、なにか理由があるのかも知れないと思い直して、愛美は道場の隅で基礎トレーニングを続けた。
 それから3日。
 基礎トレ地獄が10日目に入った時、ついに耐えられなくなった愛美は怒りのままにジェニーに訴えた。
「私はレスリングを教わりたいんです! どうしてこんな基礎ばかりなんですか! それも意味のない根性論ばかり‥‥」
「根性論? 誰か根性論で指導してたのかい?」
 こりゃ驚いたと言わんばかりに、ジェニーがレイチェル、メアリーに尋ねる。
「根性論じゃないですか! ただ腕立てを続けろなんて‥‥」
 ああ、そういうことかと、ジェニーはうなずきながら微かな笑みを浮かべた。
「そうかい。お嬢ちゃんは、今やってることが根性論でやっている意味のないトレーニングだと、そう言うわけだね?」
「だからっ! ‥‥」
「なにを言ってるのかと思ったら、そんなことかい」
「そんなことじゃないです! いったい、いつになったら‥‥」
「そんなこと言ってる暇があるなら、腕立ての1回、腹筋の1回でもやったらどうだい? 文句なら、やることやってから言うことだね」
「何回やればいいんですか! みんな、ただやれって言うだけで‥‥」
「トレーニングは頭でするものなのかい? 驚いたね、私は身体でするものだとばかり思っていたよ」
 優しい老女の瞳が、鋭い光りを放つ。
 イギリス女子プロレスマット界の重鎮として君臨する鉄人のオーラに、愛美は思わずたじろいでしまう。
「でも‥‥」
「嫌ならお帰り」
 そう言ってジェニーは愛美に背中を向ける。
 以後、コーチ陣の誰も愛美の声に振り返ることはなかった。
 ジェニーの背中を、しばらく怒りと悔しさで唇を噛み締めながら、睨みつけていた愛美だったが、仕方なく道場の隅でスクワットを始めた。
 愛美がWWPL道場で指導され、これまでやってきていたトレーニングはすべて、効率を重視したものだった。筋肉のどの部位にどのように負荷をかければいいのか、その回数などが科学的に算出され、それを行うことで筋肉、瞬発力、パワーなどが効率良く鍛えられる。
 だが、今、自分自身が体験し、KIZUNAで行われているトレーニングは、愛美の目から見てなんの意味があるのか理解できなかった。
 ただ闇雲に回数を行うだけのトレーニングは身体を鍛えるのではなく、身体を壊すだけとしか思えなかった。
 指針となる回数も指示されず、そのトレーニングにどんな意味があるのかも教えてくれない。
 そんな非科学的で非効率的なトレーニングは愛美には理解できなかった。
 そして、こんな非科学的で非効率的なトレーニングを採用している団体があることも。
 基礎トレ以外に、所属選手がマシントレーニングをしたければ、道場に隣接している、サザンスポーツジムで好きな時間に行うことができるが、愛美には使用の許可が下りなかった。
『こんなトレーニングじゃ‥‥』
 強くなんかなれない。
 そう、愛美は思う。
 考えれば考えるほど、愛美は怒りと悔しさを覚える。
 しかし、その日より、道場では誰も愛美に声をかけることはなくなった。
 どれだけ教えを請うても、コーチ陣の誰もなにも教えてくれない。
 それから2週間が過ぎた。
 その間も、愛美に命じられるのは基礎トレーニングのみだった。
 誰もなにも教えてくれなくても、愛美にはそれを細々とこなすしか道がなかったのだ。
 その日もなんの指導もしてもらえずに練習は終わり、愛美は道場を後にした。
 練習中は誰も声をかけてくれることはないが、練習が終わると皆、フレンドリーに話しかけてくれるし、いろいろと気にかけてくれる。
 それが、今の愛美には偽善に見える。
 放っておいてくれれば、よそ者という気持ちでいられるのに。
 夕食を終えた後、シャワーではなく大浴場で手足を大きく伸ばして風呂に入る。
 やはり、シャワーで汗を流すだけよりは大きな湯船につかるほうが気持ちいい。
 KIZUNA寮の大浴場はちょっとしたスーパー銭湯大の大きさがあり、ジャグジーとサウナも設置されている。ゆっくりと時間をかけて筋肉をほぐし、全身をリラックスさせる。大浴場内に設置されているサウナも使い、新陳代謝もばっちりだ。
 風呂上りに食堂で良く冷えた牛乳を飲んでから、部屋に戻る。
 時間は9時を回ったばかり。まだ宵の口ではあるが、全身の筋肉は悲鳴を上げている。人の筋肉は睡眠を取っている間に修復され、回復される。とにかく身体を休めないと明日に差し支えるので、早々にベッドに入った。
 しかし、眠れない。
 しばらくベッドの中で寝返りを打ったりしていたのだが、外の空気でも吸ってこようと、散歩がてらに部屋を出た。
 KIZUNA道場がある土地は山間部が近いため、夜になると気温が下がる。キンと冷えた外気が逆に気持ちいい。
 ふと気づくと、道場から明かりが漏れている。
 誰かが練習しているのだろうか。
 こんな時間に? 誰が? 
 なぜか気になった愛美は、扉の隙間から道場の中を覗き込んだ。
 すると、誰も居ないはずの道場内では、長い黒髪を一本三つ編みに編んだ人影が一人、黙々とスクワットをしていた。
『天野さん‥‥』
 天野真琴。KIZUNAファクトリーのエースであり、メキシコのジャベと呼ばれるグラウンドテクニックと、ランカシャーレスリングを武器に、タッグチャンピオンとしてジュニアヘビークラスに、その名を刻んでいる。盟友である家城晶、高村あかねとのユニット『スイサイドガールズ』を結成し、ジュニア戦争と呼ばれる激戦を潜り抜けてきたジュニアのトップレスラーだ。
 A☆Fに所属している愛沢美奈子との相思相愛のライバル関係は、ファン、マスコミを巻き込んだ女子プロレス界の名勝負数え歌のひとつとして認知されている。
 しかし、ある事件を発端にした、とあるレスラーとの感情のもつれから大会当日に試合をドタキャンしてしまう。
 その日からリングを離れて約1年。
 今年1月のKIZUNA自主興行で、劇的なリング復帰を果たした真琴だったが、以後、どこの団体にも上がらず、その復帰は幻と言われていた。
 その真琴がひとり、道場で汗を流している。暖房もないかなり低い気温の道場のなかで、天野の身体からは湯気が昇り、足元には流れた汗が水溜りになって広がっている。
 昼間も皆と一緒にそれこそ倒れるまでトレーニングをしていたはずなのに。
 ただ黙々とスクワットを続ける真琴から、愛美はなぜか目が離せない。
 リズムよく回数がこなせなくなっても、歯を食いしばりながら真琴は膝を伸ばし、スクワットを続けている。
「‥‥くしゅんっ!!」
 外気に冷えたのだろう。
 愛美は思わず大きなくしゃみをしてしまう。
 そのくしゃみに気づいた真琴が顔を上げ、扉から顔を出していた愛美と目が合う。
「あ、あの‥‥すみません‥‥。お邪魔して‥‥」
「いえ‥‥。愛美さんこそ大丈夫ですか? 大きなくしゃみでしたけど‥‥」
 それをいい機会と、真琴は休憩に入ることにした。
 道場内のベンチに天野と愛美が並んで腰掛ける。
 紙コップに魔法瓶の中からホットレモネードを注ぎ、ふーっ、ふーっ、と息を吹き掛けながら真琴が口をつける。
 その隣で、愛美も一緒にホットレモネードを飲んでいた。
「今年の冬は暖かいですけど、夜になるとやっぱり冷えますからね」
 一息ついている真琴に、意を決したように愛美は尋ねた。
「あの、天野さん」
「はい」
「どうして、夜にひとりで練習しているんですか? 昼もあんなにトレーニングしていたのに‥‥」
 その問いに、ちょっと驚いたように、真琴が愛美を見る。
「なんでって‥‥。今のわたしはプロレスラーじゃないですから」
 プロレスラーじゃない。
 愛美は真琴のその言葉になにかひっかかるものを感じた。
「だから、ひとりで‥‥?」
「今はひとりでやらなきゃいけませんし。今のわたしじゃジェニーさんたちも指導できませんからね」
「指導できないって‥‥?」
 愛美の問いに、少しだけ真琴は思案顔になった。
 そして、逆に尋ねた。
「愛美さんは、KIZUNA道場に来てからどの位たちました?」
「‥‥もう1ヶ月になります。その間、ずっと基礎ばっかりで‥‥」
 1ヶ月と聞き、更に真琴は思案顔になる。
「あの‥‥天野さん?」
「えーと‥‥。それじゃこの1ヶ月を振り返えって、なにか気づいたこと、変わったことはなにかあります?」
「変わったこと、ですか? そう言われても‥‥」
 変わったもなにも、ただ腕立て、腹筋、スクワットと言った基礎練習をそれこそ始めから終わりまで延々と続けていただけなのだから。
「‥‥そうですね。高村さんや荒谷さんたちも倒れるまで基礎トレーニングやってるのは、ビックリしましたけど‥‥」
 これまでの1ヶ月を思い返し、1番印象に残っていることを口にする。
 それを聞いた真琴は、少しだけ考え、まあいいかという顔をすると静かに語り始めた。
「練習って、もちろん効率や集中も大事ですけど、それはスタートラインに立ってからのことだと、わたしたちは考えているんです。最低限スタートラインに立ってからじゃないと言いたいことは言えませんし、やりたいこともやれませんから。ブランクのある今のわたしは、そのスタートラインに早く戻らないといけないんです。もちろん、レスリングの練習や個々の得意な分野の練習も必要ですから、そういう練習をするならプロレスラーになるための基礎を終えてから、個人の練習としてやるんです。なにを学びたいかを自分で考えて、指導をお願いして。だから、腕立てが何回できたとか腹筋を何回やったじゃなくて、自分が考えるプロの姿に少しでも近づくために、みんな基礎トレをやってるんです。昨日よりも1回でも多く腕立てや腹筋をやって、自分の限界を少しでも上げるために。だから、終わりがないんです。荒谷さんも高村さんもみんな、限界までトレーニングをやるんです。自分のために。それがプロとアマチュアの違いだと、思っているから」
 自分の限界を知り、その限界を超えるため。
 自分の理想とする高みに、少しでも近づくため。
 それがプロ。
 その、真琴の言葉が、愛美の胸に突き刺さる。
「それに、そういう限界を超えるという気持ちが心の強さに繋がります。試合のなかで苦しい場面に立っても、あんな苦しいトレーニングを乗り越えてきた自分がこの程度で負けてたまるかって奮起できるから。筋肉をつける、身体を大きくする、瞬発力をつける‥‥いろいろありますけど、身体を鍛えるだけなら、そんな苦しいことしなくてもいいと思います。でも、それだけじゃプロにはなれませんから。プロは身体もそうですけど心も強くなきゃいけない。闘うためのプロってそういうことなんだと思います、わたしは。多分、みんなもそう思っているから、まず基礎をやるんです。もちろんケガしないためっていうのもあります。千早希じゃありませんけど、流した汗はウソをつきませんから。汗を流せば流した分だけ、人は必ずなにかを得ていますから」
 真琴の言葉に、愛美は、ガンとハンマーで殴られたような衝撃を感じていた。
 この1ヶ月、自分はそういう壁を越えようとしていたのだろうか、と。
 ただ、回数をこなしていただけなんじゃないか、と。
 回数をただこなすだけなら非科学的な根性論だが、それが目的ではないと、すでに自分はジェニー・セイントに示されていたではないか。
 回数をただこなしていただけだから、誰もなにも指導してくれないのだ。
 なにを学びたいか、なにを身につけたいのか。自分はそれを考えて今までトレーニングをしていたのだろうか。
『やるか、やめるか。どっちを選ぶもあんたの自由ってこと』
 道場での練習参加の初日に、中原千早希から言われた言葉が愛美の心に甦る。
 誰も強制はしないのだ。やるもやらないも当人の自由。
 ただし、やらない者のことは誰もプロとして扱ってくれない。
 身体作りだけではない。心構えがプロとしてのスタートラインに立っていない者を、その位置から指導しても理解できないか、ケガをして終わるだけだ。
 だから、スタートラインに立つまで、やるべきことをやれと、ジェニー・セイントも、レイチェル・ハートも葛城南も基礎トレーニングを続けさせていたのである。
 愛美自身がそれに気づき、気持ちの部分でもKIZUNA道場で考えるプロの位置に立つまで。もちろん各団体ごとに指導の方針も違うし、スタートラインも違う。
 それをとやかく言うつもりはないが、KIZUNA道場に入った以上、KIZUNAファクトリーの方針でトレーニングを受けてもらう。
 1日体験などのお客さんではないということなのだ。
 そして、愛美はそれを希望して道場入りしたはずだった。
 ホットレモネードを飲み干した真琴が、立ちあがって愛美に向き直った。
「明日も早いですから、愛美さんはもう休んだ方がいいですよ」
「‥‥天野さんは‥‥まだ?」
「ええ。もう少し。早く、去年の今ごろ位の自分に戻さないと‥‥」
 そう言って、真琴は腕立て伏せを始めた。
 通常の腕立て伏せから、上体を反らしながらの腕立て伏せなど、全身のさまざまな部位を鍛えぬく。
 五指を伸ばしての腕立て伏せから一本ずつ指を減らしていく腕立て伏せに、手の平と甲を交互に入れ替えながらというような、まるでジャッキー・チェンが映画の中で見せるような腕立て伏せを行っている。
 筋肉がパンパンに張り、もう身体を腕で支えることができなくなった真琴は、呼吸を整えると、ゆっくりとした動きで中国拳法の型稽古のようなものを始めた。
 今、真琴がやっているのは、八極拳の六大開拳。これは套路と呼ばれる型を反復する練習方法で、低く重心を維持し、瞬間的な瞬発力で突き、蹴りなどを放つ。
 動きそのものは緩やかながら、相当な力が全身に負荷を与えていることが見て取れる。この緩やかな動きが実は曲者で、速いスピードならば流れで行える動きであっても、ゆっくりとした動きを維持するためには相当なパワーと筋力を必要とする。
 力強く大地を踏みしめながら、身体を捻り、螺旋のパワーを全身に行き渡らせた。
 八極拳と長拳を幼い頃から真琴は学んでおり、実は日本でも有数の使い手である。
 太極拳が健康体操としてもてはやされるように中国拳法の動きは、全身運動である。
 真琴は、プロレスのトレーニングにもそう言ったものを取り入れているのだ。
 愛美はベンチに腰掛けながら、真琴のトレーニングをただじっと見つめていた。
 日付が変わる頃、真琴は練習を終えた。
 真琴と一緒に寮へ戻る道すがら、愛美は熱い涙が溢れてくるのを抑えることができなかった。
 真琴と道場で話をした翌日から、愛美のトレーニングへの姿勢が変わった。
 ただ闇雲にWWPL時代のノルマをこなすのではなく、今の川部愛美になにが必要なのかを考えることから始めるようになった。
 まず、自分がリングで表現したいスタイルをじっくりと熟考した。
 愛美にとってプロレスとは、ハイスパートでもハードヒッティングでもない。
 3カウントでフォールを奪うものだ。
 自分が目指すのは、じっくりとしたレスリングスタイル。それもプロフェッショナルの。
 そのために最低限必要だと思うことを、自分なりに考える。
 まずはスタミナだ。
 相手を試合中にコントロールするためには、それこそ無尽蔵のスタミナがなければならない。そのために心肺機能を上げる必要がある。
 そう考えて、集団でのランニングで参加メンバーの走り方を見ていると、人それぞれ、自分のスタイルを維持するためのランニングをしていることに気がついた。
 ハイスパートに走り自分の限界を常に上げようとする者、ラン&ダッシュでスタミナと瞬発力を上げようとする者などさまざまだ。愛美はスタミナと瞬発力を上げるためにラン&ダッシュを自身のランニングに取り入れた。
 道場に戻っての基礎トレも同じ。
 愛美はボディビルダーではないのだ。
 なにを、どこを鍛えるかではなく、それがなにに必要なのかを考えなければならない。
 筋肉や肉体を作り上げるためには、ただバーベルを持ち上げるのではダメだ。
 正しいフォームで正しく負荷を与えないといけない。
 しかし、KIZUNAでは、バーベルをただ持ち上げるくらいならやる必要はないと考える。人間の身体はバーベルのように持ち上げやすくはできていないのだから。
 そう、考え始めると次から次へと必要なことが目の前に現れ、そして、それを活かすための方法も考えれば考えるほど浮かんできた。
 自分だけでアイディアが浮かばなければ、道場にいる誰であれ、つかまえてはアドバイスを求める。すると、誰もが真摯に愛美の言葉に耳を傾け一緒に考えてくれた。
 そうやって考え、アドバイスをもらうことで、同時に愛美はクレバーな思考も養っていった。
 ただアドバイスを求めにいくと、まず自分で考えるようにと、さりげなく言われる。
 最初はなにも教えてくれないと思っていたコーチ陣、ジェニー・セイントもレイチェル・ハートも愛美が自分で考え、その上で質問をぶつけて指導を求めると、これまでとうってかわったかのように、細かなアドバイスと一緒に愛美に指導してくれる。
 ジェニー・セイントもレイチェル・ハートもKIZUAN道場では、練習生を指導しているわけではないのだ。
 プロレスラーにプロのコーチをするために、KIZUNA道場にいるのである。ただ指導してくれと求められても、教えるものなどなにもない。
 だから、これまで誰も、愛美になにも教えてくれなかった。いや、指導を求める姿を愛美自身が見せていなかったのだ。
 そうした日常のトレーニングのなかで、ジェニー・セイントのアドバイスのひとつひとつを消化し、組み上げて行くなかで、愛美のレスリング観は根底から変えられていった。
「別にグラウンドが上手い必要はないんだよ。知っていてできればそれでいいんだよ」
 グラウンド技術こそレスリングの根本だと考えていた愛美にとって、ジェニーの口癖のその言葉は、まさに目からウロコが落ちるようなものだった。
 リング上の闘い。
 そのすべてをコントロールする術。
 それこそがプロフェッショナル・レスリングだとジェニーは言う。
 グラウンドコントロールテクニックも、サブミッションテクニックも、そのすべてはプロフェッショナルレスリングの一面でしかない。
 スタンディングでのエルボーの応酬も、れっきとしたレスリングなのだ。
 気がつけば、これまでの1ヶ月がウソのような充実したトレーニングの日々を愛美は過ごしていた。
 まるで渇いたスポンジが水を吸い込むように、どん欲にさまざまなことを愛美は吸収していった。
 それから1週間が過ぎたある日。
 練習を終えた後、ジェニー・セイントに残るように言われた愛美は、なんのことかわからずにリングサイドへと上がった。 リング上にはジェニー・セイントの他に、メリッサ・スティンボートの姿があった。
 リングサイドには愛美を始め、遠征に出ていない主だったKIZUNAメンバーが勢ぞろいしている。
「さて。まずは、お嬢ちゃんに聞こうか。プロレスラーに必要なものとはなんだい?」
 ジェニー・セイントにいきなりそう言われ、愛美は面食らってしまう。
「え? えっと‥‥、スープレックスとか、サブミッションとかでしょうか‥‥?」
「まあ、そう考えるのが普通かね。いいかい。本物のプロなら、エルボーとボディスラムがあれば試合になるんだよ。プロのレスリングと言うのは技の数や大技じゃない。まずはそれを覚えておいで」
 いきなり始まった講義に、なにがなんだかわからなくなる愛美だったが、これが週に1度、リングでやっているミーティングなのだと気がついた。
 KIZUNA勢、SPWA勢がジェニー・セイントを囲んで、リングでなにやらやっているのは知っていたが、これまで愛美はそこに参加する事は許されなかったのだ。
「ジャーマンスープレックスが出きるからプロレスラーかと言ったらそうじゃないだろ? 最近はろくに基礎もできていないのに、見た目と大技、それにマイクばっかり練習している連中も多くなっていて嘆かわしいことだけれどね。そんなものはやるべきことをやった者がやるから見られるものになるんだよ。笑わせるのと笑われるのは別物だと指導者が教えないといけなんだけれどねえ」
「あの、ジェニーさん。それくらいで‥‥」
 だんだんと愚痴になり始めたジェニーの言葉を、真琴が恐る恐る止める。
「‥‥ああ、そうだね。ええと、どこまで話たっけね。‥‥そうそう。いいかい、技術云々よりも、まずプロレスを学ばないといけないことを忘れないことさ。じゃあ、今日はお嬢ちゃんに相手をしてもらおうかね」
 と、言うとジェニー・セイントは愛美を指名した。
 言われるままにロープをくぐり、リングに入る。KIZUNA道場に来てから初めてのリングの感触に、なんともいえないものを感じる。
 ギックリ腰の調子がまだよくないため、ジェニー・セイント本人による相手は無理ということで、愛美とメリッサ・スティンボートがリングで向かい合う。
 命、朧として試合をしていた時は、丸め込みを得意とし、若手ながら技巧派として鳴らしていた自信が胸の中に湧きあがる。
 少しでも良い所を見せようと、自分からタックルを仕掛けた。
 そのタックルをメリッサが、がぶるように止めて、その体勢からリストを取ると、それを支点にメリッサが愛美の腕を逆に捻る。
 手首、肘、肩が固定されうつむくように押さえつけられ、腕固めを極められた。
 基本中の基本の腕固めだが、これまで受けたどの腕固めとも違ってまったく動くことができない。
 力で抑えつけられているわけではない。
 その証拠にメリッサの顔には、まったく力んだ様子はなかった。
 手首を内側に曲げるように固定し、そのまま逆に捻ることで、愛美の腕そのものがテコの原理で、自分の身体を押さえつけているのだ。
 強烈な痛みはないが、肩から全身にかけて強烈な負荷がかかったかのように動けない。そして、どんどんスタミナが奪われていく。
 なんとかしてその拘束から逃れようとしていると、唐突に固定された腕が自由になる。メリッサが固定しているリストをゆるめたのだ。その隙に、愛美が下からくぐるように回転して、捻られた腕の自由を取り戻す。
 ならばと、メリッサの脇を差し、腕を取って逆にひねりながら肘を曲げさせて、背中に固定して捻りあげる。
 これまた基本のハンマーロックを愛美が見せる。
 しかし、メリッサは慌てず騒がず、自分と愛美の間に空間を作ると固定されている腕を支点に、自らリングを転がるように後転、前転を繰り返し、気がついた時には愛美のほうがメリッサにハンマーロックで固定されていた。
 なにが起きたのかまったくわからない。
 現在の女子プロレスでは、ほとんど見られることのなくなった攻防。
 リストロックからハンマーロック、そのハンマーロックをリバースしての逆ハンマーロックという一連のチェーンレスリングこそ、プロレスの基本なのである。
 この基本を突き詰めれば、ありとあらゆる方向からリバースをすることが可能となる。それこそがランカシャーレスリングなのだ。
 これまでのレスラー生活のなかで、1度も体験したことのないスタイルに、愛美はまったく対応することができない。
 なんの説明もないままの一方的なスパーリングに、KIZUNAに来た頃の愛美だったら、そのプライドと自分に対する自信から、怒りのままに爆発していたかもしれない。
 しかし、今の愛美には、なぜそうなるのか、どうして動けないのか、メリッサに極められるその動きのひとつひとつに興味が尽きなかった。
 逆に、受け手である自分がどうなっているのか、メリッサの立ち位置、体重の乗せ方といったものを自分の目で確認することができないことに悔しさを感じていた。
 誰かビデオに撮ってくれていればいいのに。
 そんなことを考えながら、愛美はメリッサに極められ続けていった。
 約10分の濃密な時間があっと言う間に過ぎていく。
 一連の攻防が――と言っても愛美はほぼ一方的に受けていただけだったが――終わると、全員でのミーティングが始まる。
「さて。今の流れのなかで、なにか気がついたことは?」
 見ていた全員から、さまざまな疑問点と不明点、それに攻防に対する意見が飛び交う。
「最初のほうでさ、メリッサの腕を愛美ちゃんが取りにいったでしょ? あそこで脇を差したんだからハンマーロックじゃなくて肘を固めるっていう選択肢もあったんじゃない?」
 高村あかねがまず口火を切ると、皆が口々に討論をはじめた。
「あたしなら距離とってローで体勢崩すんですけど‥‥」
「それは千早希ちゃんだけ‥‥」
「わたしは、アームドラッグで投げてから手を取って、肘を伸ばして固定するアームバーにいけばって思ったんスけど‥‥」
「でも、それはこんな技もあるのにっていう頭があるからでしょ? やっぱり取られたリストは取り返すっていう攻防になるのが基本じゃないの」
 見ていた者たちの言葉に、見えなかったスパーリングの形が愛美の脳裏におぼろげながら、見え始める。
「まあ、いろいろ意見はでているようだけど、基本だからと言って型はないからね。ただ、メリッサに比べてお嬢ちゃんのハンマーロックはリストの固定が甘い部分があったようだね。だから、ああも簡単に切り返されてしまうんだよ」
 そう言うと、ジェニー・セイントがちょっとおいでと愛美を手招きした。
 ジェニー・セイント自身が愛美の腕を取り、リストを固定すると腕を捻りハンマーロックに固める。
 まさにロックと言う言葉通りに動かす事ができない。
 背中側に肘を曲げた形で固定されている手首がそらされた状態でガッチリと固定されて捻られ、身体が浮き上がりまったく動くことができなくなる。
 固定した腕を思いっきり力で上に引き、身体を浮かせるという攻防があるが、その場合、腕を引いていることが完全に見て取れる。
 しかし、ジェニー・セイントのハンマーロックでは、端で見ているだけではリストをまったく引いているようには見えない。
 手首を捻る角度を深くすることによって、自然に愛美の身体を浮かせているのだ。
 まさに妙技としか言いようのないジェニー・セイントのテクニックに、固められたままではあったが、愛美は感動にも似た気持ちを感じていた。
 続いてメリッサと坂倉宏子がリングで向かい合う。
 アームバー、リストロックからハンマーロック。初めて目にする、流れるようなメリッサの動きとテクニックに愛美はため息しかでない。
 トップグループの一角に立つほどのキャリアを持つ坂倉が完全に翻弄されている。
 最後は、うつ伏せの坂倉へメリッサが強烈なヘッドロックを極めた。
 ヘッドロック。
 プロレスファンならずとも、一度は遊びで掛けたことがある者が多いプロレス技のひとつだろう。
 新人が最初に覚えるプロレスサブミッションの基本中の基本で、脇で相手の頭部を挟むだけの単純な技に思われがちだが、その奥は深く、現在でも使い方次第ではフィニッシュになるほど、その威力は折り紙付きである。
 ポイントは、力で頭部を絞めるのではなく、相手のこめかみ、頬骨、アゴと言った顔面の急所に、掛け手の手首の接合部にある堅い骨を当てて極めことにある。絞めつけるのではなく、顔面の急所を極める関節技なのである。
 うつ伏せ状態でヘッドロックと同時に首を引かれ、頚椎も同時に極められてしまうと、耐える間もなく坂倉がタップしてしまう。
 ヘッドロックひとつ取っても、どれだけ奥が深いのか。
 ジェニー・セイントが語る『本当のヘッドロック、本当のロックアップ、本当のロープワーク』の奥深さに、心から揺さぶられる。
 基礎トレーニングにしてもそうだったが、これまで自分が体験したことのない、濃密な時間がそこにあった。
 そして、全員でのミーティング。
 ひとつの例を皆で語り合い、自分に置き換えることで、身体で覚えるのとは別にクレバーなレスリング頭を養っていく。
 スパーリングを見て技術を盗むのと同時に、意見を交換し合うことで他の人間たちの考えを知り、自分では想像もできないような動きや攻防を知ることができる。
 プロとしての意識が高くなければ、こういう方式はデメリットしか生まないが、自らがやることを自覚し、それを踏まえ、より上のテクニックを求めるならば、ディスカッションをすることは多くのメリットを生む。
 意見を交換しながら、この濃密な時間をキャリアだけを見れば新人でしかない津上美紗までもが、ずっと体験していたのかと思うとジェラシーにも似た感情を覚えてしまう。
 それほど、愛美にとってカルチャーショックとも言える時間だった。
 結局、意見らしい意見を出せないまま時間は終了してしまう。
 まだまだこの充実した時間を過ごしたいと愛美は思ったが、あることに気がつき思わず微笑んだ。
 そう。この充実した時間を、これからの自分はもっともっと体験できるということに。
 ようやく愛美は、念願のジェニー・セイント教室の生徒になることができたのだから。

 愛美が初めてジェニー・セイント教室に参加してから1ヶ月が過ぎた。
 体力、筋力、瞬発力‥‥。
 気がつけば愛美の身体能力は飛躍的に伸びていた。
 今の自分なら60分をフルタイム動きまわれるだけのスタミナがある。
 実際に試したわけではないが、その自信はある。
 以前のような過信ではなく、事実としての自信だ。
 プロとしての自覚といってもいい。
 今の愛美には、自分の理想とするプロレスを明確にイメージできているし、それを学ぶための素直な気持ちを持っていた。
 川部愛美のプロレスという種が心の花壇から芽吹き始めていた。 
 自分の理想とするプロレスをイメージし、それを創造する場。
 KIZUNAファクトリーという団体名には、工房という隠された意味がある。
 道場で練習するひとりひとりが個性を伸ばすなかで絆を結び、ひとりひとりがプロレスラーという職人であり、創造者であれという意味を込め、葛城南総帥と深沢拓海統括が名付けたのである。
 団体には自然と特色のようなものが現れる。
 それは所属レスラーのファイトスタイルにも現れ、リングでのファイトを見れば、通のファンならばそのレスラーがどの系譜の団体出身なのかがすぐにわかる。
 KIZUNA所属レスラーであれば、個々の個性を重視しその道のスペシャリストを育成しているのだが、現代では珍しい古典系の基礎技を皆、バックボーンに持っており、その片鱗を所々で見せている。
 そして、それこそが愛美が求めたプロレスだった。
 実際にKIZUNAに来てみて思ったことではあるが、愛美が理想としていたスタイルはすぐ近くにあった。
 それがそうだと知らなかったために、気づかなかっただけなのだ。
 なにも知らずにただ時間だけを過ごしていた最初の1ヶ月を取り戻すかのように、愛美はどん欲にランカシャーレスリングを吸収していた。
 同時に、SPWA勢が得意とするカルガリースタイルの瞬発力を活かした攻めも、愛美の血となり肉に溶け込んでいった。
 古典をそのまま身につけても意味がない。
 古典と呼ばれるテクニックを軸に、自分にあったものを噛み砕いて吸収し、自分だけの新たなるものを構築することが重要なのである。
 ランカシャーレスリングを基礎にしたハイスパートなテクニックで相手を翻弄して3カウントを奪う。
 愛美の理想とするスタイルに必要なパーツは、揃いつつあった。
 後は、それを熟成させるだけだった。

「私がイギリスへ、ですか?」
 その日。道場での練習前に葛城に呼ばれ、KIZUNA社長室へと姿を見せた愛美は、「イギリスに行く気はない?」という葛城の話に少々、面食らった。
 目の前には葛城オリジナルブレンドのコーヒーが湯気を立てている。
 芳醇な香りと少し酸味の効いた、ブルーマウンテンを基本としたそのブレンドは、KIZUNAに来てから何度か飲ませてもらっているが、喫茶店を開いたとしても成功するんじゃないかと愛美は思っていた。
 きっと、この味と香り目当てに常連がたくさん集まるだろう。
 もちろん、カウンターに立つ葛城南目当ての客も多いだろうが。
 そんなことを考えていたら、いきなりイギリス行きを言われたのである。
「ええ。ウチは今、イギリスのBAWLと提携を結んでいてね。向こうのシリーズにウチから派遣するメンバーにあなたを推薦しようと思ってるの」
「でも、私はKIZUNAに所属しているわけじゃありませんし‥‥。ただ練習させてもらってるだけで‥‥」
「別にウチの人間だからとかそんなのは関係ないから。向こうの希望にも沿うし、あなたにとっても良い話じゃないかしら。そろそろ学んだものをリングで実際に試して見たい頃でしょう?」
 葛城の言葉通り、確かに愛美は、この1ヶ月で身につけたものをリングで試してみたいと思いはじめていた。
「ですけど‥‥」
 しかし、どうしても煮え切らない返事になってしまう。
 自分が行って失敗すれば、自分が笑われるだけではすまない。
 ブッキングしたKIZUNAが笑われるのだ。
 そう考えると、ふたつ返事で「はい」とは言えない。
「別に思いつきで言ってるわけじゃないから。ジェニーさんとも相談して、今のあなたならっていう話になってるの」
 ランカシャーレスリングの本場であるイギリスへの遠征、しかもシリーズ参戦である。
 愛美にとってこれほどの好条件はなかった。
 しばし考え、愛美は決意を込めて葛城に向き直った。
「よろしくお願いします」
「そう。それじゃ、日程とか詳しい事が決まったら連絡するから」
 話が決まったのはいいが、瞬間的に乏しい預金通帳の残高が思い浮かんでしまう。
 少し早まったかなと思いながら、愛美は社長室を後にした。

「イギリス‥‥か‥‥」
 ランカシャーレスリングの楽しさに首までどっぷりと浸かっている今、愛美に取ってイギリス遠征という話は、それこそ願ってもないことだった。
 しかし、現実が愛美に重くのしかかっていた。
 懐具合が寂しいのである。
 短期のバイトでも探さなきゃ、と考えながら愛美は道場へと向かった。
 旅費もかかるし、当座の生活費だって必要だ。
  生活するに困らないだけのギャラが取っ払いで入るわけでもないだろうし。
 KIZUNAでの生活みたいに、食と住が完備されているなんてことは甘い考えだろう。
 あー、どうしようと思いながら、道場の中へ入る。
 日程が重なり、遠征組が一斉に出払っているため、道場で練習しているメンバーは少なかった。
 いつもの定位置に行き、いつものように黙々と基礎トレーニングをはじめる。
 1ヶ月前は、あれほど嫌がっていた基礎トレーニングだったが、今は、毎日の基礎トレがまったく苦にならなくなっていた。
 スクワット、腕立て伏せ、腹筋。WWPLでは非効率の極致だと教わってきた。
 そんな昔ながらのトレーニング方法も、それが心の持久力、集中力を高めるものだと理解すれば、そこに効率も見つけることができる。
 それが、身体に負担をかけるものだとしても、負荷が掛かれば掛かるほど心のスタミナは増えていく。
 効率こそが重要だと考えてきた愛美だったが、それだけじゃないということが、おぼろげながら見えてきた。
 流した汗はウソをつかない。
 中原千早希を筆頭にKIZUNA勢が口癖のように、言うその言葉の意味が少しずつではあるが、わかってきた気がする。
 ボディビルダーのようにただ身体を鍛えるだけならば、効率こそが重要だ。
 しかし、プロレスラーのトレーニングには、一見無駄だと思われるようなものでも、重要な意味が隠されていることがある。
 身体だけではなく心も鍛えなければならない。
 言わば、武道精神に近いものがあるのだ。
 だからトレーニングに終わりはない。
 プロは試合をするからプロなのではないである。
 最高の試合をファンに見せるために、日々の身体をいじめぬき最高の自分を作り上げるためのトレーニングをすることこそがプロの本当の仕事なのである。
 濃密な2時間が過ぎ、休憩を挟んだ後、ジェニー・セイントにリングに呼ばれた愛美は、メリッサ・スティンボートとスパーリングをするように言われた。
「BAWLに行く前に餞別を上げないとね。メリッサがやって見せるから、まずはそれを受けてごらん」
 ジェニー・セイントの言葉を受けたメリッサが、愛美の腕に自分の腕を絡ませながら、愛美の周囲をクルクルと回り始める。
 向き合った状態からメリッサが愛美の腕を絡め取り、捻るようにお互いが背中合わせになるように翻弄する。
 逆さ押さえ込み? 愛美がそう考え、防御するために重心を前に置く。
 しかし、メリッサは、さらに愛美の身体を軸に回転し、一瞬で回転エビ固めの形で愛美をフォールする。
 愛美は、自分になにが起こったのかまったく理解不能だった。
 だが、メリッサに華麗にコントロールされ、丸め込まれたことだけは理解できた。
 欧州テクニックを応用したこの技は、チョココロネと言う名で、NOAHの丸藤正道選手が見せるものだ。相手の身体を軸に、腕を取りながらクルクルと回転。すると相手は自分がどういう体勢にいるかわからなくなり混乱し始める。
 その隙に丸め込んで3カウントを奪う、まさに美技と呼ぶに相応しい技である。
 回転エビ固めだけでなく、逆さ押さえ込み、首固め、スクールボーイなど様々な技に変化する。
 回転の途中で相手の首を取り、ネックブリーカーを決めるなどの応用編もあり、相手の意表を突くという芸術性だけでなく意外性もある技なのである。
「これまでの試合のビデオを見せてもらったけれどお嬢ちゃんに足りないのは、相手の意表を突く動きみたいだからね。丸め込み技をいくつ持ってようが、丸め込まれるのがわかっていたら技を返すのも楽なんだよ。丸め込むって言うのは、いかにして相手の意表を突くかなんだ。だから、形はひとつじゃない。今、メリッサがやって見せた例を参考にして、自分なりのものを完成させてみるといい」
 ジェニー・セイントのアドバイスを受け、愛美はメリッサを相手に自分なりの動きを模索して反復練習を続ける。
 ある程度の自分なりのイメージを愛美が掴むまで、何度も何度も反復練習は繰り返され、1時間が過ぎた。
「なんとかリズムは掴んだみたいだね。あとはレスリングを磨き続けることだよ」
「はい!」
 この2ヶ月間で愛美の目から何枚のウロコが落ちたことだろう。
 本当のプロフェッショナルレスリング、本物のプロフェッショナル・レスラーと言うものがほんの少しだけ理解できた気がする。
 そして、これからがスタートであり、リングに上がる限り、プロレスを探究し続けると言うことも。それほどプロレスとは奥深いものなのだ。
「さあて。これから教える技は私からお嬢ちゃんへの最後のプレゼントさ。今の日本マット、いや世界を見ても誰も使っていない技をお嬢ちゃんに教えてあげるよ」
 そう言うやエプロンに立っていたジェニーがリングに入る。
「さ、好きに攻めてきてごらん」
 ジェニー・自身が愛美の相手をするために、低く腰を落としレスリングスタイルで構える。
 初めてのことに緊張の面持ちの愛美。イギリス女子マット界の鉄人として君臨するジェニー・セイントのオーラ、そしてその怖さは、指導を受けているなかで骨身に染みていた。
 その実力をついに体験できる。
 緊張するなと言われても緊張してしまう。
 隙をうかがいながら手を伸ばし、指が触れるも瞬間的に引いてしまう。
 愛美が攻めるに攻められないという、膠着状況がしばらく続く。
 その膠着もジェニーがなんの予備動作もなく、愛美の懐にタックルで潜り込んでくる。
 その滑らかな動きに、ジェニーが自分と40歳近く違う老女だということが、とても信じられなくなる。
 その本物のタックルから一瞬でテイクダウンを奪われ、気が付いた時には足を取られトーホールドで固められていた。
 これは、仰向けに倒した相手の片足のつま先とカカトを掴み、外側あるいは内側に捻るもので、足殺しの基本となっているテクニックである。
 グイッと捻られるその瞬間に、愛美の頭が真っ白になるほどの痛みが足首からアキレス腱にかけて走った。
 これまで何度も掛けられたことのあるトーホールドだったが、これほどの痛みは感じたことはなかった。
 これがジェニーの言う、本当のトーホールドなのである。
 当の愛美自身は、そんなことはまったく考える余裕も無く痛みに悲鳴を上げるしかなかった。
「これからが本番だよ」
 ジェニー・セイントが言うやいなや、トーホールドに取った愛美の足を自らの足に絡め、もう片方の足も取ってクロスさせる。
 ステップオーバーする前のスコーピオン・デスロックのような形から、愛美の身体を残して、ジェニー・セイントの身体だけが回転する。
 そして、そのままジェニー・セイントの身体がマットへ倒れ込んだ。
 両足がクロスされた状態でエビに固められた愛美はまったく動けない。
「これがスコーピオン・クラッチ・ホールドだよ」
 スコーピオン・クラッチ・ホールド。
 平成9年に引退した元FMW女子一期生である里美和選手が全盛期に使用していたフェイバリットホールドであり、里選手以外には、使い手の出ていないクラッチホールドである。その威力は折り紙付きで、この技で里選手はWWA世界王者にも輝いているのだ。
 相手の両足の動きを完全に封じての変形エビ固めであるこの技は、フォールを奪うのと同時に、足のフックを深くして、伸ばした足を引くことによって変形の膝十字固めと同じ効果を持たせることができ、ギブアップも狙えるという一石二鳥の技なのである。
「いいかい。この技は相手のキックアウトを封じてのエビ固めだけじゃなく、こうやって足を引けば膝十字も極まる」
 クイッと軽く、ジェニー・セイントが愛美の伸ばされた足を引いた。
 その瞬間、愛美の全身に走った痛みは筆舌にしがたく、これまで体験したことのないその痛みに「痛い、痛い」と、あられもない悲鳴を上げてしまう。
「固める、極める。お嬢ちゃんが求めるものはこの技に集約されていると思うからね。どうするかはお嬢ちゃん次第だけれど、こんなことくらいしか私にはできないから」
 リングの上でジェニー・セイントに、技のポイントについて細かな解説と指導を受けた愛美は姿勢を正して正座をし、頭を下げた。
 感謝の言葉は幾つも駆け巡ったが、どんな言葉も、今の愛美の気持ちをジェニー・セイントへ伝えられない。
 だから、言葉にできない感謝の気持ちを、正座をして頭を下げるという行為で示したのだ。
 それがイギリス人であるジェニー・セイントにどれだけ伝わったかはわからない。
 それでも、愛美には他に心からの感謝を示す方法が思いつかなかった。
 だから、心から頭をさげた。
 そして、その思いはジェニー・セイントにもちゃんと伝わっていた。
 ただただ頭を下げる愛美に、ジェニー・セイントは静かに語り出した。
「勝敗があるものだからね、そりゃ勝ち負けは大事さ。だけれど、勝つことだけがプロレスじゃない。もちろんギミックやアングルがプロレスでもないんだよ」
 静かな語り口だったが、その一言、一言が愛美の胸に重く響く。
「いいかい。プロフェッショナルレスリングと言うものはちゃんと在るし、それがあるからプロレスなんだよ。リングに上がるから、お客の前で試合するから、ギャラを貰うから、プロなんじゃない。プロフェッショナルレスリングを身につけた者がプロレスラーを名乗れるってことを、忘れないでおくれ。それにプロレスを学ぶことに終わりはない。積み重ねられてきた長い歴史がある。その歴史をさらに積み重ねていくこともお嬢ちゃんたち、現役世代には大事な仕事。今には今のプロレスが、じゃないんだよ。積み重ねられたものがあるから、今を創れるんだからね。御託ばかり言って学びもせずに、ギミックやカッコばかりを気にするアマチュアプロレスラーにだけはならないでおくれ。老い先短い年寄りのお願いだよ」
 そう言うと、腰痛が再発したジェニー・セイントはメリッサの手を借りてリングを降りていった。
「あ、ありがとうございます!」
 愛美は、ジェニー・セイントの背中へ深い感謝を込めてそう言うと、ただただ頭を下げていた。
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