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現実の重み1
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家に帰ってきて、鍵を差し込もうとして手が止まった。灯りがもれている。帰っているのだ。茜は驚きと同時にヒヤリと冷たいものを感じた。
「ただいま」
リビングでテレビを見ていたようだ。健史《たけし》が顔をこちらに向けた。目が冷たい。怒っているのは明らかだった。
「今日は早かったのね」
なんの気もなく話しかけているように頑張ってみるが、耳には激しく打つ鼓動が響いてうるさいぐらいだ。
「お前、メシの用意もせずになに遊んでるんだよ。バイトは五時までじゃなかったのか?」
ろくな返事しかしないとわかっていても、想像通りの不機嫌な様子に不安は影をひそめて怒りが湧いてくる。それをグッとのみ込んだ。
「今日はローテーションで六時だったの」
「だったら遅くても七時には帰ってこられるだろうが。今、何時だよ!?」
時計は八時半を過ぎたところだ。茜はタイミングの悪さを呪った。いつもは十時を過ぎないと帰ってこないのに、今日はどうしたのだろう。
反応の悪い茜の様子に、健史はますます苛立ったようだ。
「ご飯、すぐ作る」
「食ってきた」
「え?」
思わずこぼしてから、今度は明確な怒りが湧いた。
だったら騒ぐことなどないだろう、と。
自分は毎日遅いくせに、私が少し遊んで帰ってきたら文句を言うのか、と。
「今日はどうして早かったの? 遊ぶ人がいなかったから?」
怒りに任せて棘のある嫌味が飛びだす。それを聞いた健史が立ち上がった。そして歩み寄ると、いきなり茜の頬を引っ叩いた。
「あっ」
「うるさい! 六時から今までどこでなにをやってたんだ!?」
「…………」
「専業主婦が家事しなきゃなんのために生きてるんだ!? 遊び回る暇があるなら働けよ」
今日の健史は虫の居所が悪いようだ。
そんなことはすぐにわかったが、茜も日頃の鬱積した気持ちを抑えきれず、言い返した。
「だからバイト始めたんじゃない! 健史が惰眠を貪ってるとか、専業主婦は暇人だなんて言うからっ! なによ、自分は毎日飲み歩いているくせに、私がちょっと友達とお茶して遅くなったら叩くわけ!? サイテー!」
もう一発、平手打ちが飛んだ。
「いたっ」
「クソ女!」
吐き捨てると、健史は身を翻し、鞄を手にして部屋から出ていってしまった。
(なによ! なによ! なによ! なによ! どうしてこんな思い、しなきゃいけないの!?)
茜の脳裏に拓斗の笑顔が浮かんだ。
彼の笑顔が押し殺していた言葉を浮かび上がらせ、茜を縛りつけた。
(自由になりたい。こんなの、ヤだ。こんな死んだような生活、もうイヤだ。自由になりたい!)
とめどない涙が溢れ、零れ落ちた。
その頃、とっくに帰ってきていた拓斗は、着替えもせずにベッドで寝転がってぼんやりと天井を見つめていた。
痩せていたこと、あまりいい顔色ではなかったこと、なにより表情が冴えないことが気になった。
いや、一番気になるのは茜が結婚していたことだ。
十年の重みを改めて感じた。
(俺が、切り捨てたようなもんだ。連絡しなかったから。茜は俺が弁護士を目指して頑張っていることを理解して、配慮してくれていた。だから自分から行動に出ることはせずに、俺からの連絡をじっと待っていた。なにもしなかった俺が悪い。だけど……)
ならば、輝いた笑顔で「幸せなの」と言ってほしい。
離婚を考えているなんて言われたらますます気になる。
どうせ――そう言って泣いた姿は痛々しかった。
どうせ帰りは遅いから、
どうせ家では食べないから、
きっとそんな言葉が続くのだろう。
心臓がキュッと掴まれたような錯覚が起こる。
(茜)
茜がどんな状況で、どんな生活であっても、拓斗が口を挟むことはできない。
明らかなDVでもない限り。あるいは、正式に相談されない限り。
とは思いながらも、元クラスメートとして助言することは許されるのではないか、友達として会って話をすることになんの咎めもやましさもないはずだ。
(しばらく通うか)
そう思い、自嘲する。そしてゆっくりとかぶりを振る。
(忙しくって茜がバイト中に行ける余裕がない。無理だな、それは)
会議、打合せ、面談、調査、裁判……スケジュール帳にはギッシリと予定が書き込まれている。
昼を抜くことなど日常茶飯事、喫茶店に通ってコーヒーを飲む時間などどう頑張っても絞りだせない。
なにより問題は、茜の勤務時間だ。何曜日の何時に出勤するのか、それがわからないことにはどうにもできない。
はぁとため息がもれた。
その時、スマートフォンがバイブ音と共に震えていることに気がついた。
表示されている文字は職場の番号だ。
「もしもし」
『先生、戸田《とだ》です』
拓斗付のパラリーガルだ。弁護士一人に専属事務スタッフが一人ついている。事務スタッフは五時までで基本残業はしないが、パラリーガルは違う。円滑に業務が進むように動いてくれている。
戸田は法科大学院には行かず、働きながら司法試験合格を目指していた。
母子家庭で生活が苦しく、大学も奨学金制度を利用していたため、とてもじゃないが法科大学院に通う余裕などなかった。
優秀で真面目で一生懸命、拓斗も彼女が早く受かるよう限られた時間内ではあるが、惜しみなく協力していた。
「ただいま」
リビングでテレビを見ていたようだ。健史《たけし》が顔をこちらに向けた。目が冷たい。怒っているのは明らかだった。
「今日は早かったのね」
なんの気もなく話しかけているように頑張ってみるが、耳には激しく打つ鼓動が響いてうるさいぐらいだ。
「お前、メシの用意もせずになに遊んでるんだよ。バイトは五時までじゃなかったのか?」
ろくな返事しかしないとわかっていても、想像通りの不機嫌な様子に不安は影をひそめて怒りが湧いてくる。それをグッとのみ込んだ。
「今日はローテーションで六時だったの」
「だったら遅くても七時には帰ってこられるだろうが。今、何時だよ!?」
時計は八時半を過ぎたところだ。茜はタイミングの悪さを呪った。いつもは十時を過ぎないと帰ってこないのに、今日はどうしたのだろう。
反応の悪い茜の様子に、健史はますます苛立ったようだ。
「ご飯、すぐ作る」
「食ってきた」
「え?」
思わずこぼしてから、今度は明確な怒りが湧いた。
だったら騒ぐことなどないだろう、と。
自分は毎日遅いくせに、私が少し遊んで帰ってきたら文句を言うのか、と。
「今日はどうして早かったの? 遊ぶ人がいなかったから?」
怒りに任せて棘のある嫌味が飛びだす。それを聞いた健史が立ち上がった。そして歩み寄ると、いきなり茜の頬を引っ叩いた。
「あっ」
「うるさい! 六時から今までどこでなにをやってたんだ!?」
「…………」
「専業主婦が家事しなきゃなんのために生きてるんだ!? 遊び回る暇があるなら働けよ」
今日の健史は虫の居所が悪いようだ。
そんなことはすぐにわかったが、茜も日頃の鬱積した気持ちを抑えきれず、言い返した。
「だからバイト始めたんじゃない! 健史が惰眠を貪ってるとか、専業主婦は暇人だなんて言うからっ! なによ、自分は毎日飲み歩いているくせに、私がちょっと友達とお茶して遅くなったら叩くわけ!? サイテー!」
もう一発、平手打ちが飛んだ。
「いたっ」
「クソ女!」
吐き捨てると、健史は身を翻し、鞄を手にして部屋から出ていってしまった。
(なによ! なによ! なによ! なによ! どうしてこんな思い、しなきゃいけないの!?)
茜の脳裏に拓斗の笑顔が浮かんだ。
彼の笑顔が押し殺していた言葉を浮かび上がらせ、茜を縛りつけた。
(自由になりたい。こんなの、ヤだ。こんな死んだような生活、もうイヤだ。自由になりたい!)
とめどない涙が溢れ、零れ落ちた。
その頃、とっくに帰ってきていた拓斗は、着替えもせずにベッドで寝転がってぼんやりと天井を見つめていた。
痩せていたこと、あまりいい顔色ではなかったこと、なにより表情が冴えないことが気になった。
いや、一番気になるのは茜が結婚していたことだ。
十年の重みを改めて感じた。
(俺が、切り捨てたようなもんだ。連絡しなかったから。茜は俺が弁護士を目指して頑張っていることを理解して、配慮してくれていた。だから自分から行動に出ることはせずに、俺からの連絡をじっと待っていた。なにもしなかった俺が悪い。だけど……)
ならば、輝いた笑顔で「幸せなの」と言ってほしい。
離婚を考えているなんて言われたらますます気になる。
どうせ――そう言って泣いた姿は痛々しかった。
どうせ帰りは遅いから、
どうせ家では食べないから、
きっとそんな言葉が続くのだろう。
心臓がキュッと掴まれたような錯覚が起こる。
(茜)
茜がどんな状況で、どんな生活であっても、拓斗が口を挟むことはできない。
明らかなDVでもない限り。あるいは、正式に相談されない限り。
とは思いながらも、元クラスメートとして助言することは許されるのではないか、友達として会って話をすることになんの咎めもやましさもないはずだ。
(しばらく通うか)
そう思い、自嘲する。そしてゆっくりとかぶりを振る。
(忙しくって茜がバイト中に行ける余裕がない。無理だな、それは)
会議、打合せ、面談、調査、裁判……スケジュール帳にはギッシリと予定が書き込まれている。
昼を抜くことなど日常茶飯事、喫茶店に通ってコーヒーを飲む時間などどう頑張っても絞りだせない。
なにより問題は、茜の勤務時間だ。何曜日の何時に出勤するのか、それがわからないことにはどうにもできない。
はぁとため息がもれた。
その時、スマートフォンがバイブ音と共に震えていることに気がついた。
表示されている文字は職場の番号だ。
「もしもし」
『先生、戸田《とだ》です』
拓斗付のパラリーガルだ。弁護士一人に専属事務スタッフが一人ついている。事務スタッフは五時までで基本残業はしないが、パラリーガルは違う。円滑に業務が進むように動いてくれている。
戸田は法科大学院には行かず、働きながら司法試験合格を目指していた。
母子家庭で生活が苦しく、大学も奨学金制度を利用していたため、とてもじゃないが法科大学院に通う余裕などなかった。
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