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現実の重み2
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「どうかしましたか? トラブルでも?」
『いえ、トラブルではありません。先崎《せんざき》所長がお越しなので、なにかあればお伝えしようと思っただけです』
先崎とは興信所の所長の名だった。
弁護士事務所は調査に興信所を利用することが多い。懇意にしている興信所の所長が、調査結果か、あるいは途中経過を報告にやってきたのだろう。
なにもない、と言いかけ、ハッとなった。
「今からそっちへ行きます。待っていてもらってください!」
拓斗はスーツのジャケットをひったくると部屋から飛びだした。
徒歩十分の所にオフィスがある。必死で走り、オフィスの扉を開けた。まだ働いている仲間たちが、息を切らせて飛び込んできた拓斗を驚いたように見ている。
「先生、そんなに急がなくても」
戸田が呆れたように言うと、拓斗は照れを隠して「所長は?」と尋ねた。
「まだ和泉所長とお話し中です。今、お茶を入れますので」
どうやら戸田は先崎がやってくるとすぐに拓斗へ連絡してきたようだ。
ホワッと大きく息を吐きだすと、自席について弛めたネクタイを締め直す。そこにグラスが置かれた。
「ありがとう」
礼を言い、一気に飲み干した。
「そんなに大事なお話でも?」
「え? あ、いや、ちょっと考え事をしていたから、なにも考えず飛びだしたんだ。それだけ」
戸田が「あら」と言ってクスリと笑った。
「いつも冷静沈着な先生が、意外ですね。それに」
「?」
「どんな時でも、ですます口調が崩れない先生が、くだけた話し方をなさるのも意外です」
「……ぁ」
「よほど大事な考え事をなさっておられたのでしょう」
戸田のツッコミにわずかと息をのみ、照れ隠しで「ははは、痛いな、それ」と返して「もう一杯もらえますか?」と続けた。
それから三十分程が経ち、ようやく和泉と先崎が応接室から出てきた。拓斗は先崎に歩み寄って時間が欲しいと頭を下げ、先崎を再び応接室へ導いた。
「折り入って所長にお願いがありまして」
「島津先生からの依頼は珍しいですねぇ。ウチは医療関係って得意じゃないから」
「いえ、そうではありません。浮気調査をお願いしたいんです」
先崎の顔が明らかに、は? というものに変わった。
「浮気、ですか?」
「そうです」
「島津先生が、ですか?」
「そうです。しかも個人的に」
「…………」
「ですから、請求は私に直接お願いします」
「それで、いかがされました?」
個人的に頼んでくる浮気調査と聞き、先崎の口調が変わった。身内と思ったのだろう。真顔になっている。
拓斗は小さくかぶりを振った。
「友人の夫の素行を調査していただきたいんです。名前は……」
言いつつ手帳を開いて一枚紙を切り離し、ペンで書き始める。
「藤本茜、二十八歳。旧姓は、榛原。豊島区巣鴨に、夫の藤本タケシ、三十歳と二人で暮らしています。勤め先はゴウダ商事、職種は経理、ポジションは主任です」
茜からさっき聞いたことを書き終えると紙を先崎に向けた。
「タケシさんとゴウダ商事の漢字はわかりません」
先崎はわずかな時間その紙を見つめ、やがて拓斗に顔を向けた。
「友人から相談を?」
「えぇ。浮気をしているかどうかもはっきりしていません。ひと月ぐらいを目安に張っていただけないでしょうか? 毎日遅いみたいなので、どこでなにをしているか、それを掴んでいただけたらありがたいです」
「わかりました」
「内々でお願いします」
先崎はニコリと屈託なく笑った。
不安を抱えてオフィスにやってくる客を安心させるには笑顔が一番。長年探偵として働き、実績を積んできた先崎のテクニックが垣間見える。
拓斗はそう理解しつつ、彼の笑顔に安堵の気持ちを自覚した。
「一ヶ月張ります。その間に、行き先、同行者の身元、金銭の授受など、諸々キッチリ押さえて結果をご報告しますよ。なにもないことがいいのでしょうが、女性の勘は鋭いから、してるんじゃないかなと思えは、ほぼビンゴです。証拠はバッチリ押さえますからご安心ください」
「ありがとうございます」
その後、先崎を見送ると、自席に戻って作りかけの資料に視線を落とした。
(証拠を押さえたら茜は絶対的に有利になる。慰謝料付で離婚することができる。決めるのは茜だ)
考えつつ、離婚を望んでいる自分がいることに気づくと、深いため息をついた。
(公私混同、職権乱用で離婚を勧めるって? 最悪だな、俺。それでどうするつもりだよ。感謝してくれても、昔の関係に戻るわけじゃない。可能性は極めて低いんだ。俺は昔の面影と、幻想を追っているにすぎない。だけど、それでも……)
茜の笑顔が脳裏に浮かんだ。
制服姿の彼女の笑顔は、やがてついさっきまで会っていた『今』の彼女の顔に変わった。
(それでもいい。俺からの連絡を待っていた時間、寂しかったはずだ。捨てられたと思って傷つきもしただろう。それをわかっていながら忙しさを理由に放置したことへの詫びが少しでもできれば)
もう一度、笑ってほしい。
なんの憂いもなく、ただただ笑顔を自分に向けてほしい。
そう思った。
『いえ、トラブルではありません。先崎《せんざき》所長がお越しなので、なにかあればお伝えしようと思っただけです』
先崎とは興信所の所長の名だった。
弁護士事務所は調査に興信所を利用することが多い。懇意にしている興信所の所長が、調査結果か、あるいは途中経過を報告にやってきたのだろう。
なにもない、と言いかけ、ハッとなった。
「今からそっちへ行きます。待っていてもらってください!」
拓斗はスーツのジャケットをひったくると部屋から飛びだした。
徒歩十分の所にオフィスがある。必死で走り、オフィスの扉を開けた。まだ働いている仲間たちが、息を切らせて飛び込んできた拓斗を驚いたように見ている。
「先生、そんなに急がなくても」
戸田が呆れたように言うと、拓斗は照れを隠して「所長は?」と尋ねた。
「まだ和泉所長とお話し中です。今、お茶を入れますので」
どうやら戸田は先崎がやってくるとすぐに拓斗へ連絡してきたようだ。
ホワッと大きく息を吐きだすと、自席について弛めたネクタイを締め直す。そこにグラスが置かれた。
「ありがとう」
礼を言い、一気に飲み干した。
「そんなに大事なお話でも?」
「え? あ、いや、ちょっと考え事をしていたから、なにも考えず飛びだしたんだ。それだけ」
戸田が「あら」と言ってクスリと笑った。
「いつも冷静沈着な先生が、意外ですね。それに」
「?」
「どんな時でも、ですます口調が崩れない先生が、くだけた話し方をなさるのも意外です」
「……ぁ」
「よほど大事な考え事をなさっておられたのでしょう」
戸田のツッコミにわずかと息をのみ、照れ隠しで「ははは、痛いな、それ」と返して「もう一杯もらえますか?」と続けた。
それから三十分程が経ち、ようやく和泉と先崎が応接室から出てきた。拓斗は先崎に歩み寄って時間が欲しいと頭を下げ、先崎を再び応接室へ導いた。
「折り入って所長にお願いがありまして」
「島津先生からの依頼は珍しいですねぇ。ウチは医療関係って得意じゃないから」
「いえ、そうではありません。浮気調査をお願いしたいんです」
先崎の顔が明らかに、は? というものに変わった。
「浮気、ですか?」
「そうです」
「島津先生が、ですか?」
「そうです。しかも個人的に」
「…………」
「ですから、請求は私に直接お願いします」
「それで、いかがされました?」
個人的に頼んでくる浮気調査と聞き、先崎の口調が変わった。身内と思ったのだろう。真顔になっている。
拓斗は小さくかぶりを振った。
「友人の夫の素行を調査していただきたいんです。名前は……」
言いつつ手帳を開いて一枚紙を切り離し、ペンで書き始める。
「藤本茜、二十八歳。旧姓は、榛原。豊島区巣鴨に、夫の藤本タケシ、三十歳と二人で暮らしています。勤め先はゴウダ商事、職種は経理、ポジションは主任です」
茜からさっき聞いたことを書き終えると紙を先崎に向けた。
「タケシさんとゴウダ商事の漢字はわかりません」
先崎はわずかな時間その紙を見つめ、やがて拓斗に顔を向けた。
「友人から相談を?」
「えぇ。浮気をしているかどうかもはっきりしていません。ひと月ぐらいを目安に張っていただけないでしょうか? 毎日遅いみたいなので、どこでなにをしているか、それを掴んでいただけたらありがたいです」
「わかりました」
「内々でお願いします」
先崎はニコリと屈託なく笑った。
不安を抱えてオフィスにやってくる客を安心させるには笑顔が一番。長年探偵として働き、実績を積んできた先崎のテクニックが垣間見える。
拓斗はそう理解しつつ、彼の笑顔に安堵の気持ちを自覚した。
「一ヶ月張ります。その間に、行き先、同行者の身元、金銭の授受など、諸々キッチリ押さえて結果をご報告しますよ。なにもないことがいいのでしょうが、女性の勘は鋭いから、してるんじゃないかなと思えは、ほぼビンゴです。証拠はバッチリ押さえますからご安心ください」
「ありがとうございます」
その後、先崎を見送ると、自席に戻って作りかけの資料に視線を落とした。
(証拠を押さえたら茜は絶対的に有利になる。慰謝料付で離婚することができる。決めるのは茜だ)
考えつつ、離婚を望んでいる自分がいることに気づくと、深いため息をついた。
(公私混同、職権乱用で離婚を勧めるって? 最悪だな、俺。それでどうするつもりだよ。感謝してくれても、昔の関係に戻るわけじゃない。可能性は極めて低いんだ。俺は昔の面影と、幻想を追っているにすぎない。だけど、それでも……)
茜の笑顔が脳裏に浮かんだ。
制服姿の彼女の笑顔は、やがてついさっきまで会っていた『今』の彼女の顔に変わった。
(それでもいい。俺からの連絡を待っていた時間、寂しかったはずだ。捨てられたと思って傷つきもしただろう。それをわかっていながら忙しさを理由に放置したことへの詫びが少しでもできれば)
もう一度、笑ってほしい。
なんの憂いもなく、ただただ笑顔を自分に向けてほしい。
そう思った。
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