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8、白日

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 陽子は俊嗣の部屋にいた。使用人たちが部屋の前に集まっているので一目でわかった。

 一番やってはいけないことだ。広い屋敷のどこかで鉢合わせすることは偶然としてあるかもしれないが、俊嗣の部屋では絶対にないことである。

 璃桜は群がっている使用人たちをかき分けて戸口に立ち、二人が向かい合っている様子を見た瞬間激しい嘔吐感を覚えた。

「旦那様が知らないはずはないでしょう!? だって破談ですよ!」
「知らないから知らないと言っているんだ。とにかく私の部屋から出なさい! 話ならリビングで聞く」

 まだ「でも!」と抵抗する陽子に璃桜は激しい怒りを覚えた。ついさっき一緒に頑張ろうと話をし、約束したばかりではないか。

「やめて!」
「璃桜?」

 陽子に駆け寄って腕を掴むと力任せに引っ張った。ふいを突かれてよろける陽子を無視しで引きずるように俊嗣の部屋から押し出すと、使用人たちに向かって部屋に連れていき、出ないように監視するように怒鳴る。それからまた部屋の中心に舞い戻って俊嗣に向け深く頭を下げた。

「ごめんなさい。約束を破ったこと、心から謝ります。申し訳ありません」
「よしなさい。お前のせいじゃない」
「いいえいいえ! 私がちゃんと言ってきかせられないからっ」

 俯いているところからポタポタと雫が落ちている。それを見て俊嗣はいたたまれないといった表情を浮かべ、璃桜の肩に手を置いた。璃桜が顔を上げる。

「ちょっとそこにお座り」
「でも……」
「いいから、早く」
「……はい」

 一人掛けのソファはローテーブルを挟んで二脚置かれている。俊嗣は膝に肘を置いて前かがみの体勢で座った。

「璃桜、お前が責任を感じる必要はない。悪いのは私だ」
「いいえ」
「聞きなさい」
「…………はい」

 しゅんと肩を落とす璃桜を見て俊嗣は、うん、と頷いた。

「二十六年前、史乃は子どもができないことにとても苦しんでいた。なんとしても華原家の跡継ぎを産まないといけないというプレッシャーがひどくて見ていられなかった。不妊治療もうまくいかないし、肉体的にも疲労していたと思う。その頃の私は、事業が行き詰っている上に大きなトラブルに見舞われて大損失を出し、大変だった時期でね。責任問題も浮上していて疲労困憊で、史乃の不妊治療になかなか寄り添えなかった。そんな私たちを見て、中森さんも中森さんなりになんとかしようと思ったんだと考えている」

 璃桜は顔を上げ、なにか言おうとしたが結局なにも言わずにまた俯いた。

「あの日は、疲れているところに苦手な酒を相当量飲んしまって、気持ち悪くなって急遽予定を変更して帰宅した。意識が朦朧としていて、なんだかよくわからないところに子ども欲しい言われて、てっきり史乃だと思った。確かに璃桜が思っている通り、間違いを起こしてしまった。史乃にも中森さんにも申し訳ないと思っている。だけど、璃桜が生まれたことは喜んでいる。史乃だってそうだ。どうか自分の出生を悪いことだと思わないでほしい」

「…………」

「お前が生まれて一番喜んだのは史乃なんだ。もちろん私もだが、今まで苦しんできたことから解放されて、史乃の顔にも笑みが戻って、どれほど私たちが救われたことか。だから中森さんにも感謝しているんだ。中森さんのことは私たちがちゃんと面倒を見る。璃桜、責任なんか感じる必要はない。自分の幸せを追求してほしい。史乃から聞いた。お前のことを好いてくれる人がいるだって?」

「え……あ、それは」
「お前はその人のことをどう思っているんだ?」

 問われて和眞の顔を思い浮かべると、全身が羞恥でカッと熱くなった。もろわかりだったようで、俊嗣が微笑ましいといった具合に笑みを浮かべる。

「だったらその人と縁が結べるように頑張ればいい。坂戸さんとのことはお父さんが謝って破談にしてもらうから」

 破談という言葉が璃桜を現実に引き戻した。

(そうだ、破談。それを聞こうと思ってた。だからお母さんも約束を破ってお父さんに聞きに来たんだ。私が不用意に話してしまったから)

 自分の軽はずみな行動が悔やまれるが、今はそんなことを考えている場合ではない。璃桜はホテルがキャンセルになり、淳也が中止になったと担当者に言ったことを俊嗣に説明した。すると俊嗣も目を丸くして首を傾げた。

「そんな話は聞いていない。坂戸さんとも淳也君とも話をする機会はなかったよ」
「じゃあ……淳也さんの単独行動?」
「そうだと思うが……いずれにしてもお前は聞きにくいだろうし、そもそもお前が確認すべきことじゃない。この件は私が対応する。だけど、どういう話になっても、破談で進める。いいね?」
「……はい」

 俊嗣は手を伸ばし、璃桜の膝頭に触れた。

「お前の言う通りにしてやれば、お前の気が済むかと思っていたが、それがよくなかったのかもしれない。坂戸さんのことも、中森さんのことも、お父さんがちゃんとするから任せてほしい。私と史乃を信じて、お前は好きなことをしなさい」

「はい。……ごめんなさい」
「謝らなくていいんだって。苦しめてしまってすまない」
「いいえ……いいえ」

 何度も首を振り、否定する。

「中森さんのことも責任を感じなくいいから、やさしくしてあげてほしい。彼女も寂しいんだよ。アルコールに依存してしまうのも、寂しいからだと思う。病気の治療は私たちが請け負うから、璃桜はただただやさしく接してあげてほしい。きっとそれが一番の治療薬だ」

「わかりました」

 璃桜はこらえきれず溢れてくる涙をぬぐうばかりだった。

 だが――

 陽子の部屋に入った途端、璃桜が激しい怒りに衝き動かされた。

「なにやってるの!」
「璃桜……あ、あの」

 手にウイスキーの小瓶がある。ノーマルなタイプなら隠せないから小瓶を買っているのだろう。璃桜は怒りのままにその小瓶を奪った。

「どうして……」
「璃桜、あのね」
「どうしてこうなの……どうして?」
「だって、その……」
「だって、なに?」
「みんなが、冷たくするから……」
「こんなに大事にされてるのに、それがわからないの!?」

 依存症は病気で、本人の意志だけではどうすることもできない。癌に向けてなぜ治らないのだと言ってもどうにもならないのと同じだ。それは頭ではわかっているのに、怒りを抑えることができなかった。

 それはたった今、俊嗣がやさしい言葉をかけてくれたからだったのかもしれない。
 あんなに心配され、気にかけてもらっているのに、という思いが心を焼きつけてくる。

 なぜわからない。なぜ伝わらない。なぜ――
 病気だとわかっている。簡単な問題ではないのだ。
 わかっている。わかっている。わかっているけれど――

「璃桜、ごめんっ、ごめんなさい、もうやめるから」

 何度も聞いた。何度も信じた。だが、そのたびに裏切られた。

「璃桜」

 頭の中がぐるぐるする。目がまわる。吐き気がする。

「もう、や、だ」
「璃桜?」
「もういい。もう知らない。私には無理」
「璃桜? どうしたの?」

 陽子が璃桜の腕を掴んで覗き込んできた。
 目が合う。

「…………」
「え? なに? 聞こえなかった。璃桜?」
「もう、どうでもいい。好きにすればいい。もう私とお母さんは他人だから!」
「あ! 璃桜!」

 璃桜は陽子の手を振り払い、駆け出した。そしてそのまま家を飛び出す。

 呆けた陽子が我に返り、璃桜が出ていってしまったことを屋敷の者たちに訴えたのはそれからしばらく経ってからのことだった。

 屋敷の者中で周辺を捜し、俊嗣は璃桜の携帯を鳴らし続けたがかからずで、北海道にいる史乃に連絡を入れた。史乃は以後の予定をキャンセルして急いで帰宅の途についた。また樹生も捜索に加わったのだが――

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